2015 年 7 月 5 日

・説教 ヨハネの福音書13章21-38節「主の愛に応えて」

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2015.7.5

鴨下 直樹

 
 先週の木曜日から、今日までの間、名古屋の東海聖書神学塾の伝道実習が行われております。今年は一つのチームが今、私が受け持っております三好教会の伝道実習をしにまいりました。二年前から三好教会は無牧ということもあって、いつもですと、カーステン先生が三好教会のことを主に責任をとってくださっているのですが、この7月から宣教報告のためにドイツに帰っておられるために不在です。そのため、木曜日と金曜日、神学生と一緒に三好教会に泊まりまして伝道実習に参加してきました。今日も、神学生が礼拝で説教しているはずです。その実習で何度かに分けてトラクトを配ってきたのですけれども、一日中トラクトを配っているわけにもいきません。また、無牧の教会ということもあって、教会の定期集会はさほどありませんので、時間を持て余してしまいます。それで、木曜の夜と、金曜の午前と午後、一時間半ほどの学びの時を持ちました。三好教会に来た神学生たちは5人なのですが、そのうち4人は今年の四月に入ったばかりの方々です。そういうこともあって、その学びの時に、聖書の読み方という話をしました。ここで、その話をしますと、それこそ一時間半かかってしまいますので、また何かの折にみなさんにもお話しできればと思いますけれども、その中で、聖書を読む時にはコンテキストを理解するという話をしました。コンテキストというのは、一般的には文脈と説明されることが多いと思いますが、コンという言葉は「一緒に」というラテン語です。テキストというのは、織物のことです。織物のことをテクスタイルというようですけれども、縦糸に横糸が織り込まれて織物ができるように、言葉によって編み込まれていく文章のまとまりのことをテキストといいます。ですから、コンテキストというのは、前の文章と後ろの文章がどのようにして一緒に織りこまれているのかを理解するという意味で使われます。聖書を読む時に、どうしても大切なのは今、読んでいるところだけではなくて、その前後に何が書かれていて、どういう文脈の中でそのことが言われているのかを正しく理解する必要があります。

 今日の箇所でいいますと、ここは有名な、最後の晩餐の場面での出来事です。今日の箇所は21節からです。

イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」

とあります。これらのことを話されたというのは、その前の部分です。主イエスは弟子たちの足をお洗いになって、「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われました。前回の説教でもお話ししましたけれども、それは、なによりも牧師のことであるし、そして、みなさん一人一人のことだと話しました。もちろん、何にも先立って主イエスご自身が、弟子たちの足をお洗いになられて、愛を示してくださいました。主は、わたしはあなたを愛しているのだと言うことをまず、弟子たちに、私たちにお示しくださいました。そして、私たちもその愛を受けて、誰かを愛する。私たちの周りの人々にひざまずいてその汚れをぬぐうようにして人を愛する。そうすることによって、主イエスを遣わされた神、私たちをお遣わしくださった神の御名があがめられるようになる。

 そのように、お話になられると、主イエスは「霊の激動を感じ」られた、とあります。「霊の激動」という言葉は、言葉の勢いは伝わってきますけれども、どういうことかと言いますと、新共同訳では「心を騒がせ」と訳されています。心が騒いだ。穏やかではいられなくなった。そして、「あかしした」と続いて書かれていますけれども、これは「証言する」という意味の言葉です。これから話すことは確かなことだけれども、と言われたということです。そして、そこでさらに、「まことに、まことに」と「アーメン、アーメン」という言葉を重ねておられますから、しつこいくらいに、このことは確かなことだと言われているわけです。何が確かなことかと言いますと、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と主イエスは言われたのです。

 ですから、ここで、ユダの裏切りというのはかなりはっきりと宣言されています。そして、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」と26節で主イエスは応えておられるのですが、読んでいきますと、他の弟子たちはこの主イエスの言葉は聞いていなかったかのように書かれています。ユダが出て行った理由は、買い物に出かけたか、あるいは、主イエスに言われて、施しに行ったのかと思ったと書かれているのです。なぜ、こんなことになっているのか、良く分かりませんが、他の弟子たちからみると、ユダはそれほど悪者として映っていたわけではなかったようです。

 二週間前に、私たちの教会ではキリスト教美術講座を行いました。今回はラファエロの作品をF長老が紹介してくださいました。その前の時には、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を取り扱ってくださった時に、最後の晩餐についても紹介してくださいました。最後の晩餐というと、このダ・ヴィンチの絵がまず頭に浮かび上がってくるのかもしれません。ダ・ヴィンチの作品にしても、他の作品にしてもそうですけれども、最後の晩餐として描かれている絵にはかならず二人だけは誰かすぐわかるように描かれています。その一人はイスカリオテのユダです。

 ダ・ヴィンチの最後の晩餐でもそうですけれども、誰がユダであるかすぐにわかります。古い絵ですと、弟子たちの頭にはそれぞれ聖人を現す光輪が描かれていますけれども、ユダだけは何も描かれていなかったり、あるいはユダだけは黒い光輪で描かれているという場合があります。あるいは、ダ・ヴィンチの場合もそうですけれども手にお金の袋を持っていることで見分けられます。あるいは、主イエスと同じ鉢に手を浸しているという姿でユダだということが分かるわけです。もっとわかりやすいものでいいますと、ユダは黄色の服を着て目立たせてあるという場合もあります。いずれにしても、最後の晩餐に描かれているユダというのは、見た目で悪者と分かるわけです。けれども、実際に福音書を読んでみますとそんなに誰からも一目で悪者であるかのように描かれてはいません。むしろ、誰もがユダに信頼しているのです。

 絵画の中ではもう一人はっきりと分かる人物として描かれているのは、23節に記されています、「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者」と言われている弟子の姿です。興味深いことに、このヨハネの福音書はこの出来事が最後の晩餐の出来事であるということをそれほど強調していません。先ほど読みました「わたしがパン切れを浸して与える者がそれです。」という言葉から、その後に最後の晩餐の記述がないので、ここが最後の晩餐なのだということがかろうじて分かる程度です。ところが、絵画の中ではどれもそうですけれども、主イエスの右側、すぐ胸元に寝そべっている弟子の姿が描き出されています。23節で主イエスの胸元でと書かれているのですけれども、新改訳はなぜかこれを訳しませんで、下の脚注に「直訳すると御胸のそばでからだを横にしていた」と欄外にしてしまったのです。ところが、絵画ではそこのところはとても大事な部分だと考えているのでしょう、みな、主イエスの御そば、すぐ胸のうちに横たわっている弟子のすがたを描いています。そして、キリスト教美術の世界ではその弟子はヨハネであるということになっています。それは、少し説明が必要ですけれども、実はヨハネの福音書には十二弟子のヨハネのことは一度も、どこにも書かれていません。ただ、今日のこの部分とこのあとの箇所に「主に愛された弟子」と書かれているだけです。それで、ヨハネのことが書かれていませんので、主に愛された弟子と言うのはヨハネのことだという理解が一般的にされるようになりまして、この弟子はヨハネであると言うことになっているわけです。ところが、実は他の福音書では最後の晩餐の席にいたのは十二弟子しかいなかったということになっているわけですけれども、ヨハネの福音書ではそのことさえもはっきりと書かれていません。

 そうしますと、この主に愛された弟子とは誰のことなのかというこの謎については、実は色々な考えがありまして、私が神学校の時に同級生だった人がいるのですが、彼は、卒論で、この主に愛された弟子はラザロであるということを一生懸命に調べて書いておりました。授業の終わるたびに、それについて懐疑的な私を説得しようと彼は文献で発見したことを逐一私に報告してくれましたので、私もすこし詳しくなってしまったところがあるのですが、たとえば、ラザロのよみがえりのことが書かれていた11章で主は「マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と5節に書かれております。しかも、このヨハネの福音書では主イエスが愛したと直接言われている箇所はここしかないので、主が愛された弟子というのは、そう考えてもラザロのことだと説明しておりました。

 もちろん、こういう話があるというくらいに耳にいれてくださればいい話で、それは、今日の説教の中心的な部分ではありません。この福音書を書いたのはヨハネとも書いていなければ、ラザロとも直接書かれていないわけで、確実に言えることは、誰が書いたのか直接は書かれていないということだけです。ただ、色々な絵画が描いておりますように、ユダと、この主に愛された弟子のように、主イエスがその愛を残るところなく示してくださったわけですが、その主イエスの愛に対する反応は実に違う結果になってしまったということを私たちは心に刻む必要があるのです。

 主イエスは私たちにご自身の愛をお示しくださいました。余すところなく示してくださったのです。けれども、主イエスの側ではそのようにまさに、究極的な愛で愛してくださっても、愛されている側が、その愛を同じように受け止めるかどうかは人によってまったく違いがあります。

 岐阜には「みょうがぼち」というこの季節にたべる饅頭があるのだそうで、先週、私はそれを初めて食べました。私はそれを本当においしいと思ったわけですが、昔から食べなれている人にしてみれば、そこまで大騒ぎするほどのことではないと思われるかもしれません。あるいは、もっと美味しい店のものを知っていると言いたくなる方もあるかもしれません。みんなで同じものを食べても、同じようにおいしいと感じるかどうかは保証されてはいないのです。
主イエスの愛と、「みょうがぼち」を同じ一列で例えていいかどうかは分かりませんけれども、私たちはそれぞれが、主イエスの愛を自分で味わう必要があります。自分でその愛を感じることができなければ、その愛に応えることもまたできないのです。

 今日の箇所にはもう一人の弟子が出てきます。ペテロです。ペテロはそういう意味で言えば、主イエスの愛を本当に心から受け止めた人です。ここで、主イエスが「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われると、ペテロは私は主イエスのためならばどこまでだってついて行きます。そして37節でこう言います。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで応えるのです。ペテロとしては本気だったと思います。本当に、自分のいのちを捨てる覚悟をもって、主イエスのためならばどこへだってついて行く覚悟があったのです。それほどに、主イエスの愛に応えたいという願いを持つほどに、主の愛を感じていたのです。

 私たちは、ユダにもなれるし、ペテロにもなれる。自分の思っているとおりにいかないので、やっぱりイエスは必要ないと考えて主イエスを見限ることもできる。そういう自由が私たちには与えられている。主イエスがどれほど愛してくださっても、そのことが、自分の喜びとならなければ、どこかでかみ合わないことが起こり続けてしまうのであれば、主から離れることになる日が来るのは当然のことです。

 しかし、そうなるまえに、私たちは気付く必要があります。大切なことは、正しく主イエスの愛を受け取っているのかということに。とても、興味深いことに、この時点ではペテロの方が主イエスの愛を正しく受けとめているような気がするのですが、このペテロに主イエスはこう言われました。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ペテロはこの言葉を主イエスから言われた時にショックであったに違いないのです。自分の熱意を受け取って貰えていないのです。自分は真剣に主イエスの愛に応えたいと思っているのに、あなたの愛は偽物だと言われてしまったのです。
それこそ、そこで、もうじゃぁいいです。あなたについていくのをやめますと言いたくなるところです。しかも、ヨハネの福音書は他の福音書のように、「しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように祈った」という言葉もないのです。谷底に突き落とされたかのような気持ちになります。なってもおかしくないのです。

 私たちはどこかで、ユダの信仰は誰から見てもダメな信仰で、ペテロの信仰は素晴らしい信仰、だからペテロのようになりますようにと、それこそ絵のように簡単に見分けられると考えてしまうとすれば、そこには大きな落とし穴があります。どれほど、信仰的に熱心であっても、ペテロのようにその自分の熱心に酔いしれているだけの不信仰ということも起こりうるのです。
ユダの場合は、自分が期待した通りではなかったという躓きがあります。ペテロは、自分は大丈夫だと思ったという油断がありました。しかし、二人に共通していたのは、主イエスを見てはいなかったということなのです。主イエスの愛を正しく受け止めてはいなかったのです。

 私たちは、主イエスの愛に応える責任があります。それは、自分自身でしか応えられません。人からどうこう言われてするものでもありません。主は、私たちのために、愛を示してくださいました。その愛に応えること。ここで主はこう言われました。34節。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 主に愛されたように、互いに愛し合う事。主に赦されたように互いに赦すこと。主が受け止めてくださったように、互いに受け止めること。そこに、私たちはこの主イエスの愛に応える生き方が示されていくのです。

 そのためには、まず、主イエスの愛を受け止めることからすべてははじまります。ただ今から聖餐に預かります。主は私たちにご自分のいのちを与えてくださいました。こうして、この最後の晩餐で主が弟子たちにご自身をお与えになることを教えられました。私たちは、主イエスのからだと血を、まさに主イエスのいのちそのものを頂いたのです。あの十字架の上で、主は私たちにそのいのちを差し出してくださったのです。主イエスは私が受けるべき罪の責めを、私たちの負い目を、受け取って、私の持つべき罪を、主イエスの義と交換してくださったのです。

お祈りをいたします。

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