2011 年 10 月 30 日

・説教 マタイの福音書16章13-20 「この岩の上に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.10.30

鴨下 直樹

 先週の金曜日のことですけれども、二週間半の間、教会からおゆるしをいただいて、ドイツの研修旅行に行かせていただいて、無事に帰ってくることができました。この研修旅行に私たちの同盟福音教会から九人の牧師たちが参加いたしました。

 ドイツにある自由福音教会の中に、アライアンス・ミッションと言う海外宣教のための宣教団体があります。ことのきっかけは、このアライアンス・ミッションの宣教局長にエアハルト・ミヒェル先生が就任したことにあります。エアハルト先生は、昨年私たちの教会の礼拝で説教してくださった先生ですから覚えておられると思います。この方は、もともと海外宣教の働きをしておられたわけではありません。その前はドイツの国内宣教の局長をしておられたのです。そして、東西ドイツ分裂の時代から統一されて、もう一度ドイツ中に教会を建て上げようという願いを持って、特に東ドイツを中心に多くの教会を建て上げて来ました。そのプロジェクトの中心的な人です。

 そして、今海外宣教の責任者になっても、教会を建て上げることは基本的に同じではないかということで、日本の牧師たちにもドイツでどのような教会を建て上げているのか是非とも見て、学んでもらいたいということで、日本の牧師たちを招待してくださったのです。

 ですから、今回は特に旧東ドイツの教会をいくつも訪ねました。そのほとんどが開拓途中の教会です。もちろん、歴史的に古い教会もありますけれども、自由福音教会の歴史というのはそれほど古くはありません。古くても百五十年位でしょうか。しかし、それでも日本のプロテスタント教会の歴史よりも長いのです。東ドイツの教会を見て回りながら、宗教改革者ルターの訪れた地にもいくつか訪問しました。明日の31日は宗教改革記念日です。いたるところに、2017年は宗教改革記念五百年の祝いが行なわれるというポスターがすでにルターゆかりの地の教会には張り出されておりました。ドイツのそのような古い伝統的な教会も、また新しくうみだされたばかりの自由福音教会も、こうして日本の岐阜の地で今年で三十年を迎えたこの芥見キリスト教会も、同じ信仰を告白している教会なのだということを改めて考えさせられてきました。

 

 今、私は「同じ信仰を告白している教会」と言いました。ドイツの国教会も、そこから出て生み出された自由福音教会も、私たちの同盟福音教会もみな、同じ信仰の上に建て上げられているのです。そのことを明らかにしているのが、今朝、私たちに与えられている聖書の個所です。

 主イエスが弟子たちに、「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と尋ねますと、弟子のペテロが答えます。「あなたは生ける神の御子キリストです」と。私たちはどこの国であろうとも、どのような教団、教派に属していたとしても、あるいはたとえ時代を超えていたとしても、みなこの信仰の上に建て上げられてきた教会です。

 そういう意味でも、この宗教改革記念を覚えるこの週に、この御言葉がちょうど与えられているということの中に、私は主の深い導きを感じます。この日、私たちはもう一度この御言葉から聞くことを、主によって導かれているのです。

 

 ドイツの話ばかりして恐縮なのですけれども、今回の旅で私たちはドイツで色々な伝道の試みがなされている教会を訪ねました。ちょっとショックを受けて来たと言った方がいいほどに、実にさまざまな形の教会を建て上げようとしていました。例えば、ある教会は東ドイツではなくて、ドイツの南部にあるアウグスブルグという町で開拓をしている牧師が一日その教会の働きを紹介してくださいました。この牧師の名前はクラウス・エンゲルモアという名前の牧師です。その教会では、この牧師と同じ世代、だいたい四十代の世代に焦点を絞って開拓をしているということでした。その牧師はちょっとドイツでは有名な牧師でして、もともと日本で宣教師をしていた宣教師の子どもで、日本で育ちました。日本の文化のことも非常に詳しいのです。そのように日本で育って、ドイツに牧師として働くようになった人です。まだドイツで牧師になったばかりの時に、このアウグスブルグの町の十代の若者向けの教会を建てます。ドイツで当時流行っていたテクノという音楽を使って、まるでコンサートのような礼拝をはじめて、ドイツでも話題になりました。メディアにも何度も取り上げられたのだそうです。というのは、その教会に非常に多くの若者が教会に来るようになったのです。ところが、この教会で十数年ほど働き続けた時に、自分ではじめた働きであったのに、この教会に集まってくる若者の文化についていけなくなってしまうのです。それで、自分だけ、そこから出て、今度は自分の世代の人たちにターゲットを絞った教会を建て始めたのです。

 私はその話を聞きながら、自分もそのような教会を建ててみたいとは思いませんでした。むしろ、話を聞きながら憤慨したのです。これでも教会と言えるかと思ったのです。お年寄りも、若者もいない教会が教会と言えるかとか、頭の中でどうやってこの牧師を言い負かしてやろうかと、頭の中で色々考えました。いろんなことを言おうと思えばできると思いますけれども、ここに主の御言葉を求めて礼拝するために集まっている人々がいて、その教会に来ている人々が「あなたは生ける神の御子、キリストです」と告白できるのであれば、そこに教会が建て上げられるのだということを受け止め直しました。

 

 ベルリンにも若者だけにターゲットを絞った教会があります。仕事のために都会に出て来て家族から離れて孤独を感じている人々、本当の生きた人との関係を見失ってしまいそうになっている人々がその教会に足を運んでいます。独身で、芸術の分野で活躍している人が大勢来ているのだそうです。

 反対に、同じベルリンでも歴史のある教会を訪ねました。その牧師は私たちにはああいうことはできないとはっきりと言いました。もう親子何代にもわたってさまざまな世代の人が集まっているこの教会では、それは不可能なことだと。そのような新しい教会も年が年月がたてば、同じ姿になる。そのことは分かっていていても、今の時代にそういう教会が必要とされていることも事実だと、その教会の牧師は言いました。

 

 教会と言うのは実にさまざまな形をとるものです。今回の旅で本当に色々なことを考えさせられました。そして、この朝、私たちはこの朝ルターの宗教改革を思い起こしながら礼拝をしています。そこでもう一度あらためて考えなければならないことがあると思っています。それは、確かに一方ではこの御言葉に上に教会が建てられるということです。非常に簡単なことが語られています。しかし、また一方で、教会があるべき姿から離れてしまうということがあったという事実を私たちは知らなければならないと思います。そこでは、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と、素直に言うことができなくなることが起こったのです。もちろん、当時の教会はそこからずれたという思いはなかったはずです。しかし、ずれた。何故か? 不思議なことに、今朝、私たちに与えられているこの聖書の言葉の理解が、その最初の分かれ目となったのです。

 もちろんここで、プロテスタント教会は正しくて、カトリック教会が間違いだったということを言おうとしているのではありません。そうではなくて、聖書が、この信仰の上に立たないで、すぐに人間のアイデアの上に建て上げられようとする時、そこから間違いが入り込むのです。

 

 今回のドイツの研修でヴィッテンベルグという町を訪ねました。私は以前、ドイツに住んでいた時には訪ねることができなかったので、今回訪ねることができて大変嬉しく思いました。この町から宗教改革が始まったのです。

 ルターはこのヴィッテンベルグの大学教会の扉に九十五カ条の提題、あるいは論題と呼ばれる当時の教会に対する反対の意見書を掲示します。これは、当時ローマ教皇が聖ペテロ大聖堂の建設資金を得るために、贖宥状という、良く知られた言葉ですと免罪符を発行します。これを買いさえすれば罪が赦されると教えたことから起こったさまざまな間違った教えに対して異議を唱えたものでした。なぜ、このような考え方が出て来たのかというと、その根本的な背景に、主イエスがペテロに教会の鍵をあげますと記されている、この朝の聖書の言葉を、教会の代表者には主イエスと同じ権限が与えられると理解されていたからでした。

 このことについて本当は丁寧に説明する必要があると思いますけれども、今朝は中心的なことだけを言いますと、この十九節に記されています。「わたしは、あなたに天国の鍵をあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」という言葉があります。この主イエスの言葉を、人を天国に入ることを認めたり、認めない権威がペテロをはじめとする教会の代表者であるローマ教皇に与えられていると理解しました。

 その理解は今日にまで及びます。ですから、この聖書の理解の仕方が、ルターの時代問題になったと簡単に結論付けることはできません。むしろ、この聖書理解を利用して富を得ようと考えた、神も、聖書も教えてもいないことを新しく造り出したことが問題となったのでした。こうして、ルターはこの時に掲げた九十五カ条の論題によって、何より大事な基準は聖書にあるということを明確にしました。そして、その時から間もなく五百年が過ぎようとしているのです。

 今でもこのヴィッテンベルグの町に行きますと多くの観光客がやってきます。ルターの宗教改革の地を訪ねたいと思う人が多いからです。このヴィッテンベルグという町は小さなお城に囲まれた町です。この町の城の塔の部分にはルターの有名な讃美歌ともなった「神は我が城、盾であり武器である」という言葉がドイツ語で刻まれています。この町に入る人は、神がこの宗教改革をルターを用いて行なってくださったことを見ることができます。

 

 そして、教会はここに書かれているように、主イエスを神の御子キリストであるという信仰の告白の上に建てられていることを思い起こすのです。それは、難しいことを言っているわけではありません。今、何人かの方々が洗礼を受けるための学びをしております。どういう人が洗礼を受けるのか、それは、主イエスをこのように告白することができればそれで良いのです。決して複雑なことではありません。けれども、そのように信じて歩むために、他のことから間違った道に行くことがないように、時間をかけて学んでいるのです。

 

 主イエスがここで、ペテロに向かって語られた十九節の御言葉、「私はあなたに鍵をあげます」と言われたのはどういうことなのでしょうか。それは、言ってみればペテロだけに与えられたのではありません。ペテロと同じように信仰の告白をするものすべてに与えられた主の言葉です。私たち教会に与えられた言葉です。わたしたちは、キリストを告白することができるのです。

 「告白」と言う言葉は、このように教会にとって非常に大事な言葉です。ところが、最近では一般でもこの言葉が良く使われるようになりました。自分の心の中にある思いを、言い表す、そういう意味で使いますから、「自分は誰々のことが好きである」ということを言う場合もありますし、「自分はこんなに悪いことをしていた」ということを告白するということもあります。罪の告白をするという面があるわけです。

 今朝の最初の個所は、一般にペテロの告白と言われる場合があります。けれども、ここでペテロは自分の罪を告白しているわけではありません。そうではなくて、キリストを告白している、あなたはキリストですと、賛美をしているのです。そして、キリストを賛美し、讃えていると同時に、自分が罪びとであるということを覚えているのです。

 主イエスはここでこう言われます。私たちがこのような告白を聞く時、それは天において結ばれることなのだと。ですから、それを解くということは、天から解かれてしまうということになりますから、よくよく注意をする必要があるわけです。主イエスはそのように、イエスはキリストである、主であると告白する教会がこの地に建て上げられることを願っておられるのです。

 「ハデスの門もそれには打ち勝てません」と十八節にあります。新共同訳聖書では「陰府の力もこれに抵抗できない」となっています。これは難しい説明は必要ありません。死の力という意味です。

 イエスをキリストと告白する。それは死の力を打ち破るほどのものだということです。それが、教会に託されている力だということです。だからこそ、このイエスをキリストと告白することは神への賛美になるのです。死を打ち破る神の力をこうして讃えることができるのです。

 

 宗教改革五百年の記念の祝いをあと六年で迎えるということは大きなことです。それほど長い歴史の中で、教会はこのキリストを語り続けてきました。しかし、それはこのプロテスタント教会ができてからのことではありません。主イエスが、このようにお語りになられてから二千年近くの間、教会はこの主の言葉によって建て上げられ続けてきたのです。それは、この死に支配されてしまっているように見せる世界の中にあって、教会こそが、この死の力を克服することができるということを、この世界に告白し続けて来たということです。

 私たち一人のことを考えると、私は死を再び恐れてしまいそうになっているということは起こるでしょう。神を賛美する気持ちではなくて、死の力の恐れに、心が乱されてしまうということもあると思います。しかし、それでも、教会は今日まで建てられ続けてきました。それは、私たちが信じている信仰は、自分の弱さに依存しないで、キリストの強さに由来するからです。

 ですから、もし、私たちの心が弱くなるようなことがあったとしても、あるいは、病を畏れるようなことがあったとしても、自分の弱さを嘆くようなことがあったとしても、私たちは自分の弱さを告白するのではなく、キリストを告白することができるのです。神の御業は素晴らしいと喜びを持って語ることができるのです。

 

 「あなたは生ける神の御子、キリストです」。そのように私たちがキリストを告白することができるということは、それほど確かなもので、これこそが私たちの人生の土台とすべきものだということを確信を持つことができるのです。

 

 お祈りをいたします。

 

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