2012 年 10 月 7 日

・説教 マタイの福音書27章57-66節 「主イエスの埋葬」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:27

2012.10.7

 鴨下 直樹

 

 先週の木曜日の午後にシャガール鑑賞会を岐阜県美術館で行ないました。私どもの教会の長老であり、岐阜県美術館の館長をしておられる古川さんが、今展示されておりますシャガールの作品の解説をしてくださいました。芥見教会の方だけではなくて、どこから聞きつけたのかいくつかの近隣の教会の方も参加されました。大変すばらしい作品がいくつも展示されておりますし、シャガールの思想が良く分かる構成がされています。今月いっぱいまで行なわれておりますので、まだ見ていない方は是非行っていただきたいと思います。

 先週の説教でもお話ししましたけれども、シャガールはユダヤ人でありながら数多くの十字架の作品を描いております。実際に、今のシャガール展で展示されている中にも数点十字架を描いたものがあります。自分の同族であるユダヤ人たちが次々に殺されていくナチスが台頭した時代にあって、シャガールはその手を逃れ続けておりましたから、どうしても死ということを考えざるを得なかったことと思います。

 そういう中で、主イエスの十字架に慰めを見出したのでしょう。特に今岐阜県美術館に展示されているシャガールの作品の中で「復活のための習作」というタイトルが記されている作品があります。タイトルは「復活のための」となっているのですが、描かれているのは主イエスの十字架です。しかも興味深いことに、キリストの腰に巻かれた布は一般に描かれているような白い布ではなくて、二本の黒い線が描かれています。古川さんの説明によると、ラビの印であるということでした。この十字架にかけられているのはキリストではない、ユダヤ人のラビだと解釈することもできるのかもしれません。ユダヤ人の同胞のための説明としてそうしたのかもしれません。なぜこう描いたのか理由ははっきりしないのですが、その絵から分かることは、十字架に架けられたのはユダヤ人であるということです。私はこの絵を見ながら色々なことを考えさせられました。描かれたのは1948年です。第二次世界大戦が終わった数年後で、この年、聖書の時代にイスラエルが国を奪われてから二千年以上の時を経て、5月14日にイスラエルの独立を宣言した年です。このためにこれまで非常に多くのユダヤ人の血が流されてきました。

 主イエスが十字架に架けられた時、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」とマタイ二十七章二十五節で民衆が叫んだあの言葉を、文字通り体験していた時代です。そういう時代に、シャガールはキリストの十字架を描いているのです。しかも、ユダヤ人がここで殺されているのだと描いたのです。そして、その絵のタイトルに「復活のための習作」とつけます。

 この絵を見ると、どうもシャガールはキリストの十字架だけではない、復活にも望みを抱いていたとしかどうも考えられないという気がしてきます。シャガールは一方でそのような同胞であるユダヤ人の死を目の当たりにしながら、キリストはまさにそのような人の罪の犠牲となって死なれたけれども、それは復活して新しく生きる者とされるためなのだと信じていたとしか考えられないのです。もちろん、私の勝手なシャガールの絵の解釈です。そうでないかもしれませんが、ぜひ、ご自分の目でご覧になって、この絵と対話していただければと思います。

 

 

 今、わたしたちは主イエスの受難の出来事を聖書から聞き続けています。今日の説教題を「主イエスの埋葬」としました。キリストが十字架で死なれ、葬られたところです。この福音書を記したマタイがここでしようとしているのは、主イエスは本当に死なれたのだということを記したということです。その埋葬については、今日の日本のように火葬するわけではありません。亡骸を墓に葬るのです。六十節には「岩を掘って造った墓」とありますけれども、誰もがそのような大掛かりな墓を持っていたわけではなかったようです。ここにでてまいりますアリマタヤのヨセフという金持ちが用意していた自分のための墓です。当時のローマの法律では死刑にされた者の遺体は家族しか引き取ることができませんでした。しかし、墓がなければそれもかないません。引き取り手がない場合はそのまま外で放置されて、野生の動物の餌食となるしかなかったようです。ですから、このヨセフの申し出があったがゆえに、主イエスは墓に葬られることになったのです。

 ここで「大きな石をころがして」とありますから、大きな墓です。石でふたがされる。その瞬間、人は死に対して何もできないのだということを思い知らされるのです。西洋のように土の穴の中に棺を納めて土をかけるような場合であっても、あるいは日本のように火葬をする場合であっても、死による別れの悲しみが襲うのです。本当にこの人は死んでしまったのだという現実を突き付けるのが埋葬です。

 

 

 申命記二十一章二十二節から二十三節によるとこう記されています。

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。

と記されています。ですから、主イエスの遺体は、その日のうちに埋葬しなれけばなりませんでした。この律法にしたがって、主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られます。翌日は安息日でしたから、その日のうちにしておかなればならなかったのです。

 この申命記には、「木につるされた者は神にのろわれた者」とあります。まさに、神に呪われた者として、主イエスはすべての人の呪いを身に受けて墓に埋葬されたのだということが、ここからも良く分かります。こうして、主イエスは本当に死なれ、神に呪われて葬られたのだということが明らかにされるのです。

 

 

 しかし、この埋葬の出来事を記しながらマタイはそこで非常に興味深いことを記しました。六十二節以下です。

 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。

 ここに「次の日、すなわち備えの日の翌日」とあります。「備えの日」というのは安息日の備えの日のことですから、金曜です。その翌日というのは土曜日、つまり安息日のことです。この安息日に、祭司長とパリサイ人たちはピラトのところに訴えに行ったと記されているのです。つまり、労働してはいけない、移動してはならないと自分たちで定めた戒めを自ら破ってピラトの所に赴いたというのです。マタイは「安息日に」と直接的に書かないで、わざわざ回りくどい表現をしていますが、この安息日にパリサイ人、律法学者が何をしようとしたのかというと、主イエスは復活すると言っていたので、墓から死体を盗まれないようにしておいて欲しいとピラトに頼んだのだというのです。それはどういうことかというと、自分たちの戒めをやぶっても、主イエスを墓の中にとどめたままにしておきたいということでした。

 

 少し前のことですけれども、妻が図書館から一冊の本を借りて来ました。曽野綾子さんの書いた「幸せの才能」という本です。曽野綾子という方はご存じの方も多いと思います。カトリックの信仰をもっている作家です。この本は色々なところに曽野綾子さんが書いたエッセーをまとめたものですけれども、曽野綾子さんの信仰の姿勢がよくあらわれたものです。その中に「人間の生涯の最後の仕事は許すこと」という短いエッセーがあります。その中で日本の現代思想の中に許しというテーマは主流になったことはない。むしろ正義は人の悪を決して許さず罰するものだという考え方の方が日本では主流になっているということを書いています。その中で、あの九・一一のニューヨーク同時多発テロ以来、多くの日本の宗教学者がユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は決して敵を許さず、必ず報復するのだと書かれてきたけれども、キリスト教については完全な間違いだと書いています。聖書は復讐を語るのではなく、敵を愛せ、完全に許せと書いている。そこで、こんなことを書いています。

「キリスト教国では、自分の身内を殺された人が、しばし新聞に、『私は犯人を許します』という意思表示の広告を出すのだそうだ。しかし、日本の被害者は『犯人には極刑を望みます』と言う。誰でも本当は憎い相手を殺してやりたいと思うのだ。しかし、衝動的な報復の思いは、理想的であるべき愛の反対の極みにあるのだが、それでもかまわないらしい。デーゲン神父は人間の生涯の最後の仕事は、憎んでいた人を許していくことだ、と言われた。紛争の連鎖を切り、心の平安を取り戻すには『許し』しかない。しかし、日本では、自分が許すことのできる人間になりたい、と願う人はほとんどいないようである」。

 短い文章の中に色々なことが書かれていますが、お互いが正義を主張しあうところには争いしか起こらないではないかということを書いています。この争いの連鎖を断ち切るには許すこと、誰かが絶えること、誰かが許しに生きる以外にないのだと書いています。

 

 パリサイ人と、律法学者は自分たちの正しさをことさらに主張しています。そのために、主イエスを完全に死に封じ込めておこうとします。そうすることによって、どこかに弱者をつくることで自分たちの正義が成り立つのだと考えます。だから、墓から出て来てもらっては困るのです。そのためには、自分たちが普段正義であると主張している律法を破ってもいいとしながら、このような行為に出たことは実に滑稽です。

 先日の木曜日に行なわれた祈祷会でもある質問がでました。どうして、ユダヤ人や、イスラム教やキリスト教の間で戦争が起こるのかという質問です。その時にもお答えしたのですが、みなが自分が正義だと思っているからだと答えました。正義を成り立たせるためには、邪魔なものは墓の穴の中に閉じ込めるしかありません。完全に抑圧するしかないのです。完全に殺してしまう意外に、死に追いやる以外に、この正義は成り立ちません。しかし、そのような正義は次々に新しい争いを生み出していきます。

 

 主イエスがここで墓に埋葬されるということはどういうことなのでしょうか。パリサイ人や、律法学者たちの正義に勝利を与えるためでしょうか。完全な弱者を生むことが、主イエスがもたらそうとした愛なのでしょうか。そうではありません。主イエスがここでなさったのは、人の罪を身に受けるという赦しの行為です。相手を完全に受け入れるために、十字架につけられ、墓に葬られたのです。主イエスはここで、パリサイ人も律法学者をも赦しておられます。これまでにはない新しい関係を築き上げることができるようになることを願っておられるのです。

 パリサイ人は主イエスを墓に押し込めて出て来られないようにすることによって、自分たちが正義であることを主張しようとしています。自分たちに都合の悪いものは見たくない。目に入れたくないのです。そうやって、自分の正しさが成り立つ世界を造ろうとします。しかし、そのような小さな正義をぶつけ合うところには希望はありません。あるのは、悲しみと憎しみと疲れと苛立ちです。

 このマタイの説教の中で何度も語ってきたことです。私たちは自分の正義を、自分が自由にすべてを支配することができる国に生きることを求めているかもしれません。しかし、そのような正義こそが罪であることに気づかなければなりません。このマタイが語っているのは、天の御国です。神の支配なさる世界です。そこではただ神の義だけがあるのです。そして、この神は、ここで主イエスを十字架につけて殺されます。人間のすべての呪いを、主イエスの身に負わせられたのです。

 

 

 最初にお話ししましたシャガールは、十字架を描きながら、この絵は復活のための習作であると書きました。イスラエルが新しい国家としてこの世界にもう一度誕生した年に、ユダヤ人の沢山の死も、多くの犠牲も、この世界が生み出した一つの正義のための犠牲にすぎません。そして、その正義はこの世界に大きな悲しみしか残しませんでした。けれども、この主イエスの十字架から復活が始まるのです。今、この絵は新しく私たちが生きるための練習なのだとシャガールは描いたのです。

 

 私たちは、悲しみをどこかの穴に押し込めておく必要はなくなったのです。誰かの正義によって苦しまなければならないことからも解放されるのです。神が、主イエスを十字架に架けられたのです。すべてのこの世界の呪いを、その身に負わせられたからです。

 それゆえに、私たちは新しく生きることができるのです。神の国で、天において神がすべてを支配しておられるように、わたしたちもこの地で赦しに生きることができるようになるのです。

 自分を傷つけたものを、自分を墓の穴の中に押し込めてきたものから解放されて、神の国に生きることができるのです。キリストの埋葬の出来事は、そのことを私たちにもたらされたことを告げているのです。

 

 お祈りをいたします。

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