・説教 ヨハネの福音書7章10-24節 「あなたを真実に生かすもの」
2014.10.19
鴨下 直樹
ヨハネの福音書というのは、とても興味深い書き方をしています。この前のところで、仮庵の祭りの時に、主イエスの兄弟たちは、今こそ好機なのだからエルサレムに行って目立つような働きをすることこそが成功の近道だ、という提案をいたしました。しかし、そこで主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言われて、この提案を拒んでいます。
ところがです。今日のところを見ると、10節で「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」と書かれています。しかも、「内密に」と書かれているので「こっそりエルサレムに行ったような印象を持ってしまいますが、どうも14節をみると「宮に上って教え始められた。」とありますから、こそこそしたエルサレムの宮参りというわけではなかったようです。こともあろうに、神殿で大胆に語り始めてしまっているのです。
実は以前にもこんなことがありました。ガリラヤのカナで、あの水をぶどう酒に変えられた時のことです。主イエスの母が、「ぶどう酒がありません」と主イエスに言うのですが、その時も「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言われたのです。関係ない、わたしのでる時ではないのだと言いながら、主イエスは結果として、ご自分でやらないと言われたことをなさっておられます。いや、言われたこと以上のことをなさったと言ったほうがいいかもしれません。「あまのじゃく」という言葉がありますが、「やらない、やらない」と言いながら、ちゃっかりやってしまう姿に、そのような連想をするのも仕方ないことと言えます。
もちろん、ここで主イエスは、ご自分の兄弟や母の言われることをそのまま聞いて事を行われたのではありませんでした。人の期待に応えるために働かれたのではないのです。これは大切なことです。けれども、神の意志に従って、そこで主イエスは御業をなさいます。ですから、ここに書かれていることは、神が意図しておられることとして読むことが大切です。「わたしの時」とご自身で言われた、その時を来らすための大切な御業をここでなさっているのです。
ここで何が起こったのかといいますと、その神殿で主イエスが教えられたことに対する人々の反応が書かれています。
10節から14節までのところですでに、人々の主イエスに対する評価の違いが記されています。「良い人だ」と言う人もあれば「違う。群集を惑わしているのだ」と言う人もあったのです。ところが、この時点ではまだ漠然とした噂ばなしにすぎませんが、15節からは、主イエスがエルサレムの神殿で直接語ることばを人々は聞いたのです。そこで、改めてどう評価をしたらよいのかということが問題となったのです。直接主イエスの話を聞いた人々の率直な反応としては15節に記されています。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
それは、主イエスが語られたことがきちんと筋の通った話をなさったと言うことでしょう。認めざるをえないほどに、きちんとした内容のことを話されたのです。だからこそ、これを聞いた人々は驚いたのです。
私たちでも誰かの講演会などを聞きに行きますと、そこには必ず講演者のプロフィールという欄があって、どこで学んだ人なのかということをきちんと書くことになっています。あるいは、誰に師事したなどというのを見るわけです。それを見ながら、この人はこういうところで勉強をなさった方なのだと分かる。先日もノーベル賞の発表がありました。ノーベル物理学賞に三人の方が受賞されました。一人は名古屋大学の方ということで、地元のテレビでもずいぶん特集を組んだようです。そうしますと、次からは名古屋大学にはノーベル賞を受賞した先生がいる大学ということになっていきます。そうやって、学校の知名度というのが上がっていくわけです。それと同時に、そこで学んだ方々の評価も不思議と上がっていきます。そうやって、学ぶ者の権威というものを作り出していくわけです。それは、今も昔も何ら変わったことではありませんでした。そのようにして、「権威」というものを作り出して、その人の背景にはどういう「権威」があるのかによって、その人の言葉の価値を作りあげていったのです。
ところが、主イエスの言葉というのは、確かに筋は通っている立派な話しぶりだったのでしょう。しかし、この方の背後にある権威が明確でない以上、その言葉の価値を測りかねたのです。それで、主イエスの言葉の権威はいったいどこから来ているのかということが、主イエスの言葉を聞いた人々から上がってきたのです。この質問に対して、主イエスは「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」と16節でお答えになられました。ここで語られた主イエスの言葉の中で、特に注目したいのは続いて語られた17節の言葉です。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神からでたものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」そのように主イエスは言われたのです。
神からの言葉を語っているのか、自分から出た言葉を語るのか、それはちゃんと言葉を聞いたら分かる、と言われたのです。特にここで、主イエスは「神のみこころを行なおうと願うなら」とちゃんとことわっていることが大事です。神を語ろうとするところ、自分の中から出た言葉で語るのはあり得ないと言われているのです。
特にこの17節には「自分から話す」と訳されている言葉があります。これは、ギリシャ語ではそのように訳すしかない言葉なのですけれども、新共同訳聖書では「自分勝手に話す」と訳しました。神の心とは関係なしに自分勝手に話している。そのように、主イエスは言われました。これには、実に痛烈な非難が込められています。
ずっと読んでいきますと、だんだん分かってくるのですけれども、21節で主イエスは「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。」と言われました。どうも、このことが、人々の心に大きくひっかかるようになったのです。この主イエスがなさった「一つのこと」というのは、すでに5章に書かれているのですが、前回主イエスがエルサレムに来られた時の出来事のこと、つまり、安息日に主イエスはベテスダの池に行かれて、そこで三十八年もの間、病気にかかっている人を癒されたことが書かれています。ここで、主イエスは安息に働いてはいけない、だから治療行為もしてはいけないのに、主イエスはそれをしたということで、ユダヤ人たちはこれに対して腹を立てたのです。その時に、すでに、ユダヤ人たちはイエスを殺そうと思ったということが書かれています。
「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という十戒の戒めがあります。この戒めを主イエスは軽んじたと考えて、人々は主イエスを殺そうとしたのです。「殺してはならない」という戒めがあるのにです。
かつて、主イエスがエルサレムに来られた時、ベテスダの池で長年病に苦しんでいた人を憐れまれました。そして、お癒しになられた。その時もお話ししましたけれども、安息日の心は、人が本来の自分を取り戻すために「いのちを与えたいと願っておられる」ということです。5章の17節で、その時主イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。」と言われました。安息日に神は眠っておられるのではなくて、働いておられる。人を生かすために働いておられるのだと言われたのです。
ところが、人々は父なる神の心よりも、決められた取り決めを守ることこそが神のみこころと思い込んでしまいます。そして、自分たちが大切だと考えていることが大切にされていないことに腹を立てました。けれども、主イエスは7章の17節で「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」と言われたのです。
本当であれば、主イエスの言葉を聞けば、主イエスの行動が何に根差しているかは明白なのです。しかし、人々は「腹を立てた」のです。それが23節の最後のところに記されています。
人々の立腹の理由は、主イエスは神の律法を軽んじたというのが、その理由です。つまり、正義は我々の側にあると考えたのです。神の権威によって判断するならば、主イエスのなさったことは間違っている。そして、主イエスはそのような人々の判断に対して「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(24節)と言われたのでした。
もちろんユダヤ人たちにしてみればうわべで判断をしているつもりはないのです。しかし、それはうわべの判断だと主イエスはここで言われます。そして、このことのよく理解するためのカギになる言葉が「自分から語る」という17節の言葉です。神の判断、神の言葉によって判断しているように見せかけて、それは、実は自分の心の中の言葉でしかないと主イエスは言われるのです。突き詰めて考えてみると、主イエスが安息日に人を癒されたという出来事は、素晴らしいことであったはずなのですが、自分たちの重んじている安息日を軽んじられている気がするという、自分の感情が不快に感じたということ、自分の気持ちの問題でしかないのです。もし、それが本当に神の戒めの問題であるならば、この気に入らない人には消えてもらいたい。それは死に値する罪だと考えてしまいます。しかし、父なる神の心を問うならばそのような理解になるはずがないのです。
先週、アメリカのシカゴのグレンビューで伝道しておられる蛭沼先生たちご夫妻を水曜日と木曜日にお迎えして宣教報告をお聞きし、共に祈る時を持ちました。どちらの曜日もとても豊かな時間を過ごすことが出来ました。そして、アメリカの地に生活する日本人たちの大変さということについても、改めて考えさせられました。子供が一人で外に出歩くことのできない社会というのを私たちはあまり想像できません。人を信じられないということが前提になっている生活があるということに、私などは驚きを覚えました。しかも、法律で13歳と言われたでしょうか、はっきり覚えておりませんが、シカゴではある年齢になるまで、かならず一人で家にいさせてはならないという法律があるのだそうです。自分の家でさえ安心ではないのだということを法律でうたっているのです。国が違えばそこには違う文化があります。それぞれの常識と思っていることが大きく違ってきます。もちろん、大変なことばかりではないと思います。違ったその土地ならではの良さ、素晴らしさもたくさんあるのだと思いますけれども、そういう習慣の違いというのは、生活に大きくあらわれます。ですからよく言われるのは、海外で信仰を持った方が帰国して来た時に、自分の国であるはずなのに、その国で信仰生活することの難しさが生まれてしまいます。自分がアメリカで常識だと思ってきたことと、日本の教会の常識とが違うのです。よく例に出されるのは、自分はアメリカでジーザスを信じたのだけれども、日本ではイエス様と言う。この言葉の違いですでに、違う信仰のような気がするという感覚が生まれるのだそうです。
その時に、自然に、自分の心の中に生まれ育っている感覚というものがあって、それを判断の基準にするということが起こります。実は、これは、アメリカと日本の教会の違いということだけではなくて、結婚をしたときの、自分の家の家庭習慣の違いと、相手の家族の習慣の違いといったことにも、そのままあてはめられることです。
そういう時に、私たちは「自分の言葉」、「自分の心の声」によって物事を判断しようとします。それは、真実かどうかということではなくて、自分の言葉によって、腹を立てるのです。
18節に「真実」と「不正」という言葉が出てきます。この「不正」という言葉は「不義」とも訳せる言葉です。ヨハネの福音書にはここにだけ出て来る言葉です。何が真実なのか、何が間違ったことなのか。そのような判断を、ものごとの本来の姿をみないで、自分の感覚、感情で判断して、しかも、あたかもそれが神のお考えであるかのように、自分の中で、自分の考えを正当化していく。自分こそが正義だと。自分の考えこそが正しいのだと。しかし、18節
「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正はありません。」
何で判断するのか。それは、自分の心の言葉なのではなくて、神にとって何が最善なのかなのです。そこにこそ真実がある。神にとっての正しさがあるのですと、主イエスは言われるのです。
もう、このヨハネの福音書の説教の中で何度も語ってきたことです。真実は、正義は、ただ神のところにだけあるのです。人の持つ正しさというのは、人間の数だけあって、みんな違っているのです。それは、どれも正しいとも言えるし、どれも間違っているともいえるものです。それは、あてになるものではないのです。
蛭沼先生の見せてくださった短い教会の紹介の映像の中に、夫婦で教会に来て、「私たち夫婦の間に、ぶれない軸ができた」と証しされている方がありました。それまで、何度も夫婦で意見の違いに衝突し続けたのだそうです。アメリカに住む駐在員の何人もの人が、新しい外国の生活の中で、夫婦の危機に直面される方々があるのだと蛭沼先生が言っておられました。違う考え方の文化の国で、自分たちの考え方がぶらつくのです。それまではなんとなくこれでいいと思っていた。みんな、どの家もそうやっていると思っていた、漠然とした基準があったのに、アメリカに行って、異なる文化の国ではそれがあてにならないものであったと言うことがはっきりしてくる。それまで自分たちの生活で培われて来た生活の判断が、新しい文化の生活の中でうまくマッチしない。それまで「普通」だと思ってきたことが、アメリカでは「普通」ではないことに気付いて戸惑うのです。
主イエスは、そのような不確かな判断基準は「自分の栄光」、つまり、自分に光があてられるための基準であっただけではないかと、ここで問うておられるのです。しかし、真実というのは、自分が光り輝いてみられるようになることが判断の基準になるのではなくて、ぶれない神こそが判断の基準であるべきなのだと言われるのです。そして、わたしこそが、わたしはその判断の基準となりうる者として、神から遣わされてきたものなのだと、ここでご自分のことを証ししておられるのです。
確かなものがあるのです。確かな正義が、正しい判断の基準が、この主イエスにはあるのです。それこそが、私を、いや、自分一人ではない、私たちすべてを生かす判断の基準となるのです。
お祈りをいたします。