2019 年 3 月 3 日

・説教 マルコの福音書12章18-27節「生きておられる神と共に」

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2019.03.03

鴨下 直樹

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 今日のテーマは「復活」です。先日、妻とさきほど話した聖書の話しのことでこんな話が出ました。「復活」という言葉は子どもに分かりにくいのではないかと思って、「よみがえり」という言葉に言い換えようとしていたのです。ところが、最近の子どもは「よみがえり」という言葉よりも「復活」という言葉の方が、なじみが深いということに気づいたのです。子どもの遊びでもゲームでも、「復活」という言葉がなじみになるほどによく使われるというのは、考えてみればとても興味深い気がします。けれども、その場合よく考えてみると、「元の状態にもどる」という意味がそこには込められていることに気がつきます。そして、私たちはひょっとすると、聖書が語っている「復活」も、そのように考えているのかもしれないということに、改めて気づかされるわけです。

 今日の聖書の箇所は、また新しい主イエスの敵が登場してきます。よくもまあ、毎回手を替え品を替えしながら、色々な人々が出てくるものだと感心したくなります。今日新たに出てくるのは「サドカイ人」です。サドカイ人というのは使徒の働きに何回か出てきますが、復活を信じない人たちです。それ以外の詳しいことはあまり書かれていないのですが、このサドカイ人たちは、モーセの記した五書といわれる律法の書をとても重んじていました。そして、そのモーセ五書には復活のことは書かれていないわけです。それで、19節にあるように申命記に書かれている律法を読み上げました。これは「レビラート婚」と言われる戒めで、夫が亡くなった場合、その妻は兄弟に嫁ぐことによって財産を守るという考え方があったわけです。ルツ記に出てくるルツはこの戒めに従ってボアズと結婚をしています。

 19節にこう書かれています。

もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を残さなければならない。

 現代の私たちには少し理解しにくい結婚観ですが、日本でも少し前まではこういう考え方はありました。サドカイ人はこの聖書の箇所を復活がないことの証拠の箇所としてこの申命記に書かれている戒めを引用しているわけです。つまり、これはどういうことかというと、モーセの律法は、永遠のいのちということに関心があるというよりも、この世での生活に関心があることを示しているではないかということになるわけです。

 そして、続いて20節以下のところでは七人の兄弟がいて、その兄弟が次々に死んでしまった場合、その長男の妻は復活の際誰の妻となるのかという質問を投げかけます。

 サドカイ人は復活を信じていない人たちです。もし復活があるならこの妻は誰の妻となるのか。ちょっと考えてみてもそんなことはあり得ないのは明らかではないかと言おうとしているわけです。

 このサドカイ人の問いかけは一見相手をバカにしている不真面目な質問のように映ります。けれども私たちもサドカイ人と同じような考え方を持っている気がします。

 国語辞典を調べますと復活という言葉の意味は一番目の意味としては「死んだ者がいきかえること、よみがえり」となっていて、二番目に「元の状態に戻すこと」となっています。そのためでしょうか。私たちは復活ということを考える時に「元の状態にもどること」ということがどうしても頭から離れないでいます。

 そのためでしょうか、復活の後、つまり死んだあとでクリスチャンはよみがえるのだとすると、それは元の状態になることだと、つい考えてしまうことがあるのだと思います。死んでしまったペットと天国で一緒に暮らす。家族もまた天で同じように家族として暮らす。あるいは仲良し家族の場合も、天ではみんな近くに住んで一緒に暮らせるというような夢を持つこともあるわけです。

 けれども、よく考えてみるとそのように、絵にかいたような幸せそうな家族像がそこにはあるのかもしれないのですが、いろんな家族の形がありますから単純にきっとこうなるというような思い込みはよく考える必要があるのかもしれません。 (続きを読む…)

2019 年 2 月 17 日

・説教 マルコの福音書 12章13―17節「神のものを神に」

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2019.02.17

鴨下 直樹

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 「私とはいったい何者なのだろう。」みなさんは、自分のことをそう問われることはあるでしょうか。「自分とはいったい何者なのか」そんな難しいことは考えていなくても、「他の人は自分をどう見ているんだろう。」そんなことは考えるかもしれません。

 先週の金曜日に名古屋で教えております神学塾で、今年度の最後の講義が行われました。その時、私が神学生だった時に、どの講義が助けになったかという話がでました。私は、その時に、いつも「カウンセリング」と答えることにしています。本当に、この講義で、というか、この講義を担当してくださった先生によって、私は実に多くのことに気づかされたのです。その先生は、赤坂泉という先生なのですが、今は、東京にあります神学校の聖書宣教会というところで、学生主任をしておられる方です。私が学んだ当時は、もう20年以上も前ですけれども、アメリカでカウンセリングの専門の学びをされて、帰ってこられたばかりで、当時は三重県の伊勢で牧会をしておられました。先週の講義時にも話したのですが、この赤坂先生の「牧会カウンセリング」という講義の中で、ある時、まる一日かけて松坂市のある研修施設に一日「缶詰」になって学ぶ機会がありました。当時この講義をとっていたのは教職課程の4〜5人だったと思うのですがその日は、自分で自分をどう理解していて、他の人は自分のことをどう理解しているのかを語り合うという時を持ったのです。

 その講義の時に、先生は一枚の絵を使いました。その絵の真ん中には一本の木があるのですが、その木の周りに、いろんな人が描かれています。これから木に登ろうとしている人、木を登りかけた人、枝の幹のところで腰掛けている人、木の一番てっぺんに上り詰めている人、そのほかにも、木に背を向けてほかのところに行こうとしている人なんかも書かれていたと思います。そして、自分はこの絵の中のどれにあてはまると思うかということを尋ねられたのです。私は、当時神学塾で学びながら、他の教会で奉仕神学生として働いていた時です。自分の無知なことを知り、改めてたくさんのことをまだまだ学ぶ必要があるということを感じていたので、その絵をみて、私は迷わず、これから木に登ろうとしている人を指さしました。ところが、その瞬間、他の人たちから一斉にどよめきが起こりました。みんな一斉に、木の一番上にいる人を指差して、「お前はここにいつもいる」と口を揃えて言ったのです。私は、ショックでした。私はまだ、何もはじめてもいないと自分では思っているのに、周りからはまったく違うイメージで見られていたわけです。それと同時に、自分の傲慢さということに、改めて気づかされました。自分ではそう思っていなくても、周りからはそう見えるのかということに気づかされたわけです。自己理解と、他者理解というのでしょうか。こうも自分が考えていることと、人が見ている自分というのは違うのかとショックを受けました。そして、そのことは、とても大切な気づきになりました。

 みなさんはもう気づいておられると思いますが、私は普段あまり、人からどう見られているかということを、さほど気に留めません。それは、この学びを通して気づかされたことでもあるわけですが、他の人が考えること、感じることというのは、自分ではどうすることもできないということが、よく分かったからです。人のイメージに合わせていたら何もできなくなってしまうのです。けれども、多くの人にとって、人から自分がどう見られているかというのは、とても大きな意味を持つ場合があります。自分が正しく評価されていないとか、自分のことを正しく認めてもらえないということが、悲しみの大きな原因になるのです。

 今日の聖書の中に出てくる人は、パリサイ人とヘロデ党の人が新たに登場してきます。彼らを連れて来たのは、前から続いている祭司長や律法学者たちです。この人たちは、人からどう見られているかということが、気になって気になって仕方がない人たちです。今日の話は、まさにそういう中で、誰の顔色を見るのが正しいのでしょうかというような問いかけがなされているところです。

 さて、まず今日出てきた「パリサイ人」という人たちですが、この人たちは宗教的な熱心さが特徴で、律法を守ることを大切にしてきた人たちです。そして、当時のユダヤ人たちの信仰の代表者と言ってもいいような人たちでした。そして、もう一方の「ヘロデ党」というのは、イスラエル人でありながら、当時のイスラエル近郊を支配していたヘロデ・アンティパスというローマの総督の政治を支持する人たちのことです。つまり、長いものには巻かれろというような考えで、時の支配者であるローマの権力に従うことを表明していた人たちのことです。イスラエルのこれまでの伝統を大切に考える人たちと、ローマに従うことも仕方がないという人たちとでは本来、相容れない考え方のはずです。けれども、この両者は以前から主イエスを懲らしめるという点では一致していたので、ここでも手を取り合って、主イエスを陥れようとやってきたわけです。 (続きを読む…)

2019 年 2 月 10 日

・説教 マルコの福音書12章1―12節「神の信頼」

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2019.02.10

鴨下 直樹

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 こういう話から始めるのは、自分の首を締めることになるのかもしれませんが、皆さんにとってよい説教の条件とは何でしょうか。どういう説教を聞くと、ああいい説教だと思うのでしょう。もちろんいろ、色んな言い方ができると思います。何週間か前に、祈祷会に来ておられる皆さんに聞いてみました。色いろんな意見が出てきました。そして、その殆どの意見は、私にとってとても厳しいものばかりが並ならびました。

 ある方は、「説教には愛が必要だ」と言われました。ある方は「聖書の説明はいらないから、もっと自分の心をさらけ出したお言葉を聞きたい」と言われました。ある方はもっとストレートに「先生はこちらに来られた頃の説教は良かったのに」と言われた方もあります。私は、こういう言葉をとても大事なことだと思っています。そういう言葉に耳を傾けながら、人の心に言葉が届くというのは、どういうことなのかといつも考えさせられるのです。

 いま、名古屋の西地区の様々な教会の牧師たちが学びのために隔月で行っている牧師会で「届く説教になるために」というテーマで3回にわたって話をすることになっています。先月、その第一回目の話をしたのですが、そこに来られている牧師たちに、まず自分がどういう説教が好きなのか、どんな説教に心惹かれるのかと一人ずづつ聞いてみました。そこでも色いろんな意見が出でてきました。その時に、私はこう思うと4つのポイントを挙げてまとめてみました。皆さんはどう思うか分かりませんが、私はこの4つのポイントが大事だと思っています。

 一つ目は、まず聖書が分かるということです。そして、私自身が、なによりも大事にしていることでもあります。聖書が分からないと始まらないのです。二つ目は、神の御姿が見えてくるということです。神様が分かる。神と出会うと時、神の聖さに触れるとき、私たちの心は動きます。三つ目は自分の気持ちが言い当てられるということです。この三つめはかなり大事な点で、自分はこう考えていたのかと気づかされたり、あるいは、これは自分のことだと分かるという経験をするのです。そういう時に、人は涙をながします。そして、四つ目は、福音の言葉が響いてくるということです。色いろんな言い方ができると思いますが、私はこの四つのことに全て集約されると思っています。でも、その四つが分かっているからといって、いい説教が作れるということにはなりません。色いろんな妨げになるものがあるわけで、それが取り除かれていく必要があるわけです。 (続きを読む…)

2019 年 2 月 3 日

・説教 マルコの福音書 11章27―33節「神の権威と人の権威」

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2019.02.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所は、神殿の祭司長たちと主イエスが衝突しているところです。私たちもそうですが、時として人と衝突することがあります。人の意見と自分の意見が食い違う。そうすると、どうしても衝突が起こります。いさかい、争い、喧嘩、いろんな言葉で表現できます。私たちは人と言い争う時、どのようにして決着をつけているのでしょう。自分の言い分がある。言い分があるということは、話にスジが通っているということです。少なくとも自分ではそう思っているわけです。それでも、少し落ち着いて相手の言葉に耳を傾けてみる。もし、冷静に言葉を聞けるならですが・・・。そうすると、その相手の言葉にも言い分があり、それなりにスジが通っていることが分かるわけです。人と言い争っている時に、そこまでいくだけでも大変だと思うのですが、そうなってはじめて、自分の言い分と相手の言い分のどちらに分があるかということになるのだと思います。多くの場合は、相手の言葉にも耳を傾けることができず、感情だけをぶつけてしまって、後味の悪い思いをするというようなことをついしてしまっているのではないでしょうか。

今日の聖書はまさに、そういう論争、主イエスと律法学者たちとの論争が起こった時のことが記されています。そして、最終的は「分かりません」と言って、終わりにしてしまっているのを、私たちは見るわけです。
私たちは誰かとそれぞれの意見を交わす時、どうやって決着をつけているのでしょう。これは、毎日のことです。そして、信仰ということで考えてみると、神の思いと、自分の思いとがぶつかる時に、私たちはどうやって決着をつけているのかということでもあるわけで、それは、私たちが信仰の歩みをしていくなかで、常に問われることです。その時いつも「分かりません」と避け続けていくことはできないわけです。相手の意見に身を委ねるのか、それとも自分の思いを貫くのか。その時、私たちは何を手に入れ、何を失っているのか。そういうことをしっかりと分かっている必要があるのだと思います。

今日の出来事は、前の日に、主イエスがエルサレムの神殿で宮清めをなさったという出来事を受けてのことです。主イエスは神殿で商売をしている人たちの商売の台や腰掛けをひっくり返してしまわれました。そして、宮を通って物を運ぶこともお許しにならなかったというのです。それに、対して、神殿側の人間、祭司長や長老が「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問いかけてきたのです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 27 日

・説教 マルコの福音書11章12-25節「戦う主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:33

2019.01.27

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「戦う主イエス」としました。戦っている主イエスのイメージというのは、私たちが心惹かれる主イエスのお姿とは少し違っているかもしれません。私たちは、主イエスのお姿を見る時に、人を慈しみのまなざしで見てくださるお方、人を癒し、人を受け入れ、赦してくださるお姿に安心します。慰めをそこに見出すことができます。けれども、ここで出てくるような、いちじくの木を叱りつけ、呪われるお姿や、神殿の境内で商売をしている人々の台をひっくり返して怒るお姿というのは、あまり心惹かれるということはないわけです。だいたい、人が怒っている姿を見て、それが好きという人はそれほど多くはないと思います。

 けれども、この戦う主イエスというお姿は、私たちが信仰の歩みをしていくなかで深く心に刻む必要のあるお姿です。そして、ここに深い慰めがあるということを私たちは今日、心に刻みたいと思うのです。

 主イエスは何と戦っておられるのでしょう。今日の聖書を見ると、特に、いちじくの木に向かって叱りつけておられるお姿には理不尽ささえ感じます。12節で「イエスは空腹を覚えられた」と書かれています。よく、「男の人はお腹が空くと機嫌が悪くなる」などと言います。主イエスも例外ではなかった。そう考えれば、男性陣は少しそういう気持ちを正当化できる気がするのかもしれません。けれども、もちろん、聖書はそんなことを語りたいわけではありません。

 葉っぱは青々として見せかけは立派だけれども、実の無いいちじくと、祈りの場である神殿で神への思いはそっちのけで商売にいそしむ人々の姿。この両者のあり方に対して主は戦っておられるのです。それは、つまり見せかけだけの信仰との戦い、あるいは神に期待しない信仰に対して、主イエスは戦っておられるということなのです。

 たしかに、実のなる季節ではないのに、実を実らせていないいちじくに腹を立てることは非常識なことです。私たちはこの常識というものに支配されて生きています。もちろん、それは大事なことです。非常識なことを期待して生きている人は、夢見がちな人などと考えられてしまいます。けれども、神は、私たちの常識を打ち破ってことを行われるお方です。すべて自分の手のうちにあることを期待するのであれば、それは神の御業としては何も起こらないことと同じです。葉は青々としていて見かけはよくても、それだけではいちじくの実を楽しむことはできないのです。神は、私たちの思いを超えて働くのです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 13 日

・説教 マルコの福音書11章1-11節「主がお入用なのです」

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2019.01.13

鴨下 直樹

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 マルコの福音書も今日から第11章に入ります。主イエスの一行が、いよいよエルサレムに入ってくるのです。そして、今日の箇所はそのことが記されているところです。

 特に、読み始めるとびっくりすることが書かれています。エルサレムに入る前に、ベテパゲとベタニヤという町に着いた時に、主イエスは二人の弟子を遣わして、子ろばを借りてくるようにと言われました。2節です。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るすぐ、まだ誰も乗ったとこのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」

 こうやって読むと、気になることがいくつか書かれています。まず、「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」っていうのは、どうやったら分かるんだろうかと思うわけです。けれども少し考えてみると、どういうことか分かってきます。まだ誰も乗せられないと思えるほどに小さいロバということなんだと思うのです。そうすると、そんなロバをどうするつもりなんだろうかという疑問が浮かびます。しかも、つながれているのをうまい具合に見つけることができるのか、もし見つけることができたとしても、勝手に連れて来てしまっていいのかということも気になるわけです。どういうことなのでしょうか。

 結論から言うと、これは主がすでに備えておられたということです。3節にこうあります。

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

 ここに「主がお入用なのです」と言いなさいと書かれています。これは、主イエスご自身が、ご自分のことを「主が」と言われたとても珍しい箇所です。主ご自身はここで、「主」として、この世界の造り主であり、支配者であるお方ということを自覚しておられるわけです。主として、これから子ろばを用いて、エルサレムに入場しようとしておられるわけです。そして、まさに主がこの子ろばを必要としておられる。それは、旧約聖書のゼカリヤ書の9章9節にこう書かれています。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

このゼカリヤ書に書かれているように、神はすでにこのことを預言しておられ、この出来事を神は前から備えておられたのです。そのことが、ここで実現しているのです。ここで「主が」と書かれている言葉が示しているのは、この出来事を主が、神がすでに備えておられたということなのです。これからエルサレムで起こることは、すべて神の御計画であり、主ご自身がそのために働いておられるのです。

 けれども、そのようにして主自らが備えておられるのですが、それは人が願っていることとはかなりかけ離れていたということが、ここから明らかになってくるわけです。

 主イエスがエルサレムに入られるとき、そのお姿は、弱々しそうな子ろばにまたがっての入場であったことがここに記されています。この時代の人々は主イエスに大きな期待を抱いていました。確かに人々は大歓声とともに主イエスをエルサレムに迎え入れます。けれども、その姿は人々の期待と大きくかけ離れていました。颯爽と軍馬にまたがって、ローマをエルサレムから追い出すような、ダビデの再来のような救い主を期待していたのです。しかし、主イエスは子ろばにまたがっての入場だったのです。

 クリスマスにお生まれになられた救い主は、ベツレヘムの馬小屋でひっそりと生まれられたのと同じように、「平和の君」と呼ばれると言われた主イエスはここで、まさに戦いには似つかわしくない子ろばにまたがってエルサレムに入られたのです。私はこの場面を想像するときに、ドン・キホーテとサンチョパンサの姿を思い起こすのです。かたや、さっそうと馬にのったドン・キホーテに対して、従者のサンチョパンサはろばに乗っている。そんな滑稽さが、ここにあるわけです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 6 日

・説教 詩篇34篇14節「平和を求め、それを追い続けよ」

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2019.01.06

鴨下 直樹

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 2019年のローズンゲンの定めた年間聖句はこの御言葉です。テーマは「平和」です。「平和を求めよ」と言うのです。

 アメリカの映画で、特に現代のものなどを見ていますと、スピーチをするという習慣が時々出てきます。そして、たいていの場合、そのスピーチの結びとして必ず出てでて来るセリフとして「世界平和のために」と言ってスピーチを終えるわけです。もうそれは、ほとんど建前のようになっていて、少し滑稽な描き方さえされています。「世界平和」というのは、誰もが納得できる良いスローガンなのですが、では平和のために何をしたらよいのかということは、あまり問題にされません。とにかく、「世界平和」と口にすることが大事になっています。

 けれども、私たちは昨年、何度も災害を経験し、あまりにもいろいろと起こりすぎて、この世界は次々に起こる事柄に、心がついていかない有様です。元旦礼拝でもお話ししたのですが、昨年の2018年を表す漢字として「災」という字が取り上げられました。この字は、学校や企業や、アンケートをもとに決められるのだそうですが、圧倒的に多くの人が、昨年は「災い」の多い一年であったと感じているわけです。「災い」という言葉の背後には、多くの自然災害や、戦争というのがその背景に考えられるわけです。そして、私たちはこういう災いに対して、自分の力では何もなしえないという諦めの気持ちがあるのだと思います。そして、その災いという字の対極にあるのが、今回の「平和」という言葉なのではないでしょうか。

 今回の年間聖句である詩篇34篇ですが、この14節の詩篇の少し前の箇所11節から見てみると、そこではこう書かれています。

来なさい。子たちよ 私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと 日数の多いことを愛する人は。
あなたの舌に悪口を言わせず 唇に欺きを語らせるな。
悪を離れて 善を行い 平和を求め それを追い続けよ。

詩篇 34篇11~14節

 この詩篇の詩人は、子たちに「しあわせな日々を送りたいと思うなら」と語りかけています。そして、その「幸せ」ということが、「平和を求める」ということに続くように書かれています。詩篇の作者、ダビデは、ここで子どもたちに語りかけています。幸いな日々というのは、悪口を言わず、欺きを語らない。一緒に生きている人を大切にすること。まず、そこからはじめることだと語っているのです。人の悪口を言わない、人をだまさない。そういうことが、自分の幸せを作ることになり、それが平和を築き上げることになるのだと教えているわけです。

 平和というのは、ただ世界平和を訴えていれば実現するというものではないのです。子どもの時から、幸せに生きたいと願うなら、人の悪口を言わないこと、嘘をつかないこと。そういう、人との関係を築くために基本的なことをしっかりと覚えるところにしか、幸いはないし、平和もないのだということを、ここでしっかりと教えているわけです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 24 日

・燭火礼拝説教 イザヤ書 60章1―3節 「あなたの光が来る」~レンブラントのクリスマスの絵画による~

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:21

2018.12.24

鴨下 直樹

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起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

イザヤ書 60章1~3節

 今年の燭火礼拝はオランダの画家レンブラントの描いたクリスマスにまつわる絵をご覧いただきながら、聖書を聞いていただきました。

 レンブラントが最初にクリスマスの物語を描いたのは1627年、レンブラントが21歳の時で、「エジプトへの避難」というタイトルがつけられています。レンブラントは裕福な家族のもと、9人兄弟の6人目として育ちます。はじめ学者の道を進もうとラテン語学校を卒業したあと、15歳で学び始めた大学を辞めて画家の道を目指します。最初の先生に3年間ついて学び、そのあとイタリヤでカラヴァッジョの弟子として学んできたラストマンという画家のもとで絵を学びます。ところが半年後には独立しています。独立後もラストマンから学び続けたようです。そんな時代に書かれたのが最初の絵です。

レンブラント作 「エジプトへの逃避」
 私が興味を持つのは、クリスマスの物語を描く時に、大抵はもっとクリスマスらしい場面を描くのだと思うのですが、レンブラントはなぜか、この場面を選んだのです。エジプトへの避難というのは、東方の博士たちが、はじめ救い主の誕生の星を見つけた時に、当時イスラエルを支配していたローマの総督であるへロデ王のところに訪ねていったのです。そこで、聖書の預言によると、ベツレヘムで救い主が生まれるという預言があることを聞き、また、その星が博士たちを導いて、主イエスの生まれたところを訪ねることができたわけです。ところが、その後博士たちは夢を見て、帰りにヘロデ王のところに行かないように告げられたために、どこで生まれたのかをヘロデ王に知らせませんでした。そのために、ヘロデ王はベツレヘムの2歳以下の赤ちゃんを殺してしまえと命令を出すのです。その時、夢でヨセフはベツレヘムにいることが危ないと聞いて、エジプトへ避難をしたのです。

まさに、主イエスがこられたこの世界は闇と死に支配された世界であることがよく分かる出来事です。レンブラントの描いたマリヤの腕に抱かれている主イエスの光は、まだ弱々しいのです。闇の中に輝く光とはまだなり得ていません。

rembrandt_joseph_dream_1945 レンブラントがその次にクリスマスの出来事を描いたのはそれから18年後のことです。この18年の間にレンブラントは非常に多くのことを経験します。サスキアという裕福な法律家の娘と結婚をします。4人の子供をもうけますが、3人は生まれてすぐに死んでしまいます。結婚したのは1632年、レンブラント26歳の時です。ところが、この妻サスキアは結婚して8年後に亡くなってしまいます。そして、この後からレンブラントの人生は坂道を転げ落ちるようになっていきます。それまでの間、レンブラントは幻想的な装飾やエキゾチックな雰囲気を描いていたのですが、この後、そういった装飾性を排除した作品を知るようになっていきました。この2枚目の絵を描く2年前に、サスキアとの間に残った子どもの面倒を見るためにひとりの女性を雇いますが、結婚しなかったということで訴えられてしまいます。そういう生活の大変な中で描いたのが、この「ベツレヘムの馬小屋でのヨセフの夢」という絵です。この絵が描かれたのは1645年レンブラント39歳の時です。

そこには華麗な装飾はどこにも見当たりません。そして、ただ、屋根からこぼれ落ちる天からの光だけが唯一の装飾として描き出されています。貧しいマリヤとヨセフを慰めるものはただ、神からくる光だけだと物語っているのです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 23 日

・説教 テトスへの手紙2章11節「神の恵みがあらわれる時」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:47

2018.12.23

鴨下 直樹

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 明日は、クリスマス・イブです。教会ではこのイブの夜に燭火礼拝をします。今日は、アドヴェントの第四主日ですので、まだクリスマスではないのですが、今週の火曜に訪れるクリスマスのことを覚えて、クリスマスの礼拝をしようとしています。

 クリスマスというのは、神がなさった約束が実現したことをお祝いする日です。長い間、待ちに待ったものを頂くというのは、とてもうれしいものです。この季節、子どもたちを見ていると、そのことを教えられます。あと何日でクリスマスになるのか、一週間くらい前から毎日子供に質問されています。そして、時々、もうだいぶん待ったので、もうそろそろいいのではないかと交渉を持ちかけてくることもあります。何がそろそろいいのか、親としてはいろいろ考えさせられるわけですが、「まだクリスマスじゃないよ」とだけ答えます。

 きっと何か欲しいものがあるのでしょう。待ち遠しくて仕方がないのです。今日は子どもたちもたくさんこの礼拝に集ってくれています。どこの家でも似たような経験をされているのだと思います。

 「約束」というのは、きちんと果たされるべきものです。ただ、どんな約束でもそうですが、その約束が実現するためには、少し「時間」が必要です。少し待たなくてはなりません。教会ではこの約束と、この待つ時間のことを「すでに」と「未だ」という言葉で表現してきました。

 たとえば結婚の約束をするために、婚約というのをします。結婚することはすでに決まっているわけですが、まだ夫婦になったわけではないわけです。それと似ています。この結婚に備えるまでの期間というのは、とても大切な時間です。ある意味で言えば、一番いい時間を過ごすことができます。けれども、それは同時に準備の時間でもあるわけで、大変な時間でもあるわけです。

 水曜日と木曜日、教会では聖書の学びをする会が行われています。先週は今年最後の聖書の学び会となりました。それでいつもの学びをやめて、参加されているみなさんに、これまでのクリスマスの思い出を話していただきました。いろんな話を聞くことができて、とても楽しい会となりました。参加されている方は比較的年齢の高い方が多いのですが、その中で、クリスマスというと、若草物語の映画に出て来たクリスマスの場面の話や、あるいは、チャールズ・デッケンズの「クリスマス・キャロル」や、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」だとか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」だとか、クリスマスの季節をテーマにした文学の話がいくつか出てきました。今から40年前とか50年前とか、そのころに子どもであった方にとっては、クリスマスに大変な憧れがあったということがよくわかりました。今みたいに、商業化される前のことです。みなが、思い思いにクリスマスの祝い方を考えた時代です。

 祈祷会に参加されている方の中でも最年長のOさんは、友達の家にあったもみの木の枝を切ってもらって、その木の枝を家まで引いてきて、そして瓶に土を入れて、挿して立たせて、綿や、手作りの飾りを並べて飾ったというような話を聞かせてくださいました。
 クリスマスまでの4週間のことをアドヴェントといいます。このアドヴェントの期間、蝋燭を毎週ひとつずつともしてクリスマスが来るまでを心待ちにして待つのです。それはとても楽しい期間です。そこにあるのは「約束」を待ち望む心です。この約束を待ち望む心のことを「憧れ」という言葉で表現してもいいかもしれません。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 16 日

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

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2018.12.16

鴨下 直樹

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 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 (続きを読む…)

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