・説教 マタイの福音書18章21-35節 「忍耐するのではなく」
2012.1.8
鴨下 直樹
今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は「ゆるし」についてのペテロの質問からはじまります。 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。二十一節の言葉です。
ゆるすという言葉は漢字で書くと二種類あります。許可の「許す」という字で書く場合と、恩赦の赦という文字を使う「赦す」という言葉です。特に、教会ではこの二つの言葉を注意して使い分けて使う場合が多いと思います。
私は昔、この言葉の説明でこんなことを聞いたことがあります。この恩赦の「赦す」という文字は、神にしか使うことができない言葉で、私たち人間は人の犯した過ちを許可する、認める、という「許す」ということしかできないのだと。その時、なるほどと思いながらその説明を聞きました。ですから、ゆるすという言葉を使う時に、聞いている方が分かるかどうかは分かりませんけれども、説教の原稿などにはひらがなで「ゆるす」と書いていました。
けれども、この聖書の個所をよく読んでみると、こういう考え方、許可するという許すは私たちにはできるけれども、本当に、その罪を赦す、というここで使われている赦す行為は私たちにはできないと言ってしまっていいのだろうかと考える必要があるのではないかと思えてならないのです。
もちろん、そのような説明をみなさんが聞いておられるわけではないでしょう。けれども、私たちに大切なこととして教えられている赦すということが、どういう意味で語られているかを、聖書はここできちんと語っていますので、少し注意深く聞いていただきたいと思います。
「何度まで赦すべきでしょうか。」とここでペテロは主イエスに問いかけました。このペテロの問いかけは、何度まで「許可」すべきでしょうかという意味合いで、「許す」と言っているのではないかと考えることができるかもしれません。誰かが、自分に対して腹の立つことをする。それを許してやる。二度、三度と同じことが繰り返されていくと、大抵はそこで我慢の限界、怒りが爆発してしまいます。
よく、「仏の顔も三度まで」と言いますけれども、実際にこの聖書に時代も、赦す限度として三度までと律法の教師たちも教えていたようです。
実際に、こういう話は、誰か他人の話であれば、そのくらいは忍耐できるかもしれないなどと冷静に考えることができるかもしれませんけれども、何かをされている当人であれば、三度も許すなどということはよほど忍耐深くなければできないことです。
ペテロにしてみればそれを「七度まででしょうか」と尋ねてみたのです。そこには、律法の教師たちでさえ、三度で十分と教えていたのですから、七度というペテロの言葉はさらに上をいっているわけで、主イエスから良く分かっていると褒められると考えていたのかもしれませんし、あるいは、いや、三度も赦せばそれで十分と主イエスもおっしゃるかもしれないと考えていたのかもしれません。それほどに、ペテロのこの言葉は、当時の考え方からすれば、そうとう進歩的な考え方でした。
ところが、主イエスはここでこう答えられました。「七度まで、などとわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」。とお答えになったのです。これにはペテロも驚いたに違いないのです。ペテロの予想をさらに上回って主イエスはお答えになられたのです。
しかし、赦すというのはそもそもどういうことなのでしょうか。許可するという「許す」の場合、そこには相手のしたことを受け入れる、許容するというような意味合いがあります。そうだとすると、三度も許容したというのは、相当忍耐したことになります。それを七度までというのですからかなりの忍耐です。けれども、主イエスはそうではないのだということをここで語っておられるのです。
ペテロはここで赦しを自己犠牲と理解していたことが分かります。自分が何かされても我慢する、忍耐する、その我慢は七度までしめせば十分こちらの思いは相手に示すことができるだろうと考えたのです。けれども、主イエスはそうではありませんでした。それが、この後で語られた主イエスのたとえ話の中に表わされています。
そのたとえ話が二十三節の後半から記されています。はじめの話は二十七節までです。王に対して一万タラントの借金をしていたしもべの話です。あまりにも莫大な金額で返せる見込みもないそのしもべを王が赦してやったという話です。
この話はしかし、注意深く読む必要があります。まず一万タラントの借りですが、一タラントは六千デナリに相当すると新改訳聖書の注に記されています。この一デナリという金額は大人の男が一日働いて稼ぐことができる労働賃金です。もっとも単純に考えて、一日働いて一万円と考えれば、六千億円という金額になります。その金額の借金がありながら、しもべは王に向かってこう答えています。「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」。そのように二十六節にあります。この莫大な負債を抱えたしもべは、その金額を返すと言っているのです。借金を帳消しにしてほしいと言っているわけではありません。
そこで王はどうしたかというと、続く二十七節には「しもべの主人はかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」とあるのです。
主イエスのこのたとえ話で、主イエスは赦しをどのように語っておられるのかというと、それは、反省したしもべの態度に心動かされてということではないのです。返すこともできない借金をしてしまってごめんなさいとしもべは言ったとは書かれていません。ただ、王が、かわいそうに思ったという、王の同情がこの赦しの根拠です。
赦しというのは、相手の人間性に応じて決めるのだというように、主イエスはここで記してはいないのです。
ところが、主イエスの話はそこで終わりません。続きがあるのです。このとてつもない金額を赦されたしもべは、今度は同じしもべ仲間を見つけます。その男はこのたった今借金を赦された男から百デナリの借金をしていました。金額に直せば百万円ほどになります。先ほどと同じように、この仲間は「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と言います。ところが、この借金を赦された男は、仲間を赦すことをせずに、牢に投げ入れてしまったというのです。
新改訳聖書はこの「しもべ」と「仲間」を見事に訳しました。王に仕えていた「しもべ」は、「ドゥーロス」というギリシャ語が使われています。これは、奴隷とも訳される言葉ですけれども、一万タラントもの金額を任されているのが奴隷とは考えにくいので、「しもべ」と訳しました。一方で、この仲間と訳されている言葉は、「シュンドゥーロス」という言葉です。この「しもべ」と訳されている「ドゥーロス」という言葉の前に「シュン」という言葉が付いています。これは「一緒の」という意味の言葉ですから、自分と同じ立場のしもべということが分かります。それで、「仲間」と訳しているわけです。ですから、そこに上下関係があるわけではなくて、言ってみれば自分の同僚です。
そういう、まさに仲間であるはずの者に対して、このしもべは何の憐れみも、同情も示すことが無かったということなるのです。
主イエスはこの話を通して何を語ろうとしておられるのでしょうか。ペテロは赦しとはどれだけ忍耐を示せるかだと考えていました。どれだけ我慢するかということだと考えていたのに対して、主イエスはここで、赦しというのは、相手との関わりを優先することなのだということを明らかになさったのです。自分が損をすることよりも、その人との関わりの方を優先させるということが、ここで示されている赦しの意味なのです。
そうすると、それはそのまま私たちへの問いとなります。私たちは損をしてまで相手との関わりを持ちたいと思うかということです。その相手は自分を傷つけた相手だとしたら、自分に損害を与える対手だとしたらどうかということです。自分がその人といて、何のメリットも見出すことができないのに、その人との関わりを深めたいと思うかということが実はここで問題とされているのです。
これは、私たちにとって非常に厳しい現実的な問いです。もちろん、そんな相手は私には必要ないと答えを出すことは簡単なことかもしれません。いや、それ以外の答えなど出したくないし、自分に対して利益をもたらさない相手、ただ苦痛ににしかならない相手との関係をさらに築くなどということは考えたくもないということなのかもしれません。
けれども、主イエスはまさにそういうところで、このたとえ話をなさったのでした。王は、しもべに六千億円の負債を赦します。その人の人間性を問わずにです。
その人が信頼に値するからでもなければ、反省したからでもない、王にとって六千億円もの借金を作ってしまうようなどうしようもないしもべは、しもべとして相応しくないのにもかかわらず、王はそのしもべを赦します。
この王がしたこと、それがすなわち、神があなたにしたことなのだと、主イエスはここで気付かせておられるのです。
これは、私たちの物語です。神が私たちにしてくださった出来事です。私たちの神の前での負債、借金は私たちが自分の一生をかけてでも返済できるようなものではありません。また、私たちが神の前に自分の行ないを反省したとしても、それで、私たちが神の望んでおられるように生きることができるようになるわけでもありません。
人を赦すことのできない心、人を憎んでしまう心、誰かに対して怒りを燃やしてしまうこと、自分の方が正しいはずだと主張したくなる心、それらは私たちの中では正しい思いであったとしても、神の前に正しいとされるわけではありません。けれども、神はそれを赦してくださるというのです。心から赦してくださるというのです。
何故か。それは、私たちを憐れんでくださるからです。私たちをご覧になって、心を動かされるからです。何とかして、私たちのような者を、獲得したいと願って下さるからです。そして、そのゆえに、私たちの負債を主イエスの十字架としてお赦しくださったのです。
神は私たちを赦すために、忍耐して、耐えに耐えながら赦そうと決められたのではなくて、その心を動かされ、私たちを愛するがゆえに赦してくださるのです。ここに、とてつもなく大きな神の犠牲があります。ご自分が損をしてでも、主イエスを十字架につけてまでも私たちを獲得したいという愛があります。赦しとは、そういうものです。
だから、主イエスはここで、あなたはそのような赦しを体験しているのだから、もうすでに赦されているのだから、あなたも同じような赦しに生きるのだと言われるのです。大きな赦しを本当に味わった者は、自分もまた人を赦すことを知るのです。
ですから、最初に言ったように、許可するという許すことは人間にできても、本当に赦すこと、相手の罪を赦すことは人間にはできないなどと開き直ることはできないのです。そうではなくて、私たちも私たちの生活の中で、実際に、自分が損をしてでも赦しに生きるようにと主イエスはここで促しておられるのです。
主イエスは言われます。「七度を七十倍するまで赦しなさい」と。これは、創世記の四章に同じ言葉が出て来ます。「カインに七倍の復讐があればレメクには七十七倍」。二十四節です。
このレメクというのはカインの末裔です、カインというのは聖書の中で兄弟殺しをした兄の名前です。自分の心の中に湧きあがった妬みを納めることのできなかった男の名前です。そして、聖書はここで最初の殺人を描きました。自分を正当化するために相手を殺してしまう、妬みに燃え、怒りに燃え、相手がいなければいいのにと考えてしまう。それがこのカインの罪でした。そして、レメクというのは、このカインの末裔の名前です。
しかし、この言葉は神からの守りの言葉でした。もし、誰かがカインに復讐しようとする者があれば、その者には七倍の復讐を受ける。しかし、カインの末裔のレメクに対しては七十七倍だと。
実は、この主イエスの言葉はへブル語とギリシャ語との違いはありますけれども、同じ言葉が使われています。ですから、このマタイの方は、「七を七十倍するまで」と訳すよりも、創世記と同じように「七十七倍」とするほうが正しいのではないかとも考えられています。
いずれにしても、ここで語られているのは、七回赦せばそれでいいとか、その七十倍した四百九十回までは赦したけれども、その次はもう赦せないという意味ではありません。赦すというのは、もう無かったことにするのです。完全に、赦すのです。もう数えない。自分の心の中にもそれについての怒り、忍耐の思いを持たないのです。復讐にいきるのではないのだと、聖書が最初から語り続けているようにです。
私たちは赦しに生きるのです。人との関わりを持って、愛に生きるようにと招かれているのです。けれども、それは我慢の上になりたつ「許し」ではなく、心から、その人と新しい関係を作り上げることをねがってなされる「赦し」です。
それは、私たちがすでに赦されているのだというところから始まるのです。決して損をしない、不自由にもならない、その確かなキリストの愛を土台にしているがゆえに生きることのできる赦しなのです。
お祈りをいたします。