・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節
鴨下直樹
今日、私たちに与えられている聖書のテーマは罪の赦しです。もう、キリスト教会では手垢のついた教理だと言ってもいいほどに、教会に通うようになりますと語られるテーマです。今、手垢のついた、と少し極端な言い方をしましたけれども、大げさだとは言い切れないほどキリスト教会の看板となっていると言っていい言葉だと思うのです。
先週私たちの教会は、宣教を開始してから三十周年を迎える祝いの礼拝を行いました。その間、私で八人目の牧師になるということでしたから、これまで、さまざまな宣教師や牧師から罪の赦しの語りかけを聞いてきたということになります。けれども、同時に今朝、ここで私がみなさんに問いたいことは、罪の赦しが本当に分かっていると言えるかという問いです。私たちは、なかなか罪が赦されるということについても、あるいは人の罪を赦すということについても、いつもさまざまな葛藤があります。悔い改めるということにしても簡単なことではありません。それは、別の言い方からすれば、やはり罪の赦しということがよく分かっていないからなのではないかと思うのです。けれども、私たちにとって罪の赦しがよく分かる時に、私たちは本当にこの地で自由に生きることができるし、また、私たちの伝道も、この罪の赦しがよく分かるところからしか進んでいかないのです。
今日、私たちに与えられている聖書の物語は、「中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」と記されています。この出来事はマルコの福音書にもルカの福音書にも同じように記されていますけれども、他の福音書と読み比べてみますと、マタイの福音書とはかなり異なった印象を持つと思います。他の福音書ではこの病の人を四人の友達が主イエスのみもとまで運んで来るのですが、場所がないために屋根をはがし、つり下ろしたと記されています。私たちはこのように、人の家の屋根をはがして病人をつり下ろすというような出来事は、印象的な出来事ですから良く覚えていると思います。けれども、マタイはそのような出来事は書かないで、むしろ、他のことを良く覚えていたようです。
特に、ここで主イエスが病人に向かって語った言葉です。二節にはこう記されています。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた」とあります。
興味深いのは、ここで主イエスは病の人に向かって、「あなたの罪は赦された」と語られたことです。そして、その言葉のまえに「しっかりしなさい」と言われました。この「しっかりしなさい」という言葉はマタイだけが記した特徴のある言葉です。
「しっかりしなさい」というのは、どういう意味なのでしょうか。「元気をだしなさい」とか、「勇気をもちなさい」という意味です。あるいは、「確信をもちなさい」ということの意味かもしれません。しかし、中風という病は、前にも説明しましたけれども、簡単に言うと脳溢血のような病のために体の自由が利かなくなってしまった人のことをさす病気です。体がある時から突然自由に動かすことができなくなる。そんな友人の病を見るに見かねた友達たちが主イエスのみもとに連れて行ってくれたのでしょう。そこで、主イエスはその病の人に向かって「しっかりしなさい」、「確信をもちなさい」と語りかけたのです。
しかし、何を根拠に「しっかりしなさい」、「確信をもちなさい」と、語ることができるのでしょうか。さまざまな聖書の注解書を読んでいますと、実にいろいろな読み方があります。この友達たちの信仰のゆえに、自分が癒されるという確信をもちなさいという意味だと解説しているものもあります。そういうことも言えるかもしれません。
けれども、ここで主イエスが語ろうとしていることは、やはり「罪が赦されたからだ」ということ以外にないだろうと思います。あなたの罪が赦されたのだから、もう確信をもちなさい、しっかりしなさい、と主はお語りになったに違いないのです。
これには少し説明がいるかもしれません。この時代は、すでに何度か説明をしておりますけれども、病の原因は何かというと、罪のためだという考え方が根深くありました。何か悪いことが起こっているのには、かならず理由があるのだと考えたのです。ですから、この中風の人は、色々と思い悩むことが多かっただろうことは想像するのに難しくありません。けれども、その人に向かって、あなたの問題の根本にある罪の問題はもう解決したのですよ、と主イエスはお語りになられたのです。
では、罪が赦されるというのはどういうことなのでしょうか。罪とは何かというと、何か悪いことをしたということだけに留まりません。この「罪は赦された」という言葉の中に使われている「罪」という言葉は複数形ですから、一つや二つの罪ということではありません。自分が過去にこういう悪いことをしたといって、思い出しなしながら数えられるようなものではないのです。私たちは数えきれないほどのさまざまな罪、もろもろの罪を犯しているという意味がここにはあります。
突然の病に苦しみ、過去の自分の行いにどこか間違いがあったのかと自問自答するというようなことは、ここに出てくる中風の病の人だけでなく、私たちも同じように考えることがあります。そのような者に、主イエスは、あなたが抱えているもろもろの罪は赦されたのだ、とまるですべてを見通しておられるかのようにお語りになるのです。
ここで、新改訳聖書は注をつけておりまして、直訳「赦されている」と書いています。大変興味深いことです。私たちが、人の罪の悪いことを許すという時に、相手に反省を求めます。相手に、自分の非を認めるかと詰め寄りながら、相手が「私が悪うございました」、「私の間違いでした」とそれこそ頭を下げて謝るならば、そこまで言うならば仕方がない、許しましょうということになります。けれども、主イエスはここで、そのように語ってはおられないのです。
私たちはこのことをよく読み取る必要があります。相手が反省をしたから許した、と主イエスはここで言っておられないのです。むしろ、私がすでに赦したから勇気をもつがいい、安心するがいい、しっかりするがいい、と励ましてさえくださっているのです。
私たちが人のことを許そうとする時というのは、相手が非を認め、反省して、ごめんなさいと言った時に初めて相手を許そうとします。けれども、主イエスはそうではないのです。このことを私たちはよく理解していなければなりません。
罪の告白が赦しの土台ではないのです。そうではなくて、キリストの赦しの御業があって、はじめて人は赦しの前に立つことができるのです。自分のようなものが赦されるということを知って初めて、私たちはキリストの前に立つことができるのです。キリストの招きがあるから、私たちはキリストの前に立つことができるのです。
考えてみますと、私たちの伝道もそうではないかと思うのです。誰かを主イエスの前に招こうとする時に、まずあなたは自分の悪いことを先にきちんと反省してから、教会に来なさいなどという招きはしません。赦しが語られている、私たちの本当の問題の解決が与えられることを知っているから、私たちは私たちと一緒に生きている人を、主の御前に招いてくることができるのです。そして、罪が赦されてはじめて、人は信仰に生きることができるようになるのです。
ですから、時々伝道集会というような名前で説教が語られる時に、私たちはキリストがあなたの心の扉を叩いているけれども、その扉のノブは自分の側にしかないので、自分で内側から扉を開けなければならないというようなことが語られます。そのとき、私たちは気をつけていなければなりません。あるいは、キリストが上から手を差し伸べてくださるけれども、自分で救ってくださいと自分の方からキリストの手をとらなければならないのだ、という語り方を聞くときも、気を付けていなければなりません。そうすると、どこまでも、自分の応答が、自分の決断が、それを言い換えると、自分の行いが信仰を決定するということになるのです。
私たち福音派の教会というのは、敬虔主義の影響を色濃く受けています。この敬虔主義というのは、キリスト者の信仰は外側に善く表されるということを強調しました。私たちの行いが変わる、生き方が変わるのだと強調してきたのです。それはとても大切なことですけれども、そこで、自分の信仰さえもが自分の行いで得られるとすれば、少し考えなければなりません。そのような伝統から、これまで神の働きだけではなくて、自分の側での信仰の決断も同じように大事だというようにこれまで語られたことが実際にあったと思いますし、そのように伝道集会で聞いた、あるいは、そこで決心したのだという方も中にはあるかもしれません。もちろん、そのような中で、神様が働いて下さるということを私は否定いてしませんし、そのような中でこれまで多くの祝福をいただいてきたといってもいいかもしれません。けれども、そこで罪の赦しが、自分の反省したことの結果として得られると理解するならば、私たちはやはり神様にしかられながら、それこそ裁かれるのだからというような裁きの前でしか悔い改めることができなくなってしまうのです。このことが、よく理解されていないと私たちは神の赦しということがよく分からないのです。よく分からないから、私たちが人を許すときにも、自分の方からゆるすということができなくて、ゆるしということから自由にならずに、相手が反省して、その反省した態度を示すことをまず求めてしまうのです。けれども、それは主イエスがなさることではないのです。
この主イエスのなさり方を見て、それを見ていた人々は何と思ったかというと、そんなことは間違っていると思ったのです。人をゆるすなどと言うのは傲慢だと言うのです。そんなことは人にはできないだろうと腹を立てたのです。この気持はよく分かります。こんなことは、神だけゆるされることで、人間は人を赦すことができないのだと考えてしまうからです。
ですから、ここで主イエスは「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われたのです。これを見ていた人々はこう考えたのです。人間には罪を赦すなどということはできないのだから、ここで「あなたの罪は赦された」と言われたのは口先だけのことで、実際にこの病の人の根本的な問題は解決されていない。口で言うだけなら簡単で、心の問題はもう大丈夫だから、いつかよくなるでしょうと言って、この男は逃げ去るつもりだとでも考えたのです。
ですから、主イエスは続く五節で「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け。』というのと、どちらがやさしいか。」と言われたのです。もちろん、人々は心の中の問題はみえないから、罪は赦されたという方が簡単だと思ったのです。そして「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って。中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた」と六節にあります。
主イエスはここで、「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために」と言っておられます。そして、主イエスは罪の赦しと同時に、その人の病をも癒されたのでした。どちらも簡単なことではありません。罪を赦すということ一つとっても、私たちは自分のことですらちゃんと赦すことは難しい。けれども、ここで主イエスが赦されているのは、私たちがする個人的な何か嫌なことをされたとかというような、心の中に起こる感情のことではなくて、その人そのものをまるごと救われたということです。神の前によしと認められる者となさなったということです。そして、同時に病をも癒されたのです。
けれども、この聖書を読んでもっと驚くのは、この最後の言葉です。八節にこう記されています。「群衆はそれを見て恐ろしくなり こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」という言葉です。しかも、やはり新改訳聖書にはこの「人に」という言葉に注がありまして、「あるいは『人々』」と記されています。ここで言われているこの権威が与えられた「人に」というのは、一つの読み方からすれば「人間」である主イエスにと読むこともできますけれども、同時に「人々」と読むこともできる言葉が記されていまして、これは、この権威は「教会」に与えられたのだと読むことができるのです。
そして、マタイが他の福音書と違って強調しているのは、この罪を赦す権威が教会に与えられているということです。教会とは誰かと言うと、私たちにということです。今日は残念ながら聖餐を祝うことはできませんけれども、聖餐の時に、聖餐のパンと葡萄酒をいただいた後で、時折「あなたの罪は赦された」と宣言することがあります。初めてこれを聞いてびっくりされた方もあるようですけれども、私は教会でこの言葉が語られなかったとしたら、一体どこで語ることができるのかとさえ思っています。教会は、罪を赦す権威を神から与えられたことです。それは、主イエスが私たちにその権威を与えてくださったからです。
そこで、私たちが間違えてはならないのは、私たちは人の罪を赦すことができるような立派な人間になったということではありません。そうではなくて、この罪を赦してくださる主イエスのもとに、この中風の人の友達のように、招いてくることができるからです。そして、そこで語られるのは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている」という言葉を継げることです。私たちの罪を赦してくださる方の御前に人を招くのが、私たち教会の務めです。それは、主イエスの伝道していた時から、この芥見で三十年伝道が続いた今日までまったく変わりません。私たちはこのことを伝えるために、これからもこの地で伝道しいていくのです。そのために、わたしたちは主イエスが私たちの罪を、まったく無条件に赦してくださる方であるということを、よく覚えていなければなりません。そして、わたしたちもこの赦しに生きるということを、よく覚える必要があるのです。その時、私たちは罪から自由になることができるのです。
かつて、教会の父と言われたアウグスチヌスは、「第一に知るべきことは、あなたが罪びとであるということだ」と言いました。そこで、私たちは、わたしは罪が赦されたものなのだということを知るのです。私の罪は、神の前に正しくないこと、人として様々な過ちをしてしまうこと、様々な弱さは、主イエスによって赦されるということです。
人を赦すことから始めようとすると、私たちはどうしても苦しくなってしまってしまうのですけれども、まず、自分が赦されているという事実の前に立つときに、私たちはキリストが与えてくださる信仰に生きることができるのです。
この信仰さえもキリストが私たちに与えてくださるのです。私の罪を赦してくださる、このお方を信じていきたいという思いもまた、私たちは与えられるのです。その時に、私たちは、このお方によって「しっかりしなさい」と言われているように、確信を持って生きることができるようになるのです。病を抱えているかもしれない。自分の性質に大きな欠点をもっているかもしれない。自分の力ではどうすることもできない、さまざまな課題を抱えているかもしれない私たちに向かって、主イエスは、あなたの罪は赦されたのだから、しっかりしなさい。確信を持って、立ち上がって、生きなさいと語りかけてくださるのです。
私たちのいのちは、この主イエスによって確かな足取りへとかえられるのです。ここに、主イエスのところに、私たちのすべての生活の土台があるのです。
お祈りをいたします。
アーメン