2014 年 5 月 25 日

・説教 ヨハネの福音書3章22-30節 「喜びに満たされて」

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2014.5.25

鴨下 直樹

今、私たちはヨハネの福音書を順に聞き続けています。先週は不在で一週間空いてしまいましたので、少しヨハネの福音書の流れをつかみにくいと思っておられるかもしれません。また、このヨハネの福音書の構造が少し分かりにくいと感じるかもしれません。以前、聖書学者たちが、このヨハネの福音書の順番を入れ替えて内容を再構成するという試みがなされたことがあります。聖書学者たちも、順番を入れ替えないと理解できないと考えたのです。それほど、話の順序がおかしいと感じたのでしょう。しかし、最近はやはりそのまま読むほうがよいということで、落ち着いているようです。少し後ろにさがって、引いた目線で見てみますと、全体としてはそれほど複雑ではないのです。少し、このヨハネの福音書の流れを確認したいと思うのですが、2章から3章の終わりまでは一まとまりの文章になっています。この部分のテーマは、主イエスに対して、人々はどういう態度をとっているのかということです。実は、この主イエスに対する態度を四つに分けることができます。最初の部分は2章1-12節にあるカナの婚礼です。ここに、主イエスの母マリヤが、主イエスの言われることに全幅の信頼を寄せていることが記されています。主はここで、マリヤに冷たくしているように見えますけれども、マリヤの信頼に応えておられます。二番目は2章13節-35節です。主イエスがエルサレムを訪れた時に、多くのユダヤ人たちは主イエスを信じます。自分にとって価値があると判断すれば信じてもいいとする態度がここに描き出されています。そして、三つ目は3章1節から21節で、ニコデモです。二番目の代表として描かれていますけれども、主イエスに一定の価値を見出しながらも、これまでの自分の行き方とのはざ間で、一定の距離をとってしまう人が描かれています。そして、最後に、今日からのところですけれども、主イエスが大切で、自分はこのお方の前には取るに足らない者だと認めているバプテスマのヨハネが描き出されています。

特に今日の30節の言葉はさまざまなところで、心に留める必要のある言葉が記されています。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

ヨハネは主イエスを前にして、そのように自分のことを言うことができる人でした。これは、言ってみれば、このお方こそが主なのだということです。

しかし、人というのは、自分がちやほやされている時は気分がいいのですが、後から立派な人が現れると嫉妬をしてしまうことがあります。露骨に比較されるということはなかったとしても、どこかで誰かが褒められていると、誰も自分のことを軽んじているわけでもないの、どこか自分のことが軽んじられているような気持ちを持ってしまうことも人によってはあるようです。そういう時に、その場所で人に話したりしますと、自分が小さい人間だと思われてしまいますから、後で、誰もいなくなった時に、また思い返して悲しい気持ちになってしまうなどということをしてしまうことがある。それで、また自己憐憫に陥ってしまって、などということになっていきますと、どんどん思考がネガティブなほうにばかりむかってしまう。

ヨハネの弟子はそのような複雑な気持ちでした。主イエスはヨハネから洗礼を受けましたし、記録の中にも、主イエスの一団よりも、バプテスマのヨハネのグループのほうが多くの人数を集めていたのです。そして、言ってみれば、主イエスもヨハネにならって洗礼を授けていたのですから、ヨハネの弟子からしてみれば、自分たちの後あら出てきたグループに過ぎないし、本家はうちだというような自負があったと思います。ところが、人々がヨハネのところにではなく、少しづつ、主イエスのほうに流れていってしまう。そんなことが26節に記されています。

「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

この言葉の中に、ヨハネの弟子たちがどれほど葛藤していたかがよく描かれていると思います。「以前はみんな私たちの方に来ていたのに・・・」という何とも悲しい気持ちになるのです。

テレビなどでも「あの人は今」などと言って、一昔前に一斉を風靡した人物の特集をしたりすることがあります。私たちも懐かしがって見ることがあると思いますけれども、私たちの世界は、どうも、人から必要とされなくなったらもう終わりであるかのような価値観が、そういうところからも根深く浸透してしまうようです。ですから、忘れられないように、わざと事件を起こしたりしながら、何とかしがみついていたいと思う。それは何もテレビの世界だけのことではなくて、誰もが一所懸命に、自己アピールをしながら、自分にはこういうことができるのだということを主張しながら、まだ自分が必要とされているということで、それを自分の存在価値だと思い込んでてしまうところがあるのです。

それで、職場では学閥のようなものが生まれたり。お母さん同士でもグループを作ったりしながら、必死になっている自分の存在が軽んじられないように、忘れられないようにと振舞ってしまうのです。学校でもそうです。子どもたちも、目立つグループに所属していることが価値があることなのだと考えて、うまく対応できないことをつま弾きにしていってしまう。この問題は、私たちの毎日の生活に非常に深く入り込んだ、自分とは何者なのかという、自らの存在意義を問う問いとなって、私たちに向けられているのです。

しかし、ヨハネはそういう中で、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と躊躇することなしに、語ることができます。これは、自己を卑下した言葉ではありません。よく、この言葉が間違って遣われてしまうことがあります。そうした犠牲の上に、ことは行われるのだという聖書の言葉のように読み取られてしまうことがあるのです。

しかし、バプテスマのヨハネがここで語っているのはそういうことではないのです。それが29節によく現れています。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

ヨハネはここで、「私は喜びに満たされているのです」と言っているのです。

先ほど、イザヤ書の62章を聞きました。その4節と5節にこう書かれておりました。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

これは、イスラエルがもう一度神の元に戻る喜びを語っているところですけれども、ここで、イスラエルは神の花嫁と言われています。旧約聖書には他にもいくつかの箇所で同じように書かれているところがあります。神の民は神の花嫁と呼ばれているのです。そして、もちろん、新約聖書でも同じように書かれているところが沢山あります。エペソ書の5章であるとか、ヨハネ黙示録21章にも、教会のことを「キリストの花嫁」と書いています。旧約のイザヤ書で言えば、神は神の民イスラエルを花嫁と呼んでおられる。そのように、神は神の民を愛おしいものとして愛していてくださいます。

ヨハネはここで、主イエスは神の愛すべき民を、ご自分の花嫁として受け入れておられるのを目の当たりにしながら、私はその花婿、キリストの友として、その婚礼の席で、花婿が嬉しそうな姿を見ることができることは、私にとってこの上もない喜びなのだと言っているのです。

新改訳は「友」としたこのことばは、新共同訳では「介添え人」と訳されております。結婚を取り持つ仲人としています。もともとのことばは「フィロン」というギリシャ語で、「友」という言葉です。自分はキリストの友として、神の民を喜んで迎えるために洗礼を授けている主イエスを心から喜んでいるのですと、ヨハネはここで言っているのです。

ヨハネはここで、自分を置いておくことができるのです。自分は必要とされていない。自分の役割が終わってしまったなどと言って嘆いているのではなくて、キリストが、主イエスが、ご自分の使命に生きておられることを、心から喜んでいるでいるのです。

ヨハネの福音書はここで、主イエスを受け入れるということは、たとえ自分が無くなってしまったとしても、主イエスが喜ばれることこそが私の喜びと言うことができるようになる、そのような生き方があるのだということをここで描いて見せているのです。それこそが幸せな道なのだと伝えたいのです。

たとえば、それは主の祈りの冒頭で、「御名があがめられますように」という祈りの中にあらわされていることと同じことです。私たちは自分の名前が高められますようにと祈りたい思いを捨てて、主の御名が聖とされるように、あがめられるように祈るように教えられているのです。自分の生活が省みられるように、自分が幸せを感じられるようにと祈りたい者です。しかし、それを超えて、まさに、イエスを主と呼ぶということは、「あなたがすべてです」、「あなたこそがすべてです」というあの有名な祈りの中に、私たちの生活のすべてが包まれているのです。

あのアッシジの修道士フランチェスコの最初の弟子となったベルナルドは、お金持ちの貴族でした。まだフランチェスコが世俗を捨てたばかりのときに最初に弟子となった人です。このベルナルドはフランチェスコの祈りの秘密を知りたいと思い、フランチェスコを訪ねます。夜になってベルナルドは寝たふりをしながら、フランチェスコがどういう祈りをするのか聞こうとしたのです。ベルナルドは寝たふりをしていびきをかきました。すると、フランチェスコは祈りを始めます。その時、祈った祈りは「我が神、我が神よ」と朝まで同じ言葉を繰り返し続けながら、涙ながらに祈っていたんだそうです。その時に祈った祈りは「我が主よ、我が全てよ」という祈りであったという記録もあります。「マイゴット、マイオール」という祈りとして知られるようになった祈りです。この祈りを聞いて、ベルナルドはフランチェスコのように生きることを決心したと伝えられています。

この時に祈ったとされる「我が神、我が全てよ」という祈りは、祈りの中の祈りということができると思います。「神、主よ、あなたが、わたしのすべてです。」という祈りの中に、すべての祈りが含まれているということができると思います。心からそう祈ることができればと思うのです。ですから、フランチェスコも何時間も同じ言葉で祈っていたのかもしれません。

私たちの神、主がすべてです。主イエスがすべてを支配しておられます。そして、このお方に身をゆだねること、これが信仰です。たしかにそれは、自分を捨てることです。しかし、ここには同時に、自分を生かす道があるのです。喜んで生きる道があるのです。私たちは、この主イエスを信じる信仰によって、喜んで生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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