・説教 ローマ人への手紙15章7節 「神の栄光のために」
2015.1.1
元旦礼拝説教
鴨下 直樹
2015年のためのローズンゲンによる年間聖句
「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(新改訳)
ドイツのヘルンフーと兄弟団が発行しております、ローズンゲンという、日ごとに読む聖書をローズング、くじ、で毎日の言葉を選びまして、それを毎日の生活の支えとしている本があります。毎年、私たちの教会では、このローズンゲンによって選ばれた年間聖句を、私たちに与えられた一年のみ言葉として心に留めるようにしています。
教会の年間聖句には教会のスローガンになるようなみ言葉を長老会なり、役員会で選んでもいいのではないかと思われる方もあるかもしれません。これは、私の考えでもありますが、誰か個人の願いや意図で教会を形成するのではなくて、み言葉が私たちの信仰の支えとなり、み言葉によって教会を建て上げたいと願っております。それは長老方も理解してくださっていると思っていますが、そのために、長老会が今年はみなさんにこういう人になっていただきたいので、この聖書を選びましょうなどと選ぶようなことをしないようにしているのです。ですから、毎週の礼拝説教も講解説教といいますけれども、毎週聖書を順番に学び続けているのも、それと同じ理由なのです。牧師が、自分が取り上げたいテーマを毎週選んで、牧師の話したいこと、気になっていることを説教しないようにと考えているのです。これには色々な考え方がありますから、あくまでも私が考えていることであって、他の牧師もみなそうすべきであると考えているわけではありません。けれどもこのことは、長老や執事、みなさんにも理解をしていただいていると思っています。
なぜ、こんな前置きからはじめたかと言いますと、今年の年間聖句として選ばれている聖書の言葉をご覧になって、「あれ、牧師は私に対して日頃思っていることをこの聖句に込めたのではないか」と思ってほしくないからです。けれども、この年間聖句は、実際に私たちが一年の間心に留め続けるみ言葉として、大切なのではないかと、長老会でも話し合いました。特に、今年は各部会で、毎回この年間聖句からお互いにみ言葉の分かち合いの時間を持って、このみ言葉に特に耳を傾けるようにしようということを決めました。
そういう意味でも、このみ言葉を、私たちは、自分に与えられたみ言葉としてこの一年耳を傾けていければと願っています。
それで、まずどうしても考える必要があるのは、このみ言葉が語られている背景を知る必要があります。
ローマ人への手紙は、この手紙を記したパウロがまだ顔を合わせたことのないローマの教会の人々に宛てて書いた手紙です。しかし、少なからずローマの教会のことは耳に入っていたのでしょう。特に、この手紙の後半のところでは具体的なことを書いています。特に、この14章、15章で書いているのは、教会に強い人と、弱い人がいて、強い人は弱い人を受け入れることが必要なのだということを書いているのです。そうしますと、強い人というのは誰を指すのか、教会の中で強い人は誰か。ローマの教会のことをまだよく知らないパウロであっても、どうも、この教会には強い人と弱い人がいるということは耳に入ったのでしょう。どこの教会にもある問題といってもいいかもしれません。教会には強い人と弱い人がいる。そうしますと、みなさんの心の中に、芥見教会にもあるなと、何名かの顔と名前が浮かび上がってくるかもしれません。いずれにしても、そこで思い描くのは自分のことを強い人間だと考える人は、あまりいないのではないかと思うのです。
「人生の四季」という本を書いたことで知られるようになりましたポール・トゥルニエというキリスト者の精神科医がおります。このトゥルニエがかつて「強い人と弱い人」という本を書きました。とても興味深い本です。トゥルニエはちょうどこの本を書こうとしていた時に、自分が経験したある出来事から書き始めます。この本の冒頭に書かれているのはあるレストランでの出来事です。二歳か三歳の男の子が足をバタバタさせながら大声でわめき散らしているのです。よく見ると足元には破り捨てられた紙切れが落ちています。そこで、お母さんがその子どもに向かって「さあ、紙を拾いなさい」と繰り返しているのです。周りのお客さんはその親子のやりとりを眺めています。父親はいるようなのですが、仕事の客と少し離れた場所で話をしていて、妻と子供の様子を見ているのですが、客と話すほうを選び取ったのか、介入する気はなさそうです。そこで、トゥルニエはこう書いているのです。「涙は弱い人間の武器である。レストランの中では、母親も他の場所でするように力づくで自分を従わせることはできないことを、子供はちゃんと見抜いている。そして、母親はどっちみち、負けるまで争いを続けることはできないのだ、ということも。実際に争いが長引くだけ母親は困り果てるのである。自分の息子の反抗は二重に彼女の自尊心を傷つける。つまり、もし子供が自分の言うことを聞かなければ、それは自分がうまく子供を育てられなかったからである、ということになるのだし、母親が子供を自分の意思に従わせることに失敗すれば、自分と子供の間にははっきりした力の違いがあるのに、自分が弱いことを実証することになるからである。」そんなふうに言っているのです。
こうして、この結末はどうなったかと言うと、お母さんは紙くずを拾い集めて、そのまま子供をテラスに連れ出して、そこで叱りました。けれども、勝者は明らかに子供である、なぜなら紙を拾ったのは母親なのだから、と書いています。
トゥルニエはこの話を、強い人と弱い人という本の導入に使いながら、何を言おうとしているのかというと、誰であっても強い者にも弱い者にもなりうるということです。自分は強い者ではないとは言いきれません。二、三歳の子どもであってもレストランでは周りの人を味方につけさえすれば強い者になりうるのですから。
ローマ人への手紙の14章では何を食べてよいのか、何を飲んでいけないのか、そういうことで人のしていることを判断するということが起こります。たとえば、お正月に家族、親戚が集まるときにお酒がでることもあるでしょう。私たち同盟福音基督教会というのは以前もお話をしましたけれども、敬虔主義の流れにあります。この流れにあるということは、教会で禁酒禁煙ということを厳しく教えました。宣教師からそのように教えられて信仰生活の歩みを始められた方は、それが深く心の中に入っております。ですから、誰かが、お酒を飲んだとかという話を耳にしますと、過剰に反応してしまうところがあります。そうしますと、他の人の信仰的な判断というものを認めることができなくなってしまいます。
そういう意味でも明らかなように、強い人というのは、その信仰を貫くことができる人という意味です。自分はそのように教えられて来たので、そのように生きる、そのように判断する。誰しもがそういう信仰の判断力をもって歩んでいますから、人との違いはあったにせよ、私たちなりの信仰の判断で貫こうとして、私たちは誰しも信仰の歩みをしようとしているはずです。
けれども、パウロはそうであったとしても、その自分の信仰の強さ、判断で、他の人の信仰を裁いてしまう、非難してしまう、そうやって人を分け隔てていくことは愛とは言わないとパウロは注意をしているのです。
今年の年間聖句をみなさんに覚えていいただきたくて、今日は一枚のカードをみなさんにお配りしています。ジーガ・ケーダというカトリックの司祭が描いたもので、「洗足」の場面を描いたものです。主イエスが弟子のひとりの足を洗っています。この洗足の出来事、主イエスが弟子たちの足を洗われた出来事は、ヨハネの福音書の13章1節から17節のところに出てきます。ジーガ・ケーダの絵では、足を洗っている弟子、たぶんペテロだと思いますけれども、その洗面器に主イエスの顔が映り込んでいます。洗面器に映った主イエスの顔はどこか悲しげに見えます。絵全体を通してもどことなく暗い、悲しげな印象をうけます。後ろのテーブルにはパンとぶどう酒が描かれていて、パンがちょうど十字架の形に分けられています。どうしてこの司祭は、主イエスが弟子たちの足を洗われた時の絵をこのように描いたのか、わたしなりに考えてみるのです。もちろん、わたしの想像ですけれども、この時、主イエスはまさに、強い者が弱い者を受け入れるその主イエスご自身の葛藤を描こうとされたのではないかと思うのです。
ペテロは主イエスに足を洗っていただいているときに、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と尋ねます。すると、主イエスは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」とお答えになられます。この時に、主イエスが言われている、「あとでわかるようになります」という言葉を通して主が言おうとなさったことはどういうことなのでしょうか。
人を受け入れるといいうことは、喜んでできれば言うことはありません。しかし、いつも簡単にできるということではありません。主イエスのこの洗足は、そのまま十字架へと続いていきます。人を受け入れるというのは、簡単なことなのではなくて、まさに、その人のために死ぬということ、それこそが、その人を受け入れ、愛することなのだということを、私たちは主イエスのしてくださった御業を通して知ることができます。
そして、まさに、この時に主イエスがペテロに後でわかるようになると言われたことを、ここでパウロが語っているのだということもできます。
「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」
キリストは弟子たちの足を洗いました。キリストはそのように汚れのある者を受け入れてくださいました。そのような弟子たち、私たちのために十字架にまでかけられるほどに、私たちを愛してくださいました。そのことによって、私たちは、神に受け入れられたのだということが分かります。そして、私たちは主イエスを信じたのです。このことを通して、キリストの愛の犠牲によって、神は栄光を表されました。だから、私たちもそのようにするのだと、パウロは勧めるのです。相手を受け入れること、それが、たとえ自分を殺すようなことがあったとしても、私たちが互いに受け入れあうならば、そのことを通して、神が栄光をお受けになる。天では、私たちの出来事のゆえに、大歓声とともに、それを喜んでくださるというのです。
主キリストがご自身のいのちをかけてなさったことですから、簡単なことではないのです。この場合、強い人というのは主イエス・キリストです。けれども主はご自分の強さに固執されないで、弱い者を、不完全なものを受け入れ、そのもののために自分を犠牲になさいました。ここに愛がしめされるのです。そして、そのように愛することを選び取るとき、神はそのことを喜んでくださるのです。
自分でがんばって、何かをきちんとやり遂げようと努めている。そうなると、それができない人、そうしようとしない人のことを見ると心を痛めたり、腹を立てたりすることは当然起こることでしょう。パウロはこのローマ人への手紙の14章で、そこで人を裁いてしまうことを通して、あの人はダメな人だと決めつけて、人ができないことを自分の喜びとすることになるのだと、注意を呼び掛けています。自分の喜びとするのではなくて、そのことを、自分の痛みとして受け入れるのだと語り掛けているのです。
愛することは、痛みが伴うのです。人を受け入れることは、その人の弱さを受け入れるということ。しかも、それは、たとえ相手が変わらなかったとしてもという、条件さえつくことなのです。ですから、もちろん一度の説教を聞いて、できるようになるほど簡単なことではありません。主イエスもその生涯を通して、ご自分で学ばれたのです。だからこそ、私たちも少なくともこの一年、このみ言葉を聞きながら、この信仰に生きることができるようにと学び続けていきたいのです。
ただ、最後に一つのことを深く心に刻んでいただきたいことがあります。それは、主イエスは人の弱さを、ご自分の喜びとはなさらなかったのだということです。人を見下すことを、人ができないことをご覧になって、自分を喜ばせることはなさらなかった。そうではなくて、まさに人の弱さをご覧になりながら、ご自分の痛みとなさったのです。なぜなら主が心に留めておられたのは、神を喜ばせることにあったからです。主が人を受け入れられる時、神がそれを喜ばれたのです。そして、主はそのように、私たちを受け入れてくださっているのです。人を裁いてしまう弱さを持っている私たちを、主はご自分の痛みとされながら、それでも私たちを愛して受け入れ続けていてくださるのです。そして、そのことのゆえに、キリストは栄光をお受けになっておられるのです。ですから、もし、私たちが誰かを受け入れる時も、神はそのことを喜んでくださるのです。そして、神が喜んでくださることこそが、私たちの本当の喜びとなるのです。こうして、神の栄光が示される一年へと、私たちは招かれているのです。
お祈りをいたします。