2015 年 6 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書13章1-20節「愛の模範」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.6.14

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書はここから第13章に入ります。いよいよ、ここからがヨハネの福音書の後半部分、受難週に起こった出来事がしるされているところです。今年の受難週に行われた金曜日の受難日礼拝で、この1節から13節までのところを一度説教をしました。今日は少し長い個所を選んでおりますので、一節ずつ丁寧に見ることは出来ませんけれども、今日はこのところから共にみことばに耳を傾けたいと思います。

 さて、この第13章から大きく内容が変わろうとしています。これまで、このヨハネの福音書は、主イエスがどのようなお方であるのかを、人々に示してきました。けれども、ここからは、主イエスは群集の前にはもはやほとんど姿を現しません。弟子たちに対してご自分のことを示しておられます。

さて、過越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

と1節にあります。

 ここに「世にいる自分のものを愛されたイエスは」と少し分かりにくい言葉がありますが、この「自分のもの」というのは弟子たちのことです。新共同訳聖書をお持ちの方は「世にいる弟子たちを愛して」となっていますから、すぐに分かると思います。主イエスは弟子たちにご自分の愛を残るところなく示してくださいました。他の翻訳の聖書の紹介ついでに、文語訳聖書という、少し古い日本語の聖書があります。よく、教会のOさんが祈りの時に文語訳聖書を引用して祈られます。その祈りにも時々引用されていますけれども、文語訳では「世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり。」となっています。これがこの箇所の言葉をもっともよく表していると思いますが、主イエスは、ご自身の弟子たちにその愛を極みまで示してくださいました。その主イエスが極みまで示してくださった愛が、この13章以下に記されているわけです。

 ところが、このヨハネの福音書の面白いのは、まさに、そこからですけれども、続く2節でイスカリオテのユダを登場させます。すると、どうしても考えるのは、主イエスが極みまで愛を示してくださった対象に、この主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも入っているのかどうか、このあと主イエスが弟子たちの足を洗われた時に、ユダの足を洗われたのかどうか、という疑問が出てきます。このまま読んでいきますと、ユダが部屋から出て行ったという記述はありませんから、ユダの足も洗われたということになります。

 主イエスはこの箇所の終わりに、

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

と15節にあります。主イエスが、イスカリオテのユダの足を洗われたのだとすると、わたしたちもまたここで同じことを求められているということになります。

 教会で、子どものための子育て支援のプログラムとしてノーバディーズ・パーフェクトというプログラムをしています。「パーフェクトな人は誰もいない」という意味です。カナダの保健省の提案したプログラムで、訓練を受けたファシリテーターという人が、参加者をうまく導きながら、互いに子育ての中で起こる問題について語り合いながら、自分たちで気づきを与えられていくというプログラムです。そこでも、そうですけれども、「完璧な母親はいませんから」と聞くとみな慰められます。けれども、「完璧な子どもはいませんよ」と話すと、そこで一瞬考えてしまいます。私自身もそうです。特に、完璧であって欲しいとは思わないけれど、せめて最低限このくらいはという欲が自分にあることに気づかされます。自分は完璧ではないということを認めるのは簡単なのですけれども、子どもが、妻が、夫が、姑が、会社の同僚が、せめてこのくらいはやって欲しいのだけれどもという思いは誰でも抱くのだと思います。

 先週、説教の中で、人の顔色をみながら自信なく生きる生活は闇だということを話しました。礼拝の後で、ある方と話していますと、その方は、「私は世の中では人が何をやっていようが気にならずにマイペースで生きていられるのだけども、教会に来ると、ビクビクしてしまって、どうしても人の顔色をみてしまいます」と言われました。クリスチャンとしての信仰の生き方に自信が持てないのだと言われたのです。それを聞きながら、たしかに、そこにも闇があるなと思いました。そのように感じておられる方も、少なからずおられるのだと思います。主イエスは私を受け入れてくださることは分かるのだけれども、教会でも同じように受け入れられているかどうかは分からない。もっというと、人の顔色が気になるわけです。やはり、それなりの信仰生活をするように期待されているのではないかという、人からのプレッシャーのようなものを感じるのでしょう。

 そこに、私たち人間の弱さがあります。主イエスがイスカエリオテのユダが裏切ることを理解していて受け入れてくださることは分かるけれども、完璧ではない人間の集まりの教会では、それなりのことが期待される。そして、そこに苦しみを感じるということはあるのだと思います。

 私はいつも言っていることでもありますが、私たちは神の前に自立した者として立たされています。ですから、そこでする自分の信仰の応答は、自分の信仰の応答ですから、人がそれをどう思おうが、自分と神さまとの間で決めたことには自信と責任を持つ必要があります。自分が神の御前で決断したことは、人がどう言おうが、気にすることはないのです。私たちが畏れるべきはただ、主お一人です。

 ユダが、主イエスを裏切るという決断をしたのも、それは、ユダの問題です。他の弟子たちは、あの時、私はもっと親切にユダに接してやっていれば、こんなことにならなかったかもしれないのに、などということは、そう考えてしまう気持ちは分かりますけれども、それは、ユダと神様との問題です。その前に、他の人が何かのアドバイスをすることは可能だと思いますけれども、行き着くところはユダの信仰の応答なのです。そして、そのユダのために、主イエスは全力で、それこそ、極みまで愛を示しておられるのですから、その後の結果もふくめて、ユダと神さまだけの問題だということを私たちは理解しておく必要があります。

 そこで、私たちが何よりも大切にしなければならないのは、主イエスは私にどのように関わってくださるのかということです。どのように、私に愛を示してくださるのか、それは、自分で受け取って、自分で感じる以外にないのです。周りの人が、あの人は毎週礼拝に来ないのはとか、あの人はいまだに聖書が開けられないのかというようなことも、すべて、他の人に言われて、仕方なしにするというようなことは、主イエスへの自分の応答にはなりません。まさに、そうやって、人の期待に応えなければならないのだと考えてしまうことのなかに、まだ、人の闇があるのです。

 私たちは、自分で、主イエスの照らしてくださる光を浴びる以外に、主イエスの光を味わうことができません。説明を受けたり、こうするといいと言われてみても、実体験がともなわなければ、まだよく分からないままなのです。

 ここで主イエスは弟子たちの足を洗ってくださいます。主イエスを裏切ることを知っていても主イエスは足を洗われます。8節にありますが、弟子のペテロは思わず、「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言ったほどです。というのは、この時代、足を洗うというのは僕の仕事、奴隷の仕事でした。ですから、普段先生とか、主よ、と呼んで尊敬を現してきた弟子たちにしてみれば、それは当然断るべきことだったのです。けれども、主はペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われました。主は弟子の足を洗うことで、師と弟子という関係を超えた、まさに、自分自身で自分の足を洗うように、弟子をもそのような者として足を洗う関係にあることを明らかにしてくださったのです。ここに、主イエスのへりくだられた姿と、また、弟子たち、まさに「ご自分のもの」とされた者に対する愛があらわされているのです。

 最初にも言いましたが、主イエスはこのようにして、愛を示してくださいました。ここに、師の、先生の愛の模範があります。この説教のために、私に長い間説教の学びを指導してくださっていました説教塾の加藤常昭先生の説教を読みました。そのなかに主イエスがなさった子どものしつけのことが書かれていました。普段から、自分が子どもにするしつけについてあれこれと考えていますから、こういう文章はすぐに目に飛び込んできます。そこにこう書かれていました。「主イエスのしつけとは何か。がみがみ言うことではない。子どもの足もとに、ひざまずくことであります。子どもの心の汚れを自分の愛をもって拭うのです。溺愛することではありません。いったいどれだけの親が、人としての魂をもって、生きている子どもの足もとにひざまずいて主イエスのようにこれを愛し抜くということをしっているだろうか」。そう書かれていました。

 この文章を読んだ時に、私は自分自身の聖書の読み方の浅さに愕然としました。自分の子どもの発する悪い言葉、汚い心の思いから出て来る言葉、自己卑下をする姿、そういうすがたを見ながら、もっとこうあって欲しいと願いながら、叱ることが躾だと思い込んでしまっている。あなたはもっと正しく振舞うべきだと。けれども、主イエスはそのようにはしておられないのです。そうではなく、たとえ、主イエスを裏切るような心を抱いていても、その者の前にひざまずき、その人の汚れをぬぐうのです。人の思う正しさ、それを教えるのが愛だと多くの人々が思い込んでいるなかで、主イエスはそれよりもはるかに大きな愛で、人の汚れをぬぐってくださるのです。私の、人の顔色を見ながら恥ずかしくない子育てをしようと思う心をぬぐってくださる。クリスチャンとして正しく歩まなければならないと考えて人の顔色を見ることに心がいってしまう私たちを主はそのまま拭ってくださる。これが、主イエスの私たちにお示しくださる愛の模範です。

 主イエスは20節でこのように言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

 ここで主イエスが言われた「わたしの遣わす者」とは誰のことでしょうか。このようにしてみことばを語る牧師のことです。子どもたちにみ言葉を語る教会学校の教師もそうです。家庭で、子どもに聖書を語る親も、その子どもに遣わされた者です。ご自分の両親や、家族の介護をする、病の者のためにひざをかがめて体をぬぐってやる者も、神がそこにあなたを遣わしてくださっているのです。そこで、私たちが誰かのためにひざまずいて、愛の心をその人の醜い部分をぬぐってやること、その人の悲しみをぬぐってやる、人の痛みをぬぐうとき、それは、まさに、主があなたをその人のところにお遣わしになったのです。そこであなたを通して愛に触れる時に、それは、私たちに愛の模範を示してくださった主イエスのように、私たちを用いてくださるのです。

 今年の年間聖句は、「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」というローマ人への手紙15章7節のみことばです。この言葉を私たちは心に刻む一年にしたいと思っています。主イエスは私たちのためにひざをかがめて、その汚れた足をぬぐってくださるのです。この愛の主を模範に心動かされるとき、私たちも愛に生きる者とされるのです。

 お祈りをいたします。

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