2011 年 3 月 13 日

・説教 マタイ10章16-23節 「言葉を与えてくださる神」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:40

 

 

2011.3.13

鴨下直樹

 

 

 先日の金曜日、午後三時、大きな地震が日本を襲いました。非常に長い揺れが続きました。いつも、大きな地震が起こる時というのは、被害の大きさが後になればなるほど大きくなります。はじめのうちの報道を見ながら、この程度の被害で済んだのかと安心していると、次々に続報が報じられ、被害の甚大さが次第に明らかになってきます。東日本巨大地震という名前が付けられたこの地震は、日を重ねるごとに被害の大きさが明らかになってきます。おそらく、みなさんもテレビに釘づけになりながら、家族や知人のことを心配しておられるのではないかと思うのです。

 今、私たちは主からどのような御言葉を聴き取るべきなのでしょうか。私は何度も、何度も、今朝の説教の聖書箇所を変更するべきではないかと悩みました。私たちが今、直面している問題と、今朝私たちに与えられている御言葉との間に、大きな隔たりを感じたのです。

 ところが、説教題を見ますと、「言葉を与えてくださる神」という題がつけられています。ひと月も前につけた説教題です。けれども、この言葉を与えてくださる神という説教題をつけながら、今朝、私には言葉が与えられていないので、ここから説教するのは止めにして、他の箇所から説教するということは、この主に対して説教者のとるべき立場ではないと考えさせられました。この説教題に、私自身大きな励ましを受けながら、今朝は、私たちに与えられているこの御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 

 

 さて、今週の水曜日から受難節、レントを迎えました。この四十日の間、キリストの苦しみを覚えながら過ごすように教会の暦では定められています。私たちにとっては、この地震はまさに受難であると言うことができるかもしれません。私たちの日常の様々な苦しみがありますが、このような突然起こる自然災害というのは、自らの力、努力ではどうすることもできないほどの圧倒的な力を持っています。そして、私たちはそのような圧倒的な力に対して、抵抗しうる力を持ちません。だからでしょうか、このような出来事を前にして、私たちはいつも以上に人間の持つ無力さということについて、良く考えることができるのかもしれません。

 今日、私たちに与えられている聖書の箇所は、先週から続く主イエスが弟子たちをこの世界にお遣わしになるための備えとして、どのような心構えでいるべきかを教えられたところです。もちろん、直接的には伝道ということが語られているところです。けれども、伝道するということに留まらず、ここに語られている主イエスの言葉は、キリスト者はこの世界でどう生きるのかということを示された言葉です。

 私たちの日常というのは、地震という非日常的な出来事や、毎日繰り返されるありふれた出来事の中で営まれています。そして、そのようなすべてを含む私たちの生活が、私たちが生きるべき世界なのであり、主イエスが遣わされた地であると言うことができます。

 

 そこで、主イエスが弟子たちにどのようにイメージを持って弟子たちを見ておられるかというと、ここに「羊」のイメージとして描かれていることに、私たちは戸惑いを隠すことができないのではないかと思うのです。羊というのは、弱い生き物の代表といってもいいものです。その羊に譬えられているのです。

 「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」と十六節にあります。私たちが生きる世界は狼なのであって、私たちは羊だと言われる。そこですぐに考えさせられるのは、この世界が狼に譬えられていることに同意することができるかということです。この中にも、家族の中で、自分だけがキリスト者であるという方々は少なくありません。この説教を聞いて、今日家に帰られてから家族に向かって「今朝教会に行ったら、私はあんたたちが狼だと教えられてきた」などと言おうものなら、もう来週から教会に行くなということにだってなりかねません。

 私たちの周りの人々、私たちの生活環境のすべてが悪いもので、自分を脅かすものでしかないなどということは言えないだろうと思います。あるいは、私たちの方が羊のようにしおらしくしているばかりとも言えません。家に帰ったら、まるで狼のように吠え続け、人を威嚇してしまうということだってないわけではないでしょう。自分ばかり、キリスト者ばかり弱い者のそぶりをする、自分ばかり善人ぶってという非難がでることもあるだろうと思うのです。

 

 この新改訳聖書では、この十六節の冒頭の言葉、「いいですか。わたしが、」と書かれている、この「わたし」の後に句読点が入れられています。この言葉は、原文のギリシャ語で非常に強調された言葉です。新共同訳聖書では、「わたしはあなたがたを遣わす。それは・・・」とやはり、この「わたし」という言葉が強調されるように訳しております。ここで、私たちが忘れてはならないのは、この言葉を語っておられる主イエスが、ここで、主語で語られているということです。

 

 今、レントを迎えました。今、私たちは主イエスの受難の苦しみに心を寄せながら、この季節を迎えています。そこで、私たちがどうしても考えなければならないのは、主イエスはこの苦しみを何のために耐え忍ばれたのかということです。

 先ほどイザヤ書五十一章のみ言葉を聴きました。たとえば六節にこのように記されています。「目を天に上げよ。また地の下を見よ。天は煙のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」との御言葉を聴きました。

 今、私たちが直面している問題、この地震という大きな災いによって多くの人のいのちを奪って行きます。そこで、私たちは自然は怖いとか、地震が怖いということをまず考えます。しかし、預言者はここで語るのは、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ」と、神の永遠の慰めについて語ります。私たちが知らなければならないのは、この地上で幸せに、何不自由なく生活することではなくて、この真の神のとこしえの救いの中に生きるということです。

 そして、主イエスはこの真の救いをもたらすために、永遠の慰めの世界に、この世界の人々を招くためにお出でになられたのです。私たちはそこのことを忘れてはならないと思います。この救いを私たちにお与えになるために、自ら、この受難節において苦しみを味わわれたのです。預言者イザヤはここで、この世界の人々が、この世界の人々を恐れ、この世界にだけ目が奪われてしまっているけれども、本当の慰めを与えることができるのは、「わたし」とここで語られている、主なる神以外にないことを忘れてはならないということを訴えています。そして、この言葉こそ、今、私たちが聴かなければならない御言葉だと思うのです。ことを行われるのは、このご自身で御業を行われる「わたし」と言われる方、主ご自身なのです。

 そして、私たちは主イエスによってこの地に遣わされている、派遣されているということです。それは、私たちの生活する環境がどうであるとか、私たち自身がどうであるかということよりも先に問われるべきことです。主イエスは私たちをこの世界に派遣し、そのために私たちに励ましを与えてくださるのです。そして、そのために、私たちが知っていなければならない、大切なことは、主イエスご自身、神によってこの地に遣わされておいでになったという事実です。そして、主イエスご自身、この世界に、まさに羊のようにいてくださったのです。

 

 

 この主イエスの言葉の中には、いくつもの厳しい言葉が語られています。「人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから」と十七節にあります。「人々があなたがたを引き渡したとき」と十九節にあります。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」と二十二節に語られています。それは、主イエス自らが受難節の間、この地において味わわれたことばかりでした。そして、今日の私たちにとって、このような言葉はあまり意味を持たないと思えるほどに、私たちは、ここで語っていられる主イエスとは、かけ離れたところに私たちは生きてしまっているのでしょうか。ここにさまざまな言葉でしるされている姿は、ご自身がまさに羊のように歩まれた主イエスご自身のお姿と深く重なります。けれども、私たちのことと言われると、自分とはあまり重ならないように感じてしまいます。

 私たちはこの時代に、むち打たれることもなければ、信仰に生きるがゆえに、裁判に訴えだされることもなく、すべての人々から憎まれるということもありません。むしろ、すべての人々に受けられたいと願いながら伝道していると言えるかもしれません。けれども、私たちは同時に、信仰に生きるがゆえに、さまざまな困難を経験します。迫害とは言えなくても、現実的な難しさを生活の中で味わっています。そのような中で、主イエスが私たちに語っておられるのが、この御言葉なのです。そして、ここで主イエスが語っておられるのは、羊のように生活しなさいということです。それは、言い換えれば、主イエスのように歩みなさいということです。

 

 けれども、私たちはこの羊のような主イエスのお姿に、一面では惹かれていても、自分自身がそのように生きることを、あまり喜びとはしません。むしろ、狼のようになりたい。自分の持っている牙という武器で人にかみつき、やり返したいと願うし、できれば羊の皮をかぶりながらも、心の中は狼のようでありたいと考えてしまうところがあるのです。なぜなら、自分で自分の身を守らなければならないと考えているからです。いや、考えているだけではなくて、日常の生活体験が、私たちにそう教えるのです。自分の身は自分で守らなければ誰が助けてくれるものかということを、私たちは、嫌でも毎日経験しているのです。

 

 しかし、ここで主イエスが語っておられるのは、狼になる代わりに、勇敢な羊になりなさいということすら言ってはおられません。たとえば、今日の最後の二十三節には「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と言っておられるのです。踏みとどまって戦うことが信仰ではないかと、主イエスはここで語っておられないのです。羊は、羊でも、正念場では根性みせてがんばりなさいと、主イエスは言っておられないのです。「次の町に逃れなさい。」という言葉の後に何が記されているかというと、「人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡りつくせないからです」とあります。

 この言葉は少し説明がいるかもしれませんが、「人の子」という言葉は前にも一度説明いたしましたように、再臨のキリスト、神の裁きという言葉と結びついて理解された言葉です。この世界が裁きの時までにあなたがたはすべてのエルサレムで伝道をすることはできないだろうと言っておられるのです。完全に福音を語り終えてから、終りの時がくるのではない、語りつくせない、回りつくせない、中途半端であるということです。主イエスは全部の人々に何が何でも福音を語り伝えなさいと言わなかったのです。

 もちろん、私たちはすべての人々に、この救いを知ってほしいと思います。ですから、この五週間後、いよいよ主イエスが十字架におかかりになる週、受難週の日曜日にはマタイの受難曲のコンサートをして、地域の人々をこの教会に招きたいと考えています。ひとりでも救われて欲しいと考えているのです。けれども、同時に、主ご自身が、どれほど伝道しても、十分ではないということを知っていてくださるのです。

「次の町に逃れない」と主イエスはそのように語ることのできるお方なのです。私たちがドイツにおりました時に、最後の半年間、Willden(ウィルデン)という町の教会で実習をいたしました。その教会で家庭集会に出たり、子ども集会をしたり、学生会をしたりしました。この教会の牧師は、かつて日本で宣教師として働かれたクノッペル宣教師です。私は日本のいたころから大変親しくさせていただいていたので、このクノッペル先生と一緒に働くことができたのは、本当に大きな慰めでした。

 このクノッペル先生が、最初に日本に訪れた時に、愛知県の外れの三重県との県境の町で伝道を始められました。一所懸命に伝道したのですが、誰も教会に加わることはありませんでした。それで、その町で伝道をすることをやめる決断をいたしました。その最後に、この人は、その町を出る時に、「自分の靴のちりを払い落とした」と、わたしに話してくださいました。これは、この前のところ、十四節に記されているとおりにしたのです。「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその家を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい」。と記されているとおりにしたのです。

 このクノッペル先生は、主イエスがこう語ってくださったことが、どれほど大きな慰めであったかと語ってくださいました。主イエスご自身、ご自身の言葉が届かないことを経験しておられたお方です。人々がどれほど頑ななのかを、主イエスほど知っておられた方はいないのです。絶対に、何が何でも上手くいくから歯をくいしばってでも伝道しなさいと言われなかったのです。

 しかし、同時に「私の名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」とも二十二節でお語りになられました。伝道するということは、忍耐がいることだということも、主イエスは同時に語っておられます。主イエスは、迫害があるなら逃げなさい、耳を傾けないなら去りなさいと言われながらも、この信仰に生きることは忍耐が必要なのだということをしっかりと見据えておられるお方です。成功しないからあきらめる、言葉が届かないからやけを起こすということではないのです。耐えるのです。主イエスご自身、自由に伝道することがおできになった方であると同時に、忍耐に生きられたお方です。羊として、狼の中にあっても耐えることのおできになったお方でした。なぜでしょうか。主が支えてくださるからです。神が支えてくださるから、耐えることができたのです。

 主の支えがあるのです。ですから、十九節、二十節において「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのときに示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」とお語りになることができたのです。

 神、主が支えてくださるのです。聖霊が助けてくださるのです。キリストが私たちを理解し、励ましていてくださるのです。この三位一体の神に私たちは支えられているから、私たちは勇気をもって、羊のように歩むことができるのです。

 

 私たちの生活は、地震の恐怖の中にあり、周りの人々の無理解があり、狼の中に置かれているような恐怖を感じ、迫害を感じるほど厳しいものであったとしても、主が私たちを支えてくださるのです。そして、この主は私たちに語るべき言葉を与えてくださるのです。私たちの内側に語るべき言葉あるということは、自分の中に、そのような言葉に生かされているからできることです。私たちの内側に、私たちを生かす言葉があるからこそ、私たちは、周りの状況に関わりなく、語ることができるのです。周りの人々の言葉が私たちの困難となったとしても、あるいは、地震や、さまざまな私たちの周りの状況が私たちを困難にしたとしても、私たちを内側から支える神の言葉が、私たちを支えるのです。私たちの内側に働きかける神の言葉によって、私たちは立ち続けることができるのです。そのような言葉が私たちのうちにある時に、私たちは周りの人々に言葉を語りかけることができるのです。人を生かす言葉をもって、人を慰める言葉、人を励ます言葉、人に生きる道を示す言葉が、このわたしの口から言葉となって、語り出すのです。 ですから、勇気をもってください。羊のように歩むことができる。そのように主によって支えられているのです。

 

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.159 sec. Powered by WordPress ME