2024 年 6 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章29-34節「多くの人を癒された主イエス」

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2023.6.9

内山光生

序論

 はじめにお伝えしたいことがあります。それは、私が芥見教会において、なぜ”マルコの福音書”から説教をすることにしたかについてです。

私が神学校を卒業してから、最初にとりくんだのが”マタイの福音書”でした。単純に新約聖書の順番に従ってマタイを選んだのでした。順番からすると次はマルコといきたいのですが、私は個人的にルカが好きだったので、次にルカからメッセージをしました。

 そうすると、福音書の中で残っているのが、ヨハネとマルコになります。どちらを選ぼうかなと考えたとき、マルコの方が執筆年代が早いということに気づかされました。それなら、先にマルコをやろうという考えになりました。そういう訳でマルコを選んだのは執筆年代が早いということからです。

 さて、マルコの福音書の特徴は、イエス様の行いや出来事を簡潔に記している、そういう文体となっています。また恐らく、マルコはペテロを通して、イエス様の色々な話を聞いていたと推測できます。それゆえ、マルコの福音書にはペテロの視点が反映されていると言えるでしょう。マルコの福音書の特徴の細かい所については必要に応じてその都度、説明していくことにします。では、今日の箇所を順番に見てきましょう。

I シモンの姑をいやす(29~31節)

 29~31節を見ていきます。

 29節にある”一行”とは、”イエス様とシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ”のことを指しています。この一行はシナゴーグでの礼拝が終わるとすぐに、シモンとアンデレの家に向かったのでした。

 30節では、シモンの姑が熱を出して横になっていたとあります。何が原因で熱が出ていたのかは分かりません。普通の風邪だったのか、それともどこか病気があって熱が出ていたのか、その辺りは何も記されていないのです。だから、私たちがそれぞれ自分の頭の中で推測するしかないのです。いずれにせよ安息日でありながらも礼拝に行くことができない程に辛い状態だったのは確かな事です。

 ある人が考えるには、病人が寝ていたならば、その家を訪ねることは控えようとするかもしれません。なぜかというと、病気がうつったり、感染が人々に広がる危険があるし、何よりも、病人である当事者にとっては静かに寝ているほうが良いと思うからです。

 また、別の人は次のように思うかもしれません。「あの人は今、病気で大変そうだから、何か食べるものでも持っていってあげよう。直接、会うことができなかったとしても、それでもかまわない…」と。

 そういう風に、誰かが病気になった時に取る行動はそれぞれであって、どれが正しいかと判定することはできないのです。

 ところで、シモンたちは、家の中に病人がいるのを分かっていて、どのような行動を取ったでしょうか。それは、自分たちの姑が寝ていたけれども、イエス様を家に招き入れ、姑が熱で寝ていることをイエス様に伝えるということでした。

 シモンたちは、ここに来る直前にイエス様が悪霊につかれた人を解放する奇跡を行ったのを目撃していました。だから、もしかしたらイエス様は、姑の病気を治すことができるかもしれない、そんな期待をしたのでしょう。そしてイエス様はみごとに彼らの期待に応えたのでした。

 31節でイエス様は姑に近寄ります。更には、姑の手を取って起こされました。すると、瞬間的に熱が引いて、病が癒されたのでした。こんな事は、誰も経験したことのない奇跡です。それゆえ、シモン・ペテロにとって特別な出来事となったのです。

 その後、シモンの姑は、感謝の気持ちを表すために”もてなし”を始めました。そして、この箇所には何も書いていませんが、恐らく、姑が癒されたという噂が、町中に広められた事でしょう。

 町の人々は、すぐにでもシモンたちの家で何が起こったのかを見に行きたいという気持ちになった事でしょう。そして病気が癒されたという噂が本当ならば、病気にかかっている人々をイエス様の元に連れていきたい、そんな気持ちになった事でしょう。しかしながら、人々にとっては、すぐにイエス様の元に連れていくことができない事情がありました。

 というのもシモンの姑が癒されたのは、安息日の最中です。律法を大切にしているユダヤ人にとっては、安息日に病気を癒してもらうことは原則として禁止されていました。例外として、命にかかわる場合は許されていましたが、熱を出しているだけでは命の危険があったとは言えないです。それゆえ、ユダヤ人の律法からすれば、イエス様はある意味、「してはならない事をした」と言われる危険があったのです。

 そういう訳で、カペナウムの町には、病人が大勢いましたし、また、悪霊につかれて苦しんでいる人がいたけれども、安息日であったがゆえに人々はイエス様の元に連れていくのを控えていたのです。
 
 さて、31節から考えたいことがあります。それはシモンの姑がイエス様によって癒された後、もてなしをしたという事です。マルコの福音書は、人々の行いや出来事を中心に記しています。それゆえ、この時、姑がイエス様に何を言ったのかは省略されています。でも、姑が何も言わなかったというよりも、むしろ、「ありがとうございます」とお礼を言ったと考えるのが自然だと思うのです。そして姑は感謝のことばだけで終わるのではなく、今、自分にできる最大限のおもてなしをしたのです。こうすることによって、自分がイエス様に対して、どれ程感謝をしているかを行いによって示そうとしたのです。

 私たちは神様にお祈りをします。でも、いつも祈った通りになる訳ではありません。すなわち、祈っている通りにはならない場合があるのです。そして祈りが聞かれない時に、なんとなく、神様に対して不満な気持ちが出てくることもあるでしょう。

 確かに、模範的な祈りは自分の願いを神様に正直に伝えた後で「しかし、あなたのみこころの通りになりますように」との言葉を加えることだということが分かっていたとしても、すぐには、そのような祈りができないのが私たちなのではないでしょうか。

 人は、自分の祈りが全く聞かれないと感じるとき、神に対する信頼が揺れ動いてしまうことがあります。そんな時、「神様は、あらゆる出来事を益としてくださるお方だ」との聖書のことばを思い出して、「あ~、不信仰になってはいけない」と反省させられる、そんなことがあるのではないでしょうか。

 神は私たちの日常生活の背後にあって、いつも守り導いて下さっています。私たちが意識していてもしていなくても、神は私たちに恵みを注いで下さっているのです。

 そして、病が癒されたり、自分が抱えていた悩みが解決された結果、神様に対する感謝の気持ちで心が満たされることもあるでしょう。

 また、教会の誰かの祈りが聞かれた時に、あるいは、そのような報告を聞いた時に、多くの人々はその喜びを周りのクリスチャンと分かち合う、そういうこともあると思うのです。

 シモンの姑は、もてなすことによってイエス様に対する感謝の気持ちを表しました。同じように、私たちの祈りが聞かれた時に、神様への感謝の気持ちをなんらかの形で示したい、なんらかの行動で示したい、そういう思いにさせられるのではないでしょうか。それが、喜んで礼拝を捧げるという行動へと向かわせるのです。すなわち、聖霊の助けによって、力強く神への礼拝を捧げる力を頂けるのです。

 繰り返しますが、神様は、実のところ、いつも私たちのことを守り導いて下さっています。そして、多くの祝福を注いで下さっています。だからこそ、神様からの祝福を受けていると実感できるかどうか、それが、その人が喜んで神様に礼拝を捧げたり、奉仕を捧げる事ができるかどうかの分かれ目となっていくのです。
 

II 病人や悪霊につかれた人が集まる(32~33節)

 32~33節に進みます。

 さて、夕方になり日が沈めば、ユダや人の暦では、安息日が終わって日付が変わります。日付けが変わったので、ようやく、病人や悪霊につかれた人がイエス様の元に連れて来られたのです。

 具体的にどのような病気の人がいたのかは書かれていません。けれども他の聖書箇所などから推測すると、足が不自由な人や口がきけない人、普通の医者では治せない病の人、また、悪霊によって苦しめられていた人などが大勢やってきた事でしょう。

 更には、イエス様を一目見たいと思う人々も、シモンの家の戸口に集まってきた事でしょう。これはカペナウムの町にとって経験した事のない程の驚くべき光景です。たった一日にして、イエス様のその評判が広められたのです。

 なぜ旧約聖書の時代の人々は、モーセの律法を誤解して、自分たちで細かいルールを作り上げていったのでしょうか。誰かが病気になっていたならば、たとえ安息日であっても、お医者さんに見てもらえばいいじゃないか、と思うのです。ところが、人間は、細かく決められたルールを守る事の方が簡単であって、イエス様が何度も繰り返した「あなたの隣人を愛せよ」との教えの方が、よほど難しいのです。

 私自身、個人的には、きちんとルールを決めてもらった方が分かりやすいと思うのですが、しかし、現実には、ルールで決めても物事がうまくいかない事があるのをよく分かっています。確かにルールを決めることは簡単です。しかし、同じような出来事に見えたとしても、それぞれの背景や人の心の中の思いが色々あって、もう少し広い目で見ていかないとうまくいかない場合があるのです。

 当時の人々には、安息日には病人を癒してもらうことはいけない、という教えがありました。ですから、安息日に堂々とイエス様の元に病人を連れていくことを控えていたのです。そして、安息日が終わった途端に、イエス様の元に人々が押し寄せたのです。

 この時カペナウムの町には、癒しが必要な人々が大勢いて、当事者が病気が治ってほしいと思っていただけでなく、家族や友人・知人も、なんとかしてあの人の病気が治らないものかと悩んでいたのでしょう。それで、イエス様の噂を聞いたので、安息日が終わったすぐ後でイエス様の元に向かったのです。ここに、彼らの熱心さが現れているのです。

III 多くの人を癒す~悪霊どもがものを言うのを許さない~(34節)

 34節に進みます。

 イエス様は、人々の願いに応えていきます。すなわち、連れてこられた病人を皆、癒されたのです。具体的な人数は記されていませんが、多くの人が癒されたのでした。また、イエス様が活躍していた時代には、悪霊によって苦しめられていた人々が頻繁にでてきています。人々は、悪霊が原因だと自覚していたのです。けれども、悪霊で苦しんでいる人を助けることができる人は、ほとんどいませんでした。そのような中でイエス様が、悪霊につかれている人の中から悪霊を追い出してくださったのです。

 私たちは、自分たちの力でなんとかなる、そういう悩みならば、神様にそれほど祈ることはせずに、自分でなんとかする事でしょう。でも現実の生活の中において、しばしば、自分たちの知恵や力の限界を超えていて、もう神様に祈るしかない、という状況に立たされる、そういうこともあるのです。

 もちろん、私たちは何事においても、やるべき事はきちんとやる事が大切です。例えば、勉強もせずに「テストでいい点が取れるように」と祈るのは、あまり良いことだとは言えないのです。また、何の努力もせずに、「仕事がうまくいきますように」と祈るのは、かえってだらしない人だという印象を与えるでしょう。自分の考えを全く変えようとせずに、他人の行動が変わるのを期待しても、ほとんど良い結果は生まれないでしょう。

 人間側の努力は、ある程度は必要です。しかしそれでも、私たちは日常生活の中において、神様に頼るしか方法がない、という状況に立たされることがあるのです。その時にこそ、祈るチャンスだと言えるでしょう。私たちが、イエス様なら今の自分たちの状況を変えてくださる、イエス様ならば、私たちを良い方向に導いてくださる、そのように信じるのです。そして、へりくだった心で、素直に、自分の願いを祈るのです。

 最終的には「神のみこころの通り」になるのですが、もしも私たちが神の前で謙虚になって、神様を信頼する気持ちで祈るならば、どのような結果になろうと、神様に対して感謝を表すことができるに違いありません。

 さて、34節の後半部分には、イエス様が「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった」とあります。悪霊どもは、イエス様がどういうお方なのかを知識としては知っていました。またイエス様の力によって、悪霊どもが最終的には裁かれることを知っていました。だからこそ、イエス様は悪霊の口から出ることばによって人々が惑わされないために、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかったのです。

 前回もお話ししたように、私たちは「悪霊に対して過度の関心を持ち過ぎてもいけないし、あるいは、悪霊が存在しないと思ってもいけない」のです。どの辺りがバランスがとれているかというと、聖書がはっきりと記している、その範囲にとどまることです。悪霊あるいは悪魔は、私たちの信仰を奪い去ろうと、しばしば、霊的攻撃をしかけてきます。もしも私たちが、聖書を読んだり祈ったり賛美をささげる事に無関心になるならば、いつの間にか、霊的判断力が弱くなってしまいます。そうならないために、私たちはいつもイエス様につながっている必要があるのです。いや、イエス様につながり続けることができるように神に祈るのです。そのような祈りはみこころにかなっていますので、きっとその通りになる事でしょう。

まとめ

 神様の願いは、私たちが喜んで神様に礼拝を捧げることです。どうすれば、喜んで礼拝を捧げることができるのでしょうか。それは、イエス様が多くの人を癒されたように、今の時代においても、イエス様は私たちの悩み苦しみに対して、解決の道を示して下さるお方だと信じる事です。更には、神様に祈りを捧げる中で、神様との交わりを深めていくことです。私たちが神様を信頼し、日々、祈りを通して神様との交わりを深めているならば、その人は、礼拝を捧げることが喜びだということを心から感じ取ることができるように変えられていく事でしょう。

 お祈りします。

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