2012 年 5 月 6 日

・説教 マタイの福音書22章34ー46節 「最後の問い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:27

2012.5.6

鴨下 直樹

今朝の礼拝説教のタイトルがまた変わっていることをすでにみなさんはお気づきになられたと思います。先週の週報や月間の予定表には「一番大切なこと」となっていました。この「一番大切なこと」というタイトルはすでに聖書をお聞きになれば何を意味しているかすでにお分かりのことと思います。パリサイ人が主イエスに「律法の中で、大切な戒めはどれですか。」と尋ねたことに対して、主イエスのお答えが「これが大切な第一の戒めです。」と言われたところがきているわけです。
「最後の問い」と言われると少し考えなければなりません。実は、ここは長い間なされた主イエスとパリサイ人やありとあらゆる人々との論争の最後の場面になるのです。主イエスをためすためになされた最後の問いが、実は今日の箇所なのです。

今日の聖書のところには少し面白い書き方がしてあります。

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

と三十四節にあります。実は主イエスがエルサレムにお入りになられてから、これまであらゆる人々がやって来て主イエスに難問を突き付けてきておりましたが、実はまだ一度も直接パリサイ人からの問いはなされておりません。例えば十五節以下のところを読みますと、パリサイ人はヘロデ党の者に質問させているという場面はあります。また、主イエスのお答えが自分たちに向けて言われていることに気づいてイエスを捕らえようとした、などということはすでに記されておりますけれども、直接に問うのはここの場面なのです。
ですから、サドカイ人たちが復活についても問いをして、これを破られた時にいよいよ自分たちしかない、真打ちの登場だと言わんばかりに、みなが集まって来て主イエスに最も難しい問いを出したと読むことができます。

しかし、「サドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。」と読みますと、もう自分たちしか出番がないとも読めますけれども、サドカイ人というのは先週も説明しましたように、復活ということを否定しながらパリサイ人たちの聖書理解をも否定していた人たちです。そういうサドカイ人を黙らせたと聞いて、主イエスに対する興味を持って集まったということもあるのではないかという気がしてならないのです。
もちろん、そのようにこの箇所を理解している人はおりません。ここでパリサイ人が最後にした問いというのは何であったかと言いますと、「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」というものです。その前の三十五節を読みますと「彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。」とあります。この「イエスをためす」というところに使われている「ためす」という言葉は、荒野での悪魔の誘惑のところで使われる「試みる」という言葉です。けれども、この問いが主イエスを試みる罠になっているとはどうも言えないのです。
むしろ、反対に主イエスに興味をもって問いかけているかのように読める内容になっています。というのは、パリサイ人たちが大事にしてきた旧約聖書を要約するとどういうことになりますかというのは、これこそ主イエスが彼らに聞いてほしいと思っている問いそのものになっているのです。

こう言ってもいいのかもしれません。パリサイ人たちははじめ主イエスを罠に落とし込めようとして、あらゆる人々と結託して罠を仕掛けました。どれもこれも巧妙の問いかけばかりです。しかしここにきて主イエスに問いかける問いは、ついに本当の問いをせざるを得ないほど、彼らの心は動かされたということが言えるのかもしれません。
パリサイ人がみんな集まって来て、自分たちこそこの問いで主イエスを罠にかけるつもりだと思っているのかもしれないのですが、結果として、ここで主イエスに本当の信仰をする意外に問いがなくなってしまっているのです。

ラビと呼ばれる律法の教師、ここの言葉でいえば専門家たちに言わせれば、律法には613の掟があるとされています。その中には、人間の体の骨の数にあたる248のしなければならない命令と、一年の必須である365のしてはならない禁止事項があるとされていました。そういう中でラビたちはどれが一番大切な戒めであるかその知恵を競ったと言われています。
例えば主イエスの少し前の時代にラビのヒルレルという人がいました。この人は紀元10年、この時代から言えば二十年ほど前ですけれども、こんな記録が残っています。ある異邦人がこう尋ねました。「私が片足で立っている間に、律法全体の精神を教えてください。」と。すると、ヒルレルは「自分が憎むことは、あなたの隣人にも行なうな。これが神の律王トーラーの全てだ。他のことは説明に過ぎない。」と答えたという記録があります。
ですから、ここでパリサイ人が同じように主イエスに問うことによって、主イエスの律法の理解を図ることが罠になると考えたと言えるかもしれません。しかし、そうであったとしても、この問いが主イエスを落とし入れるほどの大きな罠であるということはやはり難しいのではないかと私は思います。

さて、そこで主イエスはこの問いに何とお答えになられたかというと、それが、三十七節から四十節までです。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という最初の三十七節にある答えは、申命記六章四節以下の御言葉です。ここにはこう記されています。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたがたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたがたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

ここで「聞きなさい。」と冒頭にある言葉をへブル語で「シェマー」と言います。それで、この部分の言葉はシェマーとして知られるようになりました。この言葉はイスラエル人であれば誰もが日に二度は口にしていたと言われるほど誰もが心にとめていた言葉を、主イエスはここで、このシェマーこそが大事なのだとお答えになられました。
この「心をつくし、思いを尽くし、知力を尽くして」と言われた主イエスの言葉は、シェマーの力の部分が知力と言いかえられていますけれども、内容は同じことです。これは、全身全霊で神を愛しなさいと言うことができます。あるいは、いのちをかけてと言ってもいいかもしれません。自分の存在のすべてをかけて神を愛する。これが、神が与えられた戒めなのだと主イエスはここで言われたのです。そして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めと言われているのはレビ記十九章十八節からの引用です。
主イエスはこの二つは同じように大事なことだと言われました。片方が上で、もう一方が下というようなことではなくて、同じように大事だと言われました。けれども、私たちがこの主イエスの言われた言葉を注意して聞くと、ここにはもう一つのことが言われていることに気づきます。それは「あなた自身のように愛せよ。」と言われたということです。自分自身を愛するということを、主イエスはここで非常に大事にしておられるのです。

主イエスはここで愛に生きる者となるということこそが、神の心の中心なのだとお答えになられたのです。しかし、この主イエスの言葉に対して、パリサイ人の反応が記されていないのです。この主イエスの言葉を彼らはどう聞いたのでしょうか。
その通りだと考えたのか、それとも、いや、私たちは別の戒めの理解を持っているとしたのか、それ以上書かれていません。ところが、主イエスはすぐに、今度は主イエスの方から問いかけられました。

それが、続く四十一節、四十二節にあります。

パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」

「あなたがたはキリストについてどう思いますか。」と、主イエスのほうからお尋ねになられました。前にも言いましたけれども、信仰に生きるためには常に問うということが大事です。そして、この信仰の問いを深めるために、主イエスが何と問いかけておられるかに気づくことが最も大切なのです。

私が神学生であった時のことです。最終学年の四年生の時に卒業論文を書かなければなりません。私の卒論のテーマは「信仰告白の必要性」というものでした。
もう何を書いたのかあまりよく覚えておりません。大変貧しい論文であったと今考えれば思いますが、私たちの所属している福音派というグループの教会は概ね信仰告白というものを重んじない傾向にあります。カルヴァンの伝統に生きる教会であればハイデルベルク信仰問答であるとか、ウェストミンスター信仰告白というものをとても大事にします。けれども、私たちのグループではあまりこれを重んじません。おそらく読んだこともないという方が、みなさんの中にも多いと思います。ルターの流れの教会であればルターの書いた大教理問答とか小教理問答というものがありますし、あるいはアウグスブルグ信仰告白というものもあります。
この信仰問答、カテキズムといわれる文章を読んでみますと、「問い」と「答え」というように記されておりますから、私はそれまで一種の昔のQ&Aのようなものなのだと考えておりました。信仰について分からない人が何かを尋ねると、それについて先生が答えてくれる。そういうふうに記されているのだと思っていたのです。
ところが学んでみますと、そうではなくてまるで反対なのです。問いかけているのは先生のほうで、答えのほうを洗礼希望者が答えるというように出来ているのです。つまり、このカテキズムをすっかり覚えてしまわないと、先生からの質問に答えられないということなんです。

先生が問いかけてちゃんと答えられる。そうして、信仰の理解を教えていくという信仰教育を、教会はこれまで非常に重んじてきたのです。ところが、私たちの所属する同盟福音という団体は簡易信条主義といいます。簡易な使徒信条をもって私たちの信仰告白とするというわけなのです。しかも、その使徒信条についてもそれほど丁寧に学ぶことなく洗礼を受けるということが少なくありません。
残念ながらここでそのことについて論じるいとまはありませんけれども、主が問いかけてくださることに私たちが何と答えるか。そうして、信仰の理解というものが明らかにされるということを、私たちは覚えていなければなりません。
ここで、主イエスは「あなたはキリストについてどう思いますか。」と問いかけておられるのです。

パリサイ人は「ダビデの子」だと答えました。もちろん、この答えは不正解ではなかったはずです。エルサレムに主イエスが入城なさったときも、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎え入れたのです。人々はダビデのようなキリストがおいでになると期待していました。
しかし、主イエスはここで詩篇の百十篇の一節にあるダビデの詩篇を引用して、ダビデ人が、キリストのことをここで主と呼んでいるのに、なぜ、ダビデの子と言えるのかと言われました。
難しい説明をここでする必要はないでしょう。パリサイ人たちはこの主イエスの言葉を聞いて、主イエスの言葉に反論することができませんでした。主イエスの言われる通りだと思ったのです。ダビデはキリストのことを主と呼んでいるのです。そして、そのことが大事なのです。
主イエスからの問いかけは、キリストとは私以外の何者かということを問いなおされたのです。パリサイ人たちは、実にたくさんの問いをもって主イエスを罠に落とし込めようとしました。しかし、ここで主イエスから問いかけられています。
あなたがたは、わたしをキリストと信じるのかと。実に色々な問いを繰り返して最後につきつけられる問いは、イエスをキリストと信じるか、信じないかということに尽きるのです。

先週、加賀乙彦さんの書かれた「科学と宗教と死」という小さな本の話を致しました。この本は加賀さんがどのように信仰を持つようになったのかが書かれている、自分の信仰告白の書とも言うことができる、自伝的な本です。
この加賀さんは「宣告」という本を書きます。これはある一人の死刑囚との出会いから生まれた本でした。ところが、この本について作家の遠藤周作さんが、「この人はキリスト教についてとてもよく調べ、よく知っているけれども、本当の信仰を知らないのではないか。」と批判されます。遠藤周作曰く、信仰とは魂が震えるほどの喜びがなければ出てこないのだ、しかし、この「宣告」という作品にはそれがないと言われてしまうのです。
それで、加賀乙彦さんは一人のカトリックの神父を尋ねます。それで、色々分からないことがあるから教えて欲しいと頼むと、それでは四日間かかると言われます。それで、四日時間をとってじっくり神父に質問を投げかけ続けるのです。その中心になったのは、イエスはなぜ十字架を受け入れることができたかということであったと書いています。そして、朝から晩まで実に色々な質問をして、復活についての質問が終わったのが三日目の昼だったそうですけれども、もう自分が用意した質問が無くなってしまいます。そしてその時、自分の中に大きな変化に気づきます。すべてを信じることができる気持になっていたのだそうです。それはとても不思議な気持ちで、心は平静で、澄み切った明るい光に満たされているようで、と書いています。
イエスはキリストであると、そう心から信じることができるようになっていたのです。それは、湧き上がる喜びであったと書いています。

イエスはキリストであると信じる。それは、神の愛が分かるということです。神が自分を愛してくださっているということ、そして、隣人を愛しておられるということ、この神の愛に自分のすべてをかけてもいいという気持ちになる。それが、イエスがキリストであるということが分かるということです。

主イエスに問い続けて起こるのは、この加賀乙彦さんのように信じるようにされるか、ここにいた多くのパリサイ人のように、ただ黙ったままで結局のところ信じることができないかということになるのです。マルコの福音書のこの同じ物語のところでは、主イエスはその問いをしたパリサイ人に「あなたは神の国から遠くない。」と語りかけたという出来事が記されています。このパリサイ人のすべての人が、主イエスとの問答において信仰を見出すことができなかったということではなかったようです。ある者は信じたのです。

この最後の問いの物語は、パリサイ人たちにしてみれば、いよいよ自分たちが主イエスに直接問いかけて、主イエスを罠にかけ、自分たちの知恵を誇りたかったのかもしれません。しかし、ここで、反対に主イエスから最後の問いをつきつけられる結果になったのです。けれども、主イエスはそのような敵対視しているパリサイ人に対して、厳しく語られたのではありませんでした。あなたもキリストを信じることができる。あなたは信じるか、と問われたのです。はじめから信じる気持などなかったのだろう、などとこのお方は言われないのです。その心に問いかけ、そして、本当の答えを与えようと最後まで語りかけてくださるのです。

この主イエスが私たちに問いかけてくださるのです。あなたも神の愛に生きることができる。自分を心から愛することができるようになる。そして、あなたの周りの人をも愛することができるようになる。それは、神があなたは大きな愛で包みこんでくださることを知るからだと語ってくださるのです。
こうして、私たちは誰もが湧き上がる喜びの中で、キリストの愛に生きるものとされるのです。

お祈りをいたします。

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