2015 年 7 月 19 日

・説教 ヨハネの福音書14章7-14節「父を見せてください」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.7.19

鴨下 直樹

 
 今週の月曜日のことですけれども、私たち夫婦はマリッジコースというセミナーに参加してきました。結婚講座とでも言ったらいいでしょうか。そんな話を突然しますと、「あら、鴨下先生たち夫婦大丈夫かしら。何かあったんじゃないか」と心配になられる方々があるかもしれません。大丈夫ですか?と敢えて質問されると、どう答えていいか分からなくなる部分もあります。私たちはお互いにかなり理解しあっていると思っていますが、お互いが本当にそう思っているかどうかは、ふたを開けてみないと分かりません。

 なぜ、説教の冒頭からこんなハラハラさせるようなテーマから始めるのかと、勘ぐる方もあるかもしれません。実は、先月御代田で行われた教役者研修会で、このマリッジコースの紹介がされました。これは、これから結婚する人のためのコースというよりは、すでに結婚している夫婦のためのプログラムです。会場になった稲沢教会はとてもきれいにテーブルセットされていまして、さながらケーキバイキングにでも行ったかのようでした。真ん中のテーブルにいろんな種類のケーキと飲み物があって、自由にとっていいのです。そして、それぞれ夫婦でテーブルについてセミナーを受けるのですが、隣の声は気にならないくらい距離が離れています。それで、そこで同じ質問に二人で答えていきながら、お互い話し合って、夫婦の理解をより深めていくことができるように考えられているプログラムでした。

 このプログラムはDVDになっていまして、そのために誰か専門の講師を呼ばなくても、映像に従ってお互いに質問しあっていくというものなので、他の人に自分たちの会話が聞かれる心配もありませんし、自分たち夫婦のことを人に発表することもないという、とてもよく考えられている内容でした。ぜひ、教会で導入してほしいので、まずは牧師たちが自ら体験してみてはどうかということで、稲沢のベルンス先生が紹介くださったのです。

 実は、私はそういうセミナーにはまったく興味がなかったのですが、妻が勝手に申し込んでおりまして、そこに行くまでの気持ちというのは、まさに屠り場に引かれていく子羊のような心境だったのですが、心配したようなことは行われずに、とても安心して帰ってきました。いつか、この教会でもやってみたいと思いはじめています。

 そのプログラムの中で、自分が気にかけていることと、相手が気にかけていると思っていることにチェックをして、それについて話し合うというものがあったのですが、妻は、私のことを割と正しく洞察していたのに対して、私は妻の気にかけていることを一つも当てることができませんでした。もう、20年も夫婦をやっていますし、お互いよく理解しあっていると思っていましたので、正直、この結果に驚きました。分かったつもりになっているのは、私の方だけで、実は、分かっていなかったということが、明らかになってしまったのです。

 今日の箇所で、弟子のピリポは主イエスの「もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです」との語りかけに対して「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と答えます。ピリポも私と同じ不完全な人間です。主イエスは「もう分かっているでしょ」と言われるのですが、ピリポは「さっぱり分かりません。ちゃんと見せてくださいよ」とお願いしているのです。それで、主イエスが答えられた言葉が9節です。

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

 自分を振り返ってみてもそうです。20年毎日顔を会わせていても分からないのです。ピリポと主イエスはまだ3年と言われていますから無理もない気もいたします。もちろん、だから仕方がないことだと開き直ることはできませんが、自分の思い込みというものがあると、どうも正しく認識することができないようです。しかも、それは、何よりも大切な信仰についてです。ここで、主イエスは弟子たちを叱っておられます。けれども、その叱り方は、弟子たちがもう主イエスの顔を見上げられなくなるような叱り方ではなくて、何とも心のこもった叱り方です。

 主イエスの言葉は続きます。

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」

とあります。
 主イエスはここで、弟子たちに対して何を命じておられるのかというと「信じなさい」ということです。何を信じるのかというと、主イエスとともに、父なる神が働いておられるということを信じるように招かれているのです。

 もう一度この1節から14節までの言葉から、ここで主イエスが語っておられることを見てみたいと思いますが、主イエスはこの冒頭の1節で「あなた方は心を騒がしてはなりません」と言われました。主イエスが私たちのための場所を備えるために父のもとに行くのだと言われました。主イエスが見えなくなってしまうということは、弟子たちにとっては、どこを見ていればいいのか、何を見つめていればいいのか、その信仰の対象を失うことになります。それは、とても不安なことです。ですから、そうなることを想定しながら、主イエスは、「わたしを信じなさい」と語りかけられました。主イエスを信じるということは、父に至る道にいることになるのだからと、ここで主イエスは語りかけておられるわけです。

 ところが、弟子たちとの会話はなかなかかみ合いません。主イエスがどこに行こうとされているのか分からないと弟子たちは言い始めたのです。主イエスが「父のみもとに行くのだ」と答えると、続いてピリポは「父ってだれですか、その父とやらを見せてください」とまで言いはじめます。

 主イエスはこの世を去る前に大事なことを伝えようとされているのですけれども、弟子たちは、その手前のところで留まってしまっています。主イエスが伝えようとされていること、つまり、主イエスがこの世から去っても、あなたがたはわたしを信じていたら大丈夫だからと語っておられるのですけれども、弟子たちはどこに行かれるのですかとか、父とは誰ですかと、まずそこから分かっていません。それで、主イエスはこの弟子たちに答えられながら、ご自分が語りたいと思っておられることを少しずつ浸透させていきます。

 「わたしを信じることによって、父が分かるし、父のもとへも行くことが出来る。そして、主イエスを信じることが、この世に主イエス抜きで残されて生きていても大丈夫なのだということを、あなたがた分かるようにしてあげよう」と主イエスは言われます。それが、今日の箇所最後の14節の言葉ですが、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」とまで約束してくださいました。

 13章までのユダヤ人たちに向けて語られていた言葉とは対照的で、まるで噛んでふくんで食べさせるかのような丁寧な心づかいが、この主イエスの言葉の中にはあります。「わたしを信じなさい」という、この主イエスの言葉は、私たちがこの世界で困難を経験するであろうすべての事に対して、わたしがあなたの助けとなるという宣言として語りかけられているのです。

 先週の説教で、私たち同盟福音基督教会の信仰基準解説書の「救い」を語っている言葉の中に、「救いの根拠は私たちの側にはない」という言葉が何度も出てくるという話をいたしました。信仰は、神が与えてくださるものだと言いました。このことを、賜物と言ったり、恵みとか、古い言葉でいうと恩寵などという表現をしてきました。主イエスは私たちがこの世にあって安心して生きることができるために、すべての備えをしてくださるのです。そして、信仰に生きることができるように、み言葉をもって語りかけ、信仰を与え、聖霊を与えて、今日の箇所でいえば、祈り求める時には、あなたを助けもしようとさえ語りかけてくださいます。その聖霊については、この次の箇所16節以降に出てきますので、その時に話しますが、まさに手厚い配慮をもって私たちが父に至る道に生きることができるように招いてくださるのです。けれども、そこでどうしても問われるのは「主イエスを信じる」ということです。

 教会の祈祷会で長い間、エリヤとエリシャの生涯を学び続けてきました。イスラエルが南ユダと北イスラエルに分裂してしまいまして、この神から離れてしまった北イスラエルに対して、神は見捨てることをなさらずに、この預言者エリヤとエリシャを遣わされて、神の御心に立ち返るように、神を畏れて、神の戒めを守り行うように働きかけつづけられました。神の御心は明らかで、北イスラエルの人々が悔い改めて立ち返ることでしたけれども、北イスラエルの王をはじめ、人々は結局神に立ち返ることをしないで、ついに、北イスラエルはアッシリアによって攻められ、滅ぼされてしまいます。神の御心は、神の約束の民である北イスラエルの人々の救いにありましたが、彼らは信仰に生きる道を歩みませんでした。

 私たちは神からの働きかけに対して、その信仰に応答する責任があります。神が私たちに信仰を与えてくださったとしても、私たちが、主を信じて主に従う道を、自ら決断して歩んでいかなければなりません。主イエスはここで、まさに、ご自分の遺言として弟子たちにできるだけ伝わるように、心をこめて語っておられるのです。本当にそのことを理解して欲しいと願っておられるからです。

 主イエスを信じる。主イエスが私たちを父なる神のもとに導いてくださる方だと信じる。父のもとに私たちの住まいが備えられていて、そこに私たちを招くために主イエスは来られ、父のみもとに私たちをおらせるために、この後主イエスは十字架にかけられ、死んで葬られて、三日目に死人のうちよりよみがえられたと信じる。それは、ほかの誰でもない、私を、あなたを、この主イエスが語られている父なる神のもとにおらせるためです。そして、そのことを私たちが信じるときに、私たちには確かな道を歩んでいるのだという平安がおとずれるのです。

 主イエスを信じて、主イエスとしっかり結びついてこの道を歩むなら、私たちはこの世にあって、確信をもって力強く歩むことができるのです。そして、主イエスを示してくださる父なる神のすばらしさを日ごとに知り続け、常に希望をもって生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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