2012 年 4 月 29 日

・説教 マタイの福音書22章23-33節 「生ける者の神」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:46

2012.4.29

鴨下 直樹

先週、私はある一冊の本を読んで過ごしました。それは、精神科医で作家でもある加賀乙彦さんが最近出版された『科学と宗教と死』という小さな本です。小さな本ですけれども、この加賀さんの自伝と言ってもいいような内容の書物です。自分が医師としてどのように生き、作家としてどう生きたか。特に、「死」という問題に生涯向かい合ってきた人ですから、死をめぐるいくつもの言葉が載せられています。
この本を読みながら、木曜に近くにありますキリスト教の老人ホームを訪れ、そこでイースターのテーマで短い説教をしてきました。大変印象的な体験となりました。そして昨日、執事であるKさんのお母さんが倒れたという知らせを受けました。
この一週間、死ということを心にとめ続けてきた一週間だったと言っていいと思います。

そのように、この一週間ずっと死ということを考えながら、この今朝与えられている御言葉を読み続けてきたのです。それは、私にとって特別な体験となりました。ここで語られていることも、「死」の問題です。
「人は死と向き合うとどうなるか。」これが、加賀さんの本のテーマです。老人ホームにおられる方々に語ったこともまた、死をどう乗り越えて生きるのかということでした。そして、この聖書が語りかけていることも死についてです。

特に、今日の聖書箇所には「サドカイ人」という人が出てきます。パリサイ人、民の長老、ヘロデ党と出てきて、ここで新しく登場してきているのがこの「サドカイ人」です。ありとあらゆる立場の人々がみな総動員で、イエスに様々な問いを投げかけているのだということになります。このサドカイ人というのがどういう人であったのかはっきりしません。そういう人種の人がいたわけではないのです。ただ分かっているのは、彼らは「復活はないと言っている。」ということだけです。おそらくこの人たちもユダヤ人です。聖書をよく読む人たちです。特にモーセ五書をよく読んだようです。けれども、そこに記されている結婚についての教えのところで、律法学者、パリサイ人たちとは異なる聖書の読み方をしたのです。それは、「レビラート婚」と呼ばれる、辞書にも載るほどによく知られたこの時代の結婚についての考え方に疑問があったのです。このレビラート婚というのは、兄が子を残さずに死んだ場合、弟が兄嫁を妻として子どもを残さなければならないというものでした。それを通して、七人兄弟の弟がつぎつぎに死んでしまって、この女も死ねば、復活の際には誰の妻になるのかという疑問を投げかけたのです。こうして子どもが出来た場合、兄の名前を子どもにつけることになっていました。つまり、そうすることで、長男の名前がイスラエルの中で残り続けることが大事だと考えていたのです。けれども、サドカイ人は七人の子どもを得た家族であっても、次々に兄弟を失い、イスラエルに長男の名前を残すことができなくなってしまっては、死後に誰の妻なのかという議論にしかならない復活の理解は無意味ではないかと考えていたのです。
そして、主イエスにそのことを問うたのです。同時にこう尋ねることで、サドカイ人はパリサイ人に対してその復活理解を批判しながら、主イエスに投げかけたのだということなのです。

このサドカイ人の問いというのは、自分たちの知恵に酔いしれた問いだということができます。この聖書に書かれていることと復活という教えは、相いれないものではないかということを明らかにしようとしたのです。彼らの中には、次々に夫を失った女の悲しみに対する配慮など考えてもいません。
けれども、こういうサドカイ人たちの問いかけをみながらどうしても気づかなければならないことがあります。それは、私たちも復活についてさまざまな思いを巡らせるからです。そのようして、人は死んだらどうなるのかと問いながらそこからすぐにでてくるのは、例えば「霊魂の不滅」という考え方です。霊魂は無くならないとすると、死後にその霊魂はどうなってしまうのかと考える。あるいは、これまで地上で生きて来た命が死後もおなじように継続する、というような考え方がでてきます。ここに出てきている、「復活の際に誰の妻なのですか。」と似たようなことを考えることがあるのです。そういう考え方をどこかで耳にして、それがそういうものであるかのように思い込んでしまうのです。復活というものをそういう理解に勝手に変えてしまいながら、それなら私たち夫婦は死後にどうなるのだろうかとか、子どもはどのようになるのだろうか、復活の後の私たちの生活はどうなるのだろうかと考えることもまた、正しい問いかけと言えるのだろうかと考えなければならないと思うのです。私たちもまたこのサドカイ人と同じようなことをしていることにならないか、と気づいていなければなりません。

主イエスはここでサドカイ人にこう答えられました。二十九節です。

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

主イエスは、ここで二つの過ちを犯していると言います。一つは聖書を知らない過ちです。もう一つは神の力を知らない過ちです。
死について、死後の世界についての色々な考えを私たちはさまざなところから見聞きします。特に死後については、実に多くの人々が色々なことを語ります。そして、そういうものを簡単に信じてしまうのに、聖書が何を語っているかについてはちゃんと聞きとろうとしないのです。霊魂不滅という考えはそのもっとも根強い考えの一つです。
主イエスがここで何と言っておられるか私たちはしっかりと聞かなければなりません。

復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

と三十節にあります。
こういうところを読みますと、私たちは葬儀の時に、死んだ後天国でもう一度家族と会うことができるなどと聞きますけれども、それはいったいどうなるのかという思いを持つかもしれません。死んでよみがえったら天国で家族とまた一緒になれる、それそこが復活の望みだなどとここで主イエスは言ってはおられません。この地上での生活がよみがえりの後も同じように生活が営まれるのではないかと考えているのだすれば、パリサイ人やサドカイ人の間違いを犯すことになってしまうのです。
主イエスはここで、「天の御使いたちのようです。」と言っています。これは一体どういうことでしょうか。「天の」というのは神のところで生きるものとなるということでしょう。それは、神によって新しい命にされるということです。しかも、私たちは体をもってよみがえると言われているのです。それは、これまでの生き方とはまるで異なった新しい命に生きるということです。
子どものまま死ねば子どものままであるとか、年をとって耳がよく聞こえなくなってきていたら天においてもそのままなのか、色々なことを考えます。そんなことは誰にも分かりません。しかし、分かる必要もないのです。私たちがここで知らなければならないのは、「神の力」です。聖書が語るのは、神の力です。新しい存在にすることのできる神の力。死人を生き返らせる神の力、罪ある者が赦される神の力です。

先週私が読みました加賀乙彦さんの書いた「科学と宗教と死」という本の中で、自分がどのように信仰を持つようになっていたのかが書かれています。この方は、精神科医として刑務所に勤務していました。そこで、死刑囚と無期囚の違いに気づきます。死をどう受け止めるかに大きな違いがあることに気づくのです。これを調べた論文で医学博士になるのですけれども、その中で、一人の死刑囚と出会います。この人はそのころ世間でよく知られた死刑囚でした。この死刑囚は教誨師として刑務所に尋ねて来る宣教師と出会っていくうちに信仰を持ちます。ところが、自分に洗礼をさずけてくれた二ヵ月後にこの宣教師が死んでしまいます。そして、このような立派な宣教師が天に帰るのは喜ばしいことだと考えるのです。こうして、この人は信仰を持つことによって死を恐れなくなっていったのだそうです。そして、それから三ヵ月後に本人に死刑の判決がおります。この本の中に、死を前にして加賀さんにあてた手紙が紹介されています。「とうとう最後の日が明日と告げられました。先生。いろいろとありがとうございました。もっと多くの事柄について、先生と語り合い、教えて頂きたいと思っていましたのに、死はやはり不意にやって来ました。この死について、よく見つめ、考え、祈りながら、わたしはあちらへ行きたいと思っています。母と私のためにお祈りください。では先生。さようなら。」
見事な死を前にしての手紙です。信仰がこうも人を変えるのかということに驚きを覚えるのです。こうしてこの死刑囚とのやり取りを取材して行く中で、加賀さんも信仰に興味を覚えていったのです。というよりも、神の力に惹かれていくのです。死を恐れていたはずの人が、これまで心理学者として関わってきた人とは全く違う死の受け入れ方を見て、この人に一体何が起こったのか理解したいと思うようになるのです。

この本についてこれ以上語る必要もないと思います。ここで明らかにされているのは神の力です。神の力は死の恐怖に支配されていたものを自由にするのです。新しい存在となるということです。それは、私たちが考えているようなこの世の命の延長ではなくて、完全なる神の恵みの力のみが働くのです。それは、まさに「天使のようになる」と表現するほかないような出来事が起こるのです。

主イエスは言われます。

『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

三十二節です。
教会の祈祷会で長い間アブラハムとイサクとヤコブの学びをしてきました。二年ほどにわたって創世記の御言葉を聞き続けました。そこで何度もでてくるのがこの言葉でした。「わたしはアブラハムの神、主である。」と語られる時、それはアブラハムにも生きて働き、その息子であるイサクとも共にあるという意味で語られます。そして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と語られる時、あの時生きて働いた神は、今ここでも変わらずに働く神であるという意味なのだと何度もお話ししました。
神は過去の神ではありません。昔は立派なことをなさったけれども、今は働かないというような神ではないのです。そして、この言葉を主イエスはここで新しく語りなおされた時、あの時生きたアブラハムも、イサクも、ヤコブも、生きているものだという意味をお加えになられました。彼らは今も生きているのだと。神のおられるところで、まるで天使たちのようにです。

先日、老人ホームに行きました。この施設長の方から、入居者の方々とイースターのお祝いをしたいということでした。そこにおられた方々は実にいい顔をしておられました。もちろん、そこにおられる方の一部はキリスト者だけれども、みなというわけではないようです。そこで、一つのたとえ話をいたしました。
ヤゴの話です。大きな沼にヤゴの爺さんがおりました。このヤゴはある時、蛙が水の上の方に泳いで行ったかと思うと、突然姿をくらませてしまうことに気づきます。それで、一つの仮説をたてるのです。この水の上に別の世界があるのではないかと。
ただ想像するだけでなく、蛙が来た時に質問します。「君は、水の上に上がって行って、どこに行っているんだい?」と。すると、水の上には太陽や土があって、草とか花とかが咲いていると聞かされます。けれども、見たことのない世界の話をされてもヤゴの爺さんはピンときません。そんなおとぎ話のような話しは信じられないと言うのです。蛙は、でも、ヤゴはみんな時が来ると葦をつたって水の上の世界に行ったかと思うと、体が背中から割れて羽が出て、トンボになって空を飛ぶようになるのだと説明します。
ヤゴの爺さんは素直に信じられないのですが、だんだん年老いて、自分が天から呼ばれている気がすると他の仲間のヤゴに言いながら、別れを告げ葦をつたって天へと旅立って行くのです。
仲間のヤゴたちは爺さんがいなくなってしまったと悲しんでいるのですが、ヤゴは蛙の言うように、そこでトンボになって空を自由に羽ばたいて生きるようになったのだという話です。

どこかでお聞きになったことがあるかもしれません。子ども向きのイースター童話集の中にあるお話の一つです。しかし、この話はよみがえりの後の新しい存在になることを分かりやすく例えていると思います。
この話を老人ホームでしながら、主イエス・キリストというお方は、死で終わりなのではなくて、新しい命を与えられて生きることができることを私たちに教えてくださったのがイースターなのだと話しますと、それまで聞いているか聞いていないか分からないような反応だったお年寄りたちが喜んで首をふってくれました。
神の力で、私たちを新しい存在にしてくださるのだというこのイースターの知らせは、すべての人にとって喜びの知らせです。主イエスは、新しい命を与えるためにこの世においで下さったのです。そして、私たちを神の力で新しい存在にしてくださるのです。どういう姿であるか、それは、ただただ私たちの楽しみです。私たちの希望です。そして、この復活の望みに生きることができることは、その人を新しい存在とする力をも持つのです。
たとえ死刑囚であったとしても、どれほど大きな罪を犯したものであったとしても、神の力はその人を新しくすることがおできになるのです。これこそが神の恵みです。

今日は復活節の第三主日です。この日のことをラテン語で、ユビラーテと言います。「全地よ、喜べ」という詩篇六十六篇の一節から取られた言葉です。全世界は、喜ぶように招かれているのです。何故か。神が、私たちに新しい祈りを与えてくださるからです。
この復活の知らせは、世界中に喜びをもたらす知らせなのです。
お祈りをいたします。

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