2015 年 7 月 12 日

・説教 ヨハネの福音書14章1-7節「道、真理、いのち」

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2015.7.12

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書の第14章に入りました。今日のこの第14章から第16章の終わりまでの箇所がひとまとまりの文章になっています。一般に「告別説教」と言われる部分です。主イエスは弟子たちの足を洗われて、私が行く所にあなたがたはついて来ることは出来ないと言われました。そして、ここから弟子たちに向けて、別れの言葉をお語りになられました。私が2008年の秋にこの芥見教会に参りました時に、前任の後藤牧師は当時、可児教会と、芥見教会を兼任しておられました。それで、私が芥見に来たからということで、教会で送別会をいたしました。出席されたほぼ全員の方々が最後の挨拶の言葉を話されました。別れの言葉というのは、短くまとめるつもりでもついつい長くなってしまいます。もう、お別れだと思いますから、当然のことですけれども、みなさんがお話になられたので、ずいぶん時間が遅くなりまして、みなさんが後藤先生のことを非常に喜んでおられたのが良く分かりました。

 ですから、みなさんも経験があると思うのですが、人との別れに際して、どうしても話しておきたいと思う事というのは、とても大切なこと、どうしても伝えたいと思うことを伝えるものです。礼拝の説教では、そのひとまとまりの言葉、この別れの言葉を、少しずつ見ていくことしかできませんから、いつも、このことを頭の片隅に覚えておいてくださるとよいと思います。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」主イエスはこの告別説教の冒頭、そのように言葉を切り出されました。主イエスの弟子たちの心は騒いでいました。なぜかというと、この直前で、主イエスはご自分を裏切る者のことについてお語りになり、また、「わたしが行く所に、あなたがたは今はついて来ることができません」と言われたからです。しかも、ペテロなどは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と主イエスから言われてしまいました。ですから、弟子たちには、これから主イエスがどこに行こうとしておられるのか、これから何かが起こるのではないだろかという動揺があったにちがいないのです。そこで、主イエスはこの冒頭で「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と語りだされたのです。

 この「心を騒がしてはなりません」という言葉はヨハネの福音書の中で、すでに何度も出てきた言葉です。例えばこの前の第13章21節では「霊の激動を感じ」と訳されている言葉です。自分を裏切る者のことについて語るときに、主イエスご自身の「心が騒いでいた」のです。しかし、ここでは弟子たちにきっぱりと語られます。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

この短い一節の中に命令形の言葉が三つならんでいます。「心を騒がせるな」、「神を信ぜよ」、そして、「わたしを信ぜよ」。
 ここから語られる主イエスの告別の言葉は、これまでとはうって変わって、命令系の言葉が続きます。これから主イエスの言葉を聞こうとする弟子たちは、ピリッとした雰囲気を感じたに違いありません。主イエスの自分たちに向けて語り掛けられている本気の言葉が次々に飛び込んでくるのです。

 しかし、今日の箇所は面白いのですが、主イエスは「心騒がせるな、信ぜよ、信ぜよ」とお語りになられて、すぐにこう言われました。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行ってあなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

と2節と3節にあります。しかも、4節では「わたしの行く道はあなたがたも知っています」とまで主イエスは言われました。

 この後で何が起こるのかを知っている私たちからしてみれば、主イエスは父の御許に行こうとしておられることは分かりますが、弟子たちからしてみれば何を言っておられるのかさっぱりわかりません。

 私たちとしても、ここで興味深く思うのは、どうもすでに弟子たちのための家はすでに天にあると言われているのです。以前、それこそまだ若い時に私が聞いたのは、主イエスは大工であったので、主イエスは私たちにとって住みやすい家を造るために天に行かれるのだと聞いて、私自身なるほどと思ったことがあります。きっとさぞかし、主イエスは天に戻られたら忙しく家を建てられていて、そう言われて二千年もの間、待たされているということは、よほどたくさんの家を建てておられるか、あるいは、よほど立派な家を建てておられるに違いないなどと想像したことがあります。しかし、どうも、これから家を建てに行くというのではなくて、もうすでに住いはいっぱいあるというのです。

 そうしますと、また一つのことがそこから分かるわけですけれども、もう、私たちの家は天に備えられているのだということです。弟子たちにしてもそうです。たとえば、ペテロなどは、このあと鶏が鳴く前に主イエスのことを知らないと三度言ってしまいます。けれども、主イエスはそのことは承知しておられるはずですけれども、そのペテロの家ももう建てられているということになります。あるいは、このあと、トマスが主イエスに問いかけますが、このトマスという人は、私はとても心惹かれる弟子ですけれども、何でも率直にものを言ってしまう人のようです。ですから、主イエスの復活の後でも、自分はよみがえりの主イエスを見ていないので信じないと言ってしまいます。けれども、そういうトマスのためにも家がすでに建てられているということになります。
むしろ、主イエスはここで、私たちを主イエスのおられるところへいさせるために、私たちがこの主イエスの父のみもとにともにおらせるために、私はそこに行くのだと言われたのです。

 しかし、そんなことを言われても弟子たちにしてみれば、主イエスが何を言っておられるのかよく分かりません。この後トマスは率直に主イエスに質問します。

主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。

 先ほども言いましたけれども、トマスは何でも率直に言う人のようです。トマスがはっきり主イエスに聞いてくれているので、私たちにしてみればそのおかげでわかるようになったというところがあります。主イエスも最後の言葉として語られていますから、真剣ですが、それを聞いている弟子たちも真剣です。しかも、この直前の会話を聞いて心が騒いでいるわけですから、だまっているわけにもいきません。
今日は7節までしか読まなかったのですが、文章のまとまりとしては少なくとも11節までは読む必要があります。この1節で語っている、「主イエスを信じることは、主イエスを遣わした方、父なる神を信じることだ」と語りかけられるところまでつながっています。この会話の中で、トマスが主イエスに問いかけ、また、弟子のピリポが問いかけています。主イエスが弟子たちの顔を見ながら語りかけ、ユダは出かけて行き、ペテロはうなだれ、トマスとピリポはひるまずに質問を投げかけています。まさにそういう対話を主イエスがしておられることが、ここからよく伝わってくると思います。

 今朝は特に7節までにしていますからピリポの問いかけはまた来週考えるとしてしても、ここでトマスは問いかけています。「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」このトマスの問いかけに対して主イエスが答えられたのがこの言葉です。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

6節です。
主イエスはここで「わたしが道である」と言われました。何の道かというと、父のみもとに行くための道です。主イエスに従って行くと、父なる神に至るのだと言われました。主イエスはこのヨハネの福音書で、すでに、「わたしは門です」と言われました。門というのは、その世界に通ずる入口です。それは、大きく開かれた門というよりは、狭い門です。聖書が語る救いに至る道は、父なる神との交わりに生きることだと言うのです。

 多くの人は救いに至る道は実に様々な道があると考えます。それこそ、山の頂にたどり着くには、色々な道があって、厳しい道もあれば、緩やかな道もある。宗教と言うのはそのように、さまざまな救いの入り口があって、そこに至る道も沢山ある。そして、自分で自分の道を決めればいいのだと考える人たちが沢山います。

 先週も、祈祷会や家庭集会で信仰について語りました。特に、家庭集会では私たち同盟福音基督教会の信仰基準というものがありますが、この信仰基準解説書という小さな本をだしました。その中の「信仰によって救われる」というのはどういうことかという項目について先日学びました。この解説の中で何度も出てくる言葉があります。それは「救いの根拠は私たちの側にはない」という言葉です。

 私たちは自分で教会に行くことを決断して、ある時、自分で「よし、この主イエスを信じよう」と決断します。ですから、信仰というのは自分の決断にかかっていると考えます。けれども、私たちの教会は、その信仰を解説する読み物の中で、信仰というのは神から与えられるものだと説明しています。神が、信じることができるように働きかけてくださって、よし、信じようと決断するその心さえも与えてくださったというのです。

 私たちは、それこそ私の家はまだ天にあるかどうかはっきりしていなくて、何とか信仰の道のりを到達したときに、はじめて天に私たちの家があるかどうかはっきりする。信仰というのは、そういう自分の誠実さであるとか、ある程度の努力によって達成するものと考えてしまいます。しかし、主イエスは最初から言われているように、私たちの家は既に天にあるのです。そして、主イエスが私と、父なる神とを出会わせてくださる。まさに、父なる神への道となってくださると言っておられるのです。ですから、この主イエスという道を歩む時に、私の生き方、私の人生設計というものがそこに備えられているのではなくて、主イエスの歩まれる道だけがそこにあるということが分かってくるのです。ですから、この父なる神へと向かう道というのは、自分を捨てていく道、主イエスを求める道となっていくのです。

 それだけではありません。つづいて「わたしは真理である」とありますが、それも同じことですけれども、この主イエスの真理を知るようになっていくということは、自分の考え方が正しいのだという、自分本位、自分が常に優先されることから解放されていく道がそこにあるのだということが分かるのです。

 先ほども礼拝説教に先立って、聖書のはなしという時間がありまして、子どもたちとともにみ言葉を聴きました。先週、語られていましたけれども、「初めに神が、天と地を造られました」。そこで、言われたのは「はじめに神が」ということを心にとめてほしいと語られました。それを聞いてでしょうか、3歳の娘が、今週何度も「はじめに神は天を造られた」と口にしていました。私はそれを聞きながら、「天を」ではなくて「天と地を」と言い換えて教えなおしていたのですけれども、子どもなりにここで聞いたことを心にとめている姿にとても感動しました。

 「はじめに神が」ということを心にとめるということは、私たちの毎日の主語は、いつも「はじめに神が」ではじまることを覚えるということです。この天地を造られた神が、主イエス・キリストの父なる神が、私たちの毎日の生活の主語であるということを心に刻むということです。主イエスは、その道に、この方の真理に生きることこそが、「いのちなのだ」と言われているのです。私が、私がと、いつも自分が中心で、いつも自分を主語にしていた生活から、主イエスと出会って、この方の道を歩んでいくようになると、神が、自分を采配しておられるということが分かるようになる。主イエスを通して私たちは、私たちに与えられている救いにいたる道が見えるようになっていくのです。

 主イエスは言われます。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

お祈りを致します。

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