2015 年 8 月 16 日

・説教 ヨハネの福音書15章1-10節「主はまことのぶどうの木」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.8.16

鴨下 直樹

 
 今日の箇所は主が「わたしはぶどうの木です」と語られた箇所です。いつも、聖書の流れが大切だと話していますけれども、今日のところは、少し複雑です。前の14章30節で、「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。」と語っておられ、31節では「さあ、ここから行くのです。」と言われました。ですから、14章からはじまっている主イエスの別れの言葉は、ここで終わっているような印象を受けます。ところが、続く15章では、その前に語られたことはまるでなかったかのように主イエスの話しがはじまっています。いつも、聖書の文脈を正しく理解することが大切だと話していることと、少し矛盾するのですが、この話の順序は、ここでいろいろ考えてもはっきりしません。この15章も16章も主イエスが弟子たちと別れる際に語られた大切な言葉が語られたところであることに変わりはありませんから、今日の場合は14章とのつながりについて、ここであまり深く考えなくてもよいと思います。

 ただ、このヨハネの福音書の第15章というのは、私にとっては少し特別な箇所です。私の父は牧師をしています。そして、私は5人きょうだいなのですが、両親はこのヨハネの福音書の15章から4人のきょうだいの名前を付けました。私は直樹という名前です。他のきょうだいにも、枝であるとか、実という名前を付けています。ここに記されているぶどうの木をイメージしながら子どもたちの名前を付けたのです。最後の弟は、もうアイデアが尽きたのか、こことは直接関係ない名前になっていて、その説明を聞いて弟がすねてしまったこともあります。私の場合は、父はまっすぐに伸びる樹をこのところから思い描いたようです。しかし、私は後になって気が付いたのですけれども、このヨハネの福音書に出てくるぶどうの木というのは、私の名前から連想するまっすぐにすくすくと伸びる大木のような木のイメージとは正反対の木です。たぶん、その時、私の父もぶどうの木というのがどういう木なのかあまりよく知らなかったのかもしれません。

 ちょうどこの季節はぶどうの収穫の季節です。いつも、休暇の時に長野県にあるたくさんのぶどう園を横切ります。日本の場合は、ちょうど立って作業のしやすいような高さにぶどうの枝がはりめぐらされていて、手を伸ばせばすぐに収穫できる位置にぶどうの実がなっているのを見ます。ドイツのぶどう園のイメージはだいぶ異なります。もっとも、ドイツで目にするのはほとんどワインの為のぶどうです。

 マレーネ先生が住んでおられるのはドイツのライン川沿いのバッハラッハという小さな町ですが、すぐ近くにローレライがあるために大変多くの観光者でにぎわうところです。ライン川の両脇にある山の峯はみわたすかぎりぶどう園です。それで、ドイツにいたときに、何度かマレーネ先生の家を訪ねたのですけれども、その時に、少し散歩にでますと、すぐにぶどう園を抜けることになります。そこで、ぶどうの木を見てびっくりしたのですが、ドイツで見たぶどうの木というのは、木の幹の長さが五、六十センチしかありません。それも、しわしわでぐにゃぐにゃと曲がっているものもある、ひどく不格好な木です。それを見ながら、私は、これは「直樹」という私の名前のイメージとはだいぶちがうなぁという印象を持ったのです。マレーネ先生の説明では、ぶどうの木というのは家具にも何にも使うことのできない木なのだそうです。ぶどうの木のむしろ大切なのは枝の方です。日本のように、頭の上の高さに綱を張り巡らせて、そこに枝をからませているような場合であっても、ドイツのように谷間を利用して育てているために、短いぶどうの木にまっすぐな木の棒を添え木して、そこに実をつけさせながら、高低差を利用して収穫させるやり方にせよ、大切なのは実を結ぶ枝の方だということが分かります。

 しかも、2節を見ますと、

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

とあります。私は日本ではあまり見たことがないのですが、ドイツのぶどう園に行きますと、その幹の周りに非常にたくさんのぶどうの実が刈り込みのために捨てられているのに驚きました。こんなにも、刈り込みをするのかと思ったのです。素人目には、捨てられている実と、枝に残っている実の違いの見分けはつきません。ひょっとすると、みなさんの中には、畑や、果樹を育ててみえる方が何人かおられると思うので、あとで、見分け方を聞いてみたいと思うくらいですが、私の印象ではけっこうばっさりやるなぁという印象です。

 けれども、良い実をみのらせるためには、栄養が分散されてしまうまえに、刈り込みをすることによって、より良い収穫を得るためにそうするということを、私たちは知っています。豊かな実を実らせるためには、刈り込みが必要です。しかもそれは、決して少なくない量の刈り込みをなさいます。そこでは当然、痛みが伴います。なぜ、この部分を切り取ってしまわれるのかと、私たちには分からない部分がそこにはあります。主イエスを信じて、歩んでいく中でも、この刈り込みを私たちは幾度となく味わうことがあります。その時に、痛みが生じることがあるのです。なぜ、この大切な部分を私から切り取ってしまうのかと、訴えたくなるほどに、それは自分にとっては大事だと思える。その痛みがあまりにも厳しいために耐えられないと思うことさえあるのかもしれません。けれども、その刈り込みは、農夫である父なる神のなされることです。それは、私たちは農夫の手にゆだねるしかありません。けれども、私たちはこの農夫のおかげで、やがて豊かな収穫の実りを得ることができるようになるのです。

 私たちは、誰一人として、主イエスという木に結びついていなければ収穫を得ることはできません。パウロはローマ人への手紙の6章の中で、バプテスマについて語っていますが、5節に「私たちが、キリストにつぎ合わされて・・・いるなら」と語っています。キリストと一つになることがバプテスマ、洗礼を受けることなのだと語っているのです。

 私たちはキリストを信じて、洗礼を受けてキリストにつなぎ合わされる時に、キリストという木に接ぎ木されます。まさに、キリストはぶどうの木、私たちは枝という具合にです。すると、そこで、私たちはキリストから養分をいただいて、実を実らせることができるのです。このヨハネの福音書15章4節でもこう言っています。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 主はそのように言われています。けれども、私たちはキリストに結びつこうとはしないで、他のものに結びつきたいと考えてしまうところがあります。周りを見ていると、色々なものに目がいってしまって、あれにも手を出してみたい、これもやってみたいと、思いつくままに飛びついてしまう。しかし、そういう生き方をいつまでしていても、そこでは何ものこりません。「根なし草」という言葉があります。色々なものに飛びついてみても、しっかりと根をはって栄養を与えてくれるものとつながっていなければ、実をみのらせようがないのです。

 しかも、このぶどうの枝というのは、優劣はないのです。あの枝は優れていて、こっちの枝はダメというようなことはありません。あるのは、しっかりと結びついているかどうかです。あの枝は古い枝だから豊かな実を結び、新米の枝はあまり実を結ばないということでもない。不要な枝は農夫が剪定します。それは、神の仕事です。主イエスはここで、このような話をなさりながら、主と結びついている者は誰もが、そのぶどうの木のもたらす豊かな栄養のために、それぞれがそれぞれの実を実らせるのだと約束しておられるのです。
 そのために大切なことは、このぶどうの木である主イエスにしっかりと結び合わされるということです。7節にこう記されています。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら・・・」とあります。

 主イエスの言葉がわたしたちをとらえます。わたしたちを支配し、わたしたちを生かしてくださいます。3節にはこうも書かれています。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」主は私たちに言葉をもって語りかけ、わたしたちをとらえ、私たちをきよめてくださいます。そして、このお方の言葉が、まさに、私たちが受け取るべき養分として、わたしたちを支えるのです。そして、農夫である神の望まれる実を実らせてくださるのです。

 9節と10節では、それは主の愛に留まることだとも言い換えています。私たちを愛してくださり、私たちが実を結ぶために、私たちに言葉をもって語りかけてくださるお方こそが、人をより豊かに生きることができるようにさせてくださるお方です。この主に結び合わされているならば、私たちはたとえその人生の中で、さまざまな痛みを味わうことがあったにしても、平和を抱いて生きることができます。それは、自分の人生を振り返った時に、結局自分は何をしたかったのだ、結局何もないではないかということのない人生を歩むためなのです。

 主はまことのぶどうの木です。 主イエスは、私たちが実を実らせるために、自らは不格好な幹であることを承知の上で、私たちと結び合い、実を実らせるようになることを望んでおられるお方です。そして、この主につながっているならば、わたしたちは豊かな実を実らせる人生を生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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