・説教 「ノアの箱舟5 平和に潜む罠」 創世記9章20-29
鴨下直樹
いよいよ、今回でノアの物語は最後になります。 これまでノアの生涯をみてまいりましたけれども、本当にノアは神と共に歩んだということが分かる素晴らしい生涯でした。けれども、今日の個所は少し違います。この最後のところでノアの失態が物語られているのです。
私は聖書を読みながら時々思うのですけれども、聖書の中に現れる信仰者の姿というのは、いつも完璧ではないなと思うのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムにしても、旧約聖書の代表とされるモーセも、あるいはあのダビデ王ですらそうです。誰もがどこかで過ちを犯しています。聖書はそのような事柄を隠そうとはしていません。ここでも同じです。ノアは、神の目にかなうただ一人の正しい人物であったはずです。ところが、聖書はそのような正しい人ノアの失態を描くのに何の躊躇もないのです。
このことは、本当に厳しい問いを私たちに突きつけていると言わなければなりません。
どんなに立派な人物であったとしても、自分は大丈夫だとは言えないということだからです。
ノアのような信仰の模範とすべき人物であったとしても、気を許してしまうならば、人はたちどころに罪を犯してしまうのです。どれほど長生きしたとしても、どれほど長い間主と共に歩み続けたとしてもです。つまり、罪ということには定年制というものがないということです。罪は年齢に関わらず、あるいは経験に関わらず、いつでも気を引き締め続けていなければならない事柄なのです。もうここまできたから大丈夫、信仰の歩みを長く続けてきたから大丈夫とは言えないということを、私たちは心に刻みつけておかなければなりません。そういう意味で言えば、神はこのノアに有終の美というものをお与えにはならなかったのです。
しかしながら今日の聖書を読むと、私たちはノアに同情することはできます。長い生涯の歩みがありました。ノアは家族とともに箱舟を作るという大仕事をやってのけ、自分の家族だけが大洪水の中から救い出されたのです。ノアの一生は九百五十年であったと最後に書かれています。そして、洪水の後も三百五十年生きたのです。その時のことです。長い間生きてきて、その晩年にノアは今や一人の農夫として土に向かい、これを耕し、収穫の喜びを得ることができるようになりました。晩年の本当にささやかな喜びだったと言ってもいいと思います。ところが、そうして得たぶどう酒がノアを失態へとうながしてしまったのです。 (続きを読む…)