・説教 マタイの福音書 「楽譜から読み解く聖書」

赤塚尚武 執事

2011.1.9

 

マタイによる福音書 第5章4節

 

 

 悲しむ者は幸いです。 その人は慰められるからです。 (新改訳版)

 

 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。 新共同訳

 

 Selig sind,  die da Leid tragen,  denn sie sollen getroest werden.

ルター版

 

     Gluecklich zu preisen sind sie,  die trauen; denn sie werden getroestet

     werden.

ジュネーブ版聖書最新版

 

 

 私たちは文字を通して聖書を読み、祈ったり、喜んだり、希望をもったりしています。

 画家たちは聖書の僅かの短い御言葉から、素晴らしい作品を世に残しています。

 では、音楽の世界はどう聖書を表現しているでしょうか? 

 本日は作曲家たちが、聖書をどのように楽譜に表現したのかについて具体的に見てみたいと思います。

 現在、私は国籍を問わず多くの指揮者の下振りをしています。演奏をする曲が決まると、権威ある楽譜出版社の楽譜で、何日もかけて楽譜を検証します。昨年の秋、私が指揮をしている合唱団が、南ドイツのウルムで本日取り上げる曲を演奏しました。

 本朝はブラームス作曲の「ドイツ・レクイエム」の最初の部分を取り上げ、それを具体的に検証して見たいと思います。この作曲家ブラームスはドイツの偉大な作曲家でバッハ・ベートーフェンとともに「ドイツの3大B」と言われています。彼は熱心なプロテスタントのクリスチャンでした。彼は演奏時間約80分の大作を作曲するにあたり、全ての歌詞をマーチン・ルター聖書から引用しました。

 お手もとに配らせていただいている資料の楽譜は、その曲の指揮者用総譜です。ここから聖書の世界を作曲家がどのよう表現しているかを理解しなくてはなりません。余談ながら、楽譜を見て解ることですが、聖書Bibelという言葉がつかわれていなかったことが解ります。聖書Bibelという言葉が使われるようになったのは、もう少し後になってからのようです。

 この作品はかなりゆっくりと、非常に小さな音で演奏され出します。楽譜の左上にZiemlich langsamと書かれているからです。

 

 先ず、楽譜の①、つまり上から4段目に切れ目のない音が続きます。注意して聴いていないと解らない程、初めもなく終わりもないかのように演奏されます。ここで私はいつも創世記の最初の部分をも思い起こします。更に変化もない音の継続は無限なもの、永遠なるものの存在を表し、ここからこの世の創造主、主なる神の存在を感じ取ります。

 この音はここに出てくる全ての音を包み込み、全ての音を優しく正確に支える音で、それが響きあい、『主とともにある・インマヌエル』を実感することができます。ゆったりとしたテンポは神からの安堵感を我々に与えます。この曲の場合、ゆったりとしたテンポの設定が重要です。それに適したテンポを正しいものであれば、その刻みだけで、聴く者の心が落ち着きます。

 1,2,3,4、eins, zwei, drei, vier(4拍子の基本形で指揮をしながら)… だけでそれが理解できるでしょう。そこに主なる神を現わす音が聞こえ、それがとけあい、響きあい、それを支えることが、互いに愛し合うことの基本で、神そのものなのです。

 

 続いて②では、つまり楽譜の下の方で同じ音が4個ずつ固まり、それが規則的に刻まれています。これは生きている者の命の鼓動と感じることが求められています。柔らかな低音、そこから地上での生命の鼓動を感じ取らねばなりません。

 

  *註:弦楽器のボゥーイングの刻みについても触れる。

 

 続いて③では、男性の声の高さと同じであるチェロによる旋律が初めて出てきます。命の鼓動に支えられた、つまり、音の高低と長短、そして音のかすかなうねりから、感情をもった人間の存在が確認されます。初めに、男性の声の高さと言われているチェロで奏される旋律は直ぐに女性の声の高さに匹敵するビオラに移り、感情がより豊かに、ゆったりと、重なり合って多くの人々の生存が表現されだします。

 

 その生命の存在の後の4小節に渡る複雑な動きが、混沌とした人間社会を表現した後に、感動的に④のゆったりと「Selig sind 幸せです!」とこの作品のもつ結論が合唱だけで演奏されます。

 この歌詞は「マタイの福音書の5:4」そのものです。

 その時は伴奏のオーケストラは休み、人の声、つまり合唱だけで厳かに、美しくこの言葉を聴く者の心へ語りけます。つまり、この「幸せです」という歌詞は、ゆったりとしたドーミーファの3音だけで作られています。これがドーミーソとなるとベートーフェンの交響曲第5番「運命」第4楽章冒頭や「エグモント序曲」の最後の勝利・歓喜の歌となってしまうのです。ブラームスはそれを避けて、このように3番目の音をソでなく、ミの半音だけ高いファの音に繋げて意いることで、彼の世界が、ここで醸し出されているのです。これから始まる80分余りの曲の開始を告げるのです。そして、極めて重要な歌詞であるSelig sindがゆったりと満足、完全を表す全音符を使って歌われます。

 

 ⑤では④で歌われた Selig sind が倍の速さで、表情豊かに歌われます。最初はこの曲を象徴する部分であり、続いて、念を押すかのように歌われます。

 

 ここで大切なことは、このようなことを楽譜から読み取って演奏なり、指揮をしないと、それは表面的で深い感動を伴わない演奏になり、クリスチャンとしての立場がいかされません。日本のほとんどの指揮者がクリスチャンではないので、この曲を演奏すると、ゆっくりと静かに演奏するだけで終わっているのです。

 

 今朝は楽譜のほんの短い部分を見ましたが、このように聖書と音楽作品を結びつけることができるのです。

 

 では、この部分をCDで聴いてみましょう。このCDは昨年の秋にドイツで演奏をし、現地で発売されたライブCDです。

 

     CDを聴く

 

 次ぎにこの作品の冒頭部分で語られているSelig sindという言葉にこだわりをもって見てみたいと思います。

 ここでルターは自信をもってSeligなる言葉を使っています。単なる幸せ・幸福ではなく、ドイツ語独々辞典では「神とともに」「神を通して」とか、「天国での喜び」が幸福、幸いの前に付けられています。つまり、『主なる神によって、主なる神を通しての幸せ』を意味します。しかし、この言葉を一つの言葉で正しく表現する日本語は見当たりません。私たちがクリスチャンとして求める幸せとは、この言葉にその答があるのです。

 ここでのルター聖書を私なりに日本語に訳して見ると、

 『苦しみや悩みを担う者は主なる神とともに幸せがあります。そのような人は望みを抱いて待つべきです。』

 と、ルターはsollen「~すべき」という未来への意志をはっきりと言う時に用いる助動詞を使って書いています。

 一方、日本の新改訳聖書は、

 『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるのだから。』

 優しく語りかけるように書かれています。両者のもつ言葉のイントネーションは大分違ってきます。

 だから、Seligは単なる幸福・喜び。つまり、好きなものが金さえ払えば手に入るという現代の幸福感とは全く違うことを認識しなくてはなりません。 

 私はこの歌詞のSeligは素晴らしい言葉だと思います。この「Selig 幸い」という言葉を調べて見ると、Seligはギリシャ語の「マカリオス」につながり、これは『悲しみや不遇によって消滅することのない神の祝福』を意味とされています。これが私たちの求める幸福ではないでしょうか。

 しかし、20世紀以後、ドイツで使用される聖書にも変化が見られるようになり、このSeligを使う聖書が減ってきています。ドイツ語版の共同訳聖書はSeligですが、私が最初に学んだドイツ語聖書のHans BrunsではWohlが使われ、つい最近、出版されたジュネーブ聖書(NGU=Neue Genfer Uebersetzung)では Glueklichが用いられています。これは英語のHappyで、この言葉から神の存在を見出すことはできません。

 

 このように主なる神から私たちは「Seligなる幸せ」を受けています。ここで主なる神は私たちにとってどのような方なのかをまとめてみると、余りにも多くてその全部を紹介することができません。

 でも、後藤牧師は先頃出版された『ペンギン牧師と読む聖書』で、

           主なる神はこの世に来られた救い主であり、御子であり、更に、私どもの教師である。

           主なる神は不思議な力をもたれた助言者である。

           主は人を強くされる方である。

           主は必ず助けてくださる方である。

           主は人を愛し抜かれる方である。

などと書かれています。だからこそ、私たちは、

      大胆に主なる神に祈ろう。

      主なる神の子に加えてもらおう。

      主なる神の羊になろう。

      主なる神が求めておられる人となろう。

      主なる神に喜んで奉仕することができる人となろう。

 主なる神が私たちにしてくださることを知り、それを毎日のこの世の生活で、どう答えていくのか? 自分にできることを見つけてどのように生活していくか。ここから主なる神と私たちとの関係から『 Selig sind 』が生まれると思います。つまり、神を通して、神とともにある幸せを追い求めるべきだと思います。

 そのためには、自分は貧しい者であることを知り、自分の力と考え,一方的に生きるのではなく、全てを神から求める貧しい者になるべきです。それを支える御言葉に、ローマ10:11には「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」と書かれています。この御言葉を今一度心に覚えることが大切です。

 

 

 最後に、芥見で最初に伝道が始まって、この1月18日で満30周年を迎えます。

 私は芥見で最初に伝道を始められたストルツ師が芥見に来られる前の古知野教会時代からドイツ語の学びを通して、親しくさせてもらっていたため、新しい開拓の地を小牧・春日井・名古屋市の緑区・稲沢・各務原の鵜沼と那加で探しておられた時はともに土地探しを手伝いました。しかし、いい土地は一向に見つからないまま、その土地探しをバッハ師・メッツガー師と私に委ねて79年6月にドイツへ一時帰国されました。

 翌月の7月にメツガー師による最初のドイツ旅行に参加し、途中、ストルツ宅にホームステイをしました。私はこの旅行から帰国する時には洗礼を密かに決意していました。

 帰国後、私は各務原北部から岐阜東部の地図に丸印をつけ、ストルツ師に手紙とともに送りました。そして、手紙には「この丸の中に教会ができたら私は洗礼を受けます。」と書きました。

 その後、芥見に教会ができました。

 そして、ある日、ストルツ先生の奥様のエルナ・ストルツさんがノン・クリスチャン時代に送った私の手紙と地図を嬉しそうにハンドバックから取り出して見せてくださいました。折り目はすり切れてボロボロになっていました。私はその手紙のことは完全に忘れていました。奥様は私の手紙をいつもハンドバックの中に入れておられたのです。

 芥見教会はなんと私がつけた丸印のほぼ中央にできていたのです。私は強い衝撃を受けました。主なる神さまは私にこのようなことをされたのです。私は神様から逃れることができなくなったことを痛感し、1981年4月16日の夜、夕食後に当時津保川台団地に住まいがあったストルツ師宅へ走り、洗礼を受ける決意を伝えました。

 それまで心を占めていた「私はお寺の長男。親父は現役の僧侶だ」という足かせは消えていました。

 芥見教会の最初は岡田夫妻、今は高山におられる伊藤夫妻がクリスチャン、私たち夫婦はノン・クリスチャンでのスタートでした。私たちは芥見教会で最初の受洗者となりました。

 1981年9月27日の午後に、岐阜教会を借りて、ストルツ宣教師夫妻と私たち夫婦の4名だけで行われました。だから、私どもの洗礼式の記念写真などはありません。撮影者がいませんでした。

 30年前のスポーツ店の2階、斜め下はラーメン店。その香りに包まれての4~5名でのささやかな聖書研究会。今では懐かしい思い出となっています。そこを見つけられたのが、11月にメッセージ奉仕をされたメツガー師でした。一階が2軒の店でしたが、2階は全くの空家で何の手も入れられていませんでした。早速、小さな教会にすべく工事が始まりました。それが1980年12月のことでした。

 この小さな二部屋だけの教会、そして今のこの教会を思う時、主なる神は確実に私たちの真ん中にいてくださり、私たちとともにある方で、本日、語らせていただいたSeligが決して絵空事ではないことを感謝をもって知ることができるのです。

 

 長くなりましたが、これで今朝の私の務めを終わらせていただきます。