2012 年 8 月 5 日

・説教 マタイの福音書26章36ー46節 「死ぬほどの悲しみの中で」

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2012.8.5

鴨下 直樹

今朝、私たちに与えられているのはゲツセマネの祈りと呼ばれている箇所です。この出来事は、主イエスの苦しみをよく表している箇所です。しかし丁寧に読んでみますと、良く分からない所がいくつも出てきます。
今日の説教の題を「死ぬほどの悲しみの中で」としました。題としてこれが相応しいかとも思いましたけれども、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と弟子たちに言われた主イエスの言葉がとても強く心に残ります。

主イエスがゲツセマネに行かれて、ペテロとゼベダイの子ふたり、すなわちヤコブとヨハネを連れて、そこで悲しみにもだえながら祈り始められたのです。その主イエスが、一緒に目を覚ましているように言われた弟子たちに対して、「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。」と言われたと言うのです。
これほど神に似つかわしくない言葉であると考える人も少なくないようです。悲しみに押しつぶされて死ぬほどである、それほどの悲しみをここで主イエスは覚えておられるというのです。しかも、それは祈りにおいてだというのです。
悲しみの中にいる人に、私たちは時折、神様にお祈りしてごらんなさいとアドバイスすることがあるのではないでしょうか。その悲しみをきっと神様が支えてくださるからと信じて、そのようにアドバイスすることがあります。けれどもここで主イエスは、その神との祈りの中で死ぬほどの悲しみを覚えていたというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

祈りというのは、神との交わりです。神が私たちの祈りに耳を傾けてくださる、私たちが祈ることを望んでおられると思うので、私たちは望みをもって祈ることができます。そして、その祈りの中で、主の慰めを求めて祈るということもあるでしょう。
けれども、ここで主は死ぬほどの悲しみを覚えていました。一体、何にそれほど苦しまれたのかというと、まさに、この神との関係が断ち切られてしまうという恐れを覚えていたのです。私たちはよく、主イエスは私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださったと聞きます。身代わりということは、私たちの罪を、主イエスが背負うということです。それは、神の子であられる主イエスが、罪ある者とされるがゆえに、神から裁かれるということです。神からどのように裁かれるのかというと、完全に神に引き離される、見捨てられると言うことです。ですからそれは、もう祈ることもできなくなるということでもあります。

私は名古屋の東海聖書神学塾で教務の責任を持っています。そういうこともあって、神学生にぜひ読んでほしい色々な本を勧めます。特に、主イエスについて記された本を良く読んで欲しいと思うのですけれども、中でも私が一番お勧めしているのは、イギリスの聖書学者が書いた、ジェームス・スチュワートの『受肉者イエス』という書物です。昔、同じ名前の俳優がいたようですから、ある人にとっては覚えやすい名前であるかもしれません。この本は主イエスについての非常に優れた洞察がなされています。たとえば、このゲツセマネの祈りのことろでスチュワートはこう言うのです。
「イエスを恐れさせたのは、死の恐怖ではなかった。・・・・・・イエスに神への叫びをあげさせたものは、死ではなかった。それは、罪であった。あの恐るべき瞬間に、イエスがご自身の罪なき心に負われたのは、全世界の恥辱、すべての人の重荷にほかならなかった。イエスは、罪の絶対的な恐ろしさ、忌まわしさ、神による放棄を、突然意識されたからこそ、神に向かって叫ばれたのである。」
主イエスがここで覚えておられた死ぬほどの悲しみは、死を目の前にしてではなくて、罪のためです。そして、スチュワートが言うように神に放棄されてしまう。神の御子がここで神に見捨てられてしまうということを非常に強く意識しているのです。

主イエスはゲツセマネで人々の罪と戦うために祈りをなさるのです。そうです。それは本来、私たちが味わうべき死ぬほどの悲しみを、主イエスはここで味わっておられるのです。それゆえに、主はここでご自分おひとりで祈るのではなく、弟子たちに、特にこの三人の弟子たちにも共に祈ることを求められました。
この三人はあの変貌の山、主イエスのお姿が変容したあの山で一緒に主イエスが光り輝く姿を見た三人です。しかし、この時の主イエスはあの変貌の山での姿とはあまりにも違っていました。弟子たちがあそこで見たものは、まさに、主イエスは神であるという、主イエスの神性が輝いていました。しかし、このゲツセマネの園での主イエスはその姿を少しも感じさせないほどの恐れようです。

時々、信仰入門の学びをしていますと出てくる質問なのですけれども、主イエスは神さまなのだから、十字架に架けられた後、復活することも分かっておられたのだから、ここでこのようの恐れるのは少しおかしいのではないでしょうかと尋ねられることがあります。このゲツセマネでの主イエスのお姿は、神の姿とは言い難いと感じるのです。
すでにお話ししましたけれども、主イエスは死ぬことを恐れておられるのではありません。罪を背負うこと、神から見捨てられることを恐れておられます。それは、どうも私たちには簡単には理解しづらいことです。私たちは神から離れていることがまるで当たり前のようになってしまっていますから、私たちにとって神から離れるということが恐ろしいことであることという意識自体あまりありません。けれども、主イエスは常に神と共にあるお方です。このお方が、神から引き離されてしまうのです。そうです。ここで主イエスは完全な人間としてご自分を表しておられるのです。そして、ここでそのような人間としておられるがゆえに、弟子たちに共に祈ることをお求めになられたのです。

ですから、ここで主イエスが「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」と弟子たちに向かって言われたのは、この祈りは弟子たちの祈り、あなたがたの祈りなのだからということを覚えさせるためであったに違いないのです。そして、共に祈ることによって、この罪との格闘を共に味わわせようとしておられたのです。

ところが、主イエスが激しい祈りをしておられる間に、ペテロをはじめとする三人の弟子たちは眠りこんでしまいます。四十節にこうあります。

それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

ここには大事な言葉がいくつもありますけれども、ここに「そんなに一時間でも」とあります。新共同訳聖書では「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。」となっています。この新共同訳の「わずか一時も」というのと、新改訳の「一時間でも」というのではだいぶ時間がことなります。「わずか一時も」といったらせいぜい五分か十分という印象でしょうか。それが新改訳聖書では一時間です。

いつも祈り会の時にさまざまな祈りの課題をあげて祈りをいたします。大抵は二人づつでお祈りをしますけれども、いつも祈りの課題の話をしている時間の方がついつい長くなってしまって実際に祈りをする時間が短くなってしまうということがあります。それでも、ふたりでだいたい十五分くらいの祈りの時間になるでしょうか。それが、一時間づつということになると、二人ですと二時間です。ところが、みなさんも経験がおありになると思いますけれども、一時間の祈りをするというのはけっこう大変です。よほど祈りに集中しませんと、すぐに祈りが祈りでなくなってしまって、色々なことを頭の中で考え始めてしまい、ついには祈りがどこかにいってしまうなどということがあります。
少しくらいは祈ることができるけれども、一時間もとなると考えなければなりません。しかし、この聖書の言葉は「一時」とも訳せますけれども、ある程度の時間がこの言葉の中には含まれています。おおよそ二時間ほどではないだろうかとする解説もあります。
もし、この「一時」が二時間ですと、主イエスはここで三度祈りをしておられます。しかも、祈るごとにその祈りは深まったはずですから、最初の時間よりも短くなったということではないでしょう。けっこうな時間を祈っておられたのです。
考えてみますと、イスカリオテのユダが弟子たちのところから離れて祭司長のところに行き、兵士たちをつれてこのゲツセマネの園にまで来るのですから、実際にかなりの時間を要したはずです。三時間をゆうに超えたはずです。この祈りの時間を、一方では主イエスは罪と対決しながら、これを受け取るということがどういう意味を持つかと格闘しておられます。
ここにこの時の主イエスの祈りの言葉が載っております。三十九節です。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

主イエスが私たちの罪のために格闘しておられる時に、主イエスは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころをなさってください。」と祈られました。言葉にしてしまえば大変短い祈りです。何も三時間、それ以上かけて祈るようなことではないという印象を私たちは持つのかもしれません。けれども、ここに主イエスが私たちにお見せくださった大事な祈りの姿があると私は思っています。
このように祈るために、この言葉を口にするために、主イエスは死ぬような苦しみをなさったのです。そして、実に長い時間をかけて苦しみながら、この祈りの言葉を口にされたのです。ここに、主イエスの祈りの姿があるのです。人間として生きられた主イエスの祈りの姿がここにあるのです。

ところがその場に居合わせた弟子たちは、この主イエスのなさった祈りに感激してますます自分も熱心に祈ったというのではありませんでした。弟子たちは眠ってしまったのです。眠るということは、集中できなかったということです。退屈してしまったということです。自分のことと考えなかったということです。まるで人ごとなのです。
それを、主イエスは「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われました。

ここに「肉体」という言葉があります。これはパウロが「肉」という言葉で言い表そうとしたことと同じ言葉です。そのまま「肉」と訳したほうが良い言葉です。
私が教えております名古屋の神学校で、月に一度神学生と教師が食事をする時があります。その時に神学生が祈りをするのですけれども、「天のお父様、今この前に備えられた肉の糧を感謝します。これから学ぶ霊の糧とともに祝福として私たちにお与えください。」などという祈りをいたします。そうしますと、さっそく上級生が「あーやってしまったね。」とニコニコしながらその祈りを注意することがあります。
聖書の肉という言葉を、肉体のことだと理解するのです。そして、霊の糧、私たちの心を養う御言葉は尊いものだけれども、肉体は無価値なもの。けれども、この肉体も食べ物がないと生きることができないので、この肉体の糧を感謝するという意味で祈りをすることがあります。ひょっとすると、そのような祈りをどこかで聞いて真似をしたのかもしれません。
けれども、聖書が語る「肉」という言葉は、霊はすばらしいもので、肉体は無価値なものという意味で語っているわけではありません。ここでもそうです。「心は燃えていても、肉体は弱い」と訳してしまいますと、信仰にいくら熱心でも、この肉体に支配されてしまっている人間は、その肉体に立ち向かうことはできないという意味になってしまいます。そうすると、どうすることもできない人間がここで正当化されてしまうことになりかねません。これはそういう意味ではありません。この「肉」というのは、簡単にいえば「人間そのもの」という意味です。人間そのものということは、罪に支配されているのです。神の心から離れて自分の思いを達成しようとしてしまいます。
この祈りの戦いというのは、まさに人間の心の中で起こることと、神の御心との戦いです。罪との戦いを主イエスはここで戦っておられるのです。そのためには、神に祈ることそれ以外にないのだと主イエスは弟子たちにお語りになったのです。

主イエスはここで徹底して神の前で、神の御心がなるのか、自分の思いを貫くのかという間で戦っておられます。それは、私たちの戦いです。ですから、肉は弱いからどうしようもないのだなどと開き直るわけにはいきません。主はここで死ぬような思いで戦っておられるのです。私たちのために戦っていてくださるのです。 そして、主イエスはここでこの戦いを共に戦うことを求められたのです。

ところが、弟子たちは共に目をさまして祈ることができませんでした。主イエスの戦いが分からないのです。主イエスの膝もとにいながら、その祈りの姿を目の当たりにしながたらも、いっしょに祈ることができないのです。これが、私たちの肉の姿です。
私たちはここで、主イエスの姿と、弟子の姿を見ることによって、自分自身の姿を見ることになります。自分自身の弱さを。そして、これがわたしのための祈りであったことを私たちはしっかりと見なければなりません。

私たちの祈りの姿は一時間の祈りをすることもままなりません。間違えた祈りをすることもしばしばです。そのうえ、自分自身の弱さに開き直ってしまうところさえあります。まさに、肉の思いに支配されているのです。けれども、私たちはこの主イエスの姿を見て本当に見なければならないのは、神の御心がなるということです。
どれほど私たちの肉の思いが強くても、どれほど私たちが頑固であっても、神の思いがなるのです。
「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
すべてはこの祈りに集約されるのです。そして、この神の御心にゆだねるときに、私たちは神の御業を見ることができるのです。

お祈りをいたします。

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