・説教 ピリピ人への手紙1章19-26節 「生きるにしても死ぬにしても」
2013.6.30
鴨下 直樹
先日、F家の家庭集会であるたとえ話をしました。普通の人のする算数と、キリスト者のする算数は答えが違うかという話をしました。みなさんはどうだと思われるでしょうか。1+1=2。これはキリスト者であっても、そうでなくても答えは同じです。けれども、私は、その答えの意味はまるで違うものなのです。
主イエスと出会ってキリスト者になる。ところが、キリスト者になっても、以前とまったく変わらないことが起こります。悲しいと感じたり、腹を立てたり、憤ったり、そういう感情が心の中に浮かんでくる度に、これでもキリスト者になったと言えるのかと、自分自身の信仰に疑問を持ちたくなることがあるのではないかと思うのです。実は、何も変わっていないのでないかとさえ思えてくることもあると思います。キリスト者であろうと、そうでなかろうと、まったく変わらない同じ結論にたどりつくのです。1+1の答えが同じであるように、キリスト者と、そうでない人とが感じる感じ方もそれほど変わりません。悲しい。腹が立つ。けれども、そのような同じ結論に行き着いたとしても、キリスト者であるということは、そういう自分を主が支えていてくださるということが、決定的に大きな違いを持つのです。
それまでの自分はその時に、ただ憤る、ただ悲しい、どこかで仕返しをしてやりたいと思う。そういう答えにたどりついていたのが、キリスト者になるということは、同じ答えにたどりついたとしても、そのことを、主が知っていてくださる、主が支えてくださるということ。それは、絶望に終わることのない私たちの土台をすえる確かさがあるということを意味するのです。
今日はなぜ、この話から説教を始めたかと言いますと、パウロがここで語っていること、特にここでは死ぬことについて語っているのですが、ここで語っていることもまた、同じだと思うからです。
人は誰もが死にます。死にたくないと思っていても、死は日に日に私たちに近づいて来ます。けれども、誰もがどう生きたって、どれほど立派な生き方をしても最後に待っているのは死です。そうすると、結局死んでしまえば何の意味もないではないかと、多くの人々が考えますが、このことに対して、私たちは、それは違うのだと明確に答えることができるようになるということです。私たちの人生の終わりに待ちかまえている死でさえも、主がそこで支えてくださるがゆえに、死の意味も、また、生きる意味もまるっきり違ったものとなるのです。
前回のところで、パウロは自分に敵対する者がいたとしても、キリストが宣べ伝えられているのであれば、私はそれを喜ぶと語りました。そして、その理由として、今日の十九節では、
あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。
と言いました。
ここで「私の救い」という言葉をパウロは選びました。ヨブ記の第十三章にこういう御言葉があります。「神もまた、私の救いとなってくださる。」ヨブの言葉です。ある聖書学者は、パウロはここで、このヨブの言葉を思い起こしていたのではなかったかと想像します。ヨブは、ご存じのように、自分の持ち物をすべて神に奪われて、大きな悲しみの中に身を置いた人です。けれども、そのヨブは、こういう厳しい経験をしても、「神は、私の救いとなってくださるのだ」と信じて告白したのです。このヨブの心にパウロも寄り添っていたのではなかったかと考えることはできると思います。パウロもエペソの獄中にいながら、神は私の救いとなってくださる方だと、この御言葉がつい口に出たのではなかったかというのです。絶望的な状況にあっても、絶望することなく、そこに立ち続けていられるのは、パウロを主が支えてくださるからだという事実によって、裏打ちされるのです。
ですから、パウロは大胆にこう語ることができました。二十節、二十一節です。
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
私は、牢の中に捕らわれていたとして恥じることはないのだ、嘆くことはない、悲嘆にくれることはないのだと大胆に宣言することができました。そして、パウロは語ります。「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること。このことこそ、私が切に願っていることなのだ」と。
ここで、パウロは「切なる願い」という言葉を使いました。この言葉は実はとれも面白い言葉で、どうもパウロが新しく造った言葉だと説明する人がいます。あまり使われることのない言葉なのです。聖書の中でもここ以外ではローマ八章十九節で「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」というところで使われているだけです。ローマでは「切実な思いで」となっていますけれども、ここからも分かるように、この意味は、待ち望むという意味です。もともとの言葉は「頭を前の方につきだしながら考える」という言葉なのですが、日本語の「首を長くして待つ」という言葉だと思ってくださるといいと思います。私が、この牢獄に捕らわれている自分の体が、キリストのすばらしさを現わすことになるのだとしたら、それを首を長くして待ちたいというのです。
ここに、パウロの渇望が語られています。しかし、手紙を見て見ると、パウロの願っていることというのは、パウロが輝かしい成功をおさめるということなのではなくて、パウロの身に、殉教の死が差し迫っているのです。パウロを待ちかまえているのは死です。牢につながれながら、パウロは一方で死を感じとっているのです。だから、こう言う言葉が続いているのです。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
私が生きているならば、私のいのちはキリストのものであるし、もし、殺されたとしても、それもまた益だという。なぜかというと、私の身をとおしてキリストの素晴らしさが現わされるからだと。パウロの命は、パウロの体は、パウロのものであったけれども、パウロはどうも完全にキリストのものにされている、だから、パウロはキリストと同じように死ぬことを選び取ることができたのだということが、誰からも明らかになる。それは、キリストの素晴らしさが現わされることだと、パウロは言うことができたのです。
そして、その後の内容を見て見ると、こう書かれています。
しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私には分かりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
と続いていきます。パウロの言葉はまだ続きますが、この内容を読んでいると、パウロはまるで、自分で死を選ぶのか、生きるほうを選ぶのか、その決定権を自分で持っているかのような書き方をしています。
パウロは今、捕らえられているのです。パウロを裁くのはローマです。パウロの裁判がどうなるのか、釈放されるのか、死刑にされるのか、その選択権はパウロにはまったくないのです。けれども、パウロの書き方はまるでそういった悲壮感は少しもありません。なぜかというと、パウロは完全に、生きるということと、死ぬということから自由になっているからです。それが、キリストのものであるという、パウロがこの信仰に生きて味わっている事実なのです。
さらに、パウロの言葉は続きます。二十五、二十六節。
私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
パウロは、「ピリピの教会の人々の信仰が成長と喜びのために、私は生きながらえると確信しています」と言うことができるほどの自由を得ていたのです。パウロはいつ死んでも大丈夫と腹をくくることができました。それは、パウロが完全に主のものとなったからです。だから、ヨブのような困難な中であっても、「神もまた、私の救いとなってくださる」との信仰の言葉に包まれていました。
最初に話しました。キリスト者のする算数と、そうでない人のする算数は、答えは同じでも、意味は全然異なるのだと。ここに、パウロが保ち続け、私たちに与えられている信仰があります。
今月の初めに神戸で行なわれたJEAの総会に参加した時に、真ん中の日の午後から自由時間がありました。ちょうどその時に、神戸市の小磯美術館という小さな美術館で堀江優(ほりえ まさる)さんの美術展が行なわれておりました。私はこの方のことを全く知らなかったのですけれども、Fさんから、今、神戸で面白い展示をしていると聞かされていましたので、この時に見に行ってまいりました。この堀江優という方は牧師の息子で、生涯ほとんど聖書のテーマしか描かなかった人です。しかも、水彩画です。けれども、見に行ってびっくりしたのですけれども、この人の水彩画は、ホントに水彩画なのと疑いたくなるほどのしっかりした色使いの作品ばかりです。そして、どの絵もそうなんですが、テーマは聖書の人物です。顔はまるで似顔絵画家のようなデフォルメされた描き方で、大きな鼻に、顔の半分は目というような大きな目で描かれているのです。画集を買い求めてきましたので、後で受付のところに置いておきますから見てくださったらよいと思いますけれども、どの絵も、非常にインパクトの強い絵です。その画集の最後に解説がのっておりまして、堀江が描こうとしたのは、人間の弱さだということが書かれていました。私にはそんなふうには見えませんでしたが、ただ、はっきりしているのは、この人の絵の中に描かれているキリスト者の目は、どれも非常にしっかりとした愛橋を持つ者として描かれているということでした。目に命があると言ったらいいでしょうか。この人の絵を見ながら、信仰に生きている人との違いは、実際にもそうなのかもしれないと考えさせられたほどです。
パウロは語ります。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」このパウロの言葉は、生きることを支えられている者、全てが同じように自信を持って告白することができる言葉です。私たちの目は、生き生きとしていることができるのです。なぜなら、主が支えてくださるからです。何があっても、何が起こっても、私たちは主に支えられている。私が生きているのは、つまり、キリストが私の中に生きておられること。そう、私たちはパウロと同じように告白することができるのです。
私たちの願い、それは、ちゃんと生きたいということにつきると思います。悲しい思いも、苦い経験も、辛いこともできれば味わいたくありません。けれども、実に、そのような中に置かれるときにこそ、私たちは知るのです。私たちのいのちは、ここでこそ輝くのだと。このような中でこそ、ほんとうのいのちを生きることができるのだと。そして、パウロと同じように私たちは告白することができるのです。「私の身によって、キリストの素晴らしさが証されること。そうなれば、わたしはなんと嬉しい事か」と。
主はこの喜びの中に私たちが生きるために、私たちと共にあって、私たちを支え、導き、生かしてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。