・説教 ヨハネの福音書 20章1-18節「よみがえりの主とお会いして」
2016.03.27 イースターファミリー礼拝
鴨下 直樹
イースターおめでとうございます。今日は、イースター。主イエスの復活をお祝いする日です。昨年くらいからでしょうか、お店など色々なところで、このイースターという言葉を見かけるようになりました。先日も、買い物に行くと、お菓子のコーナーにイースターと書かれた特別包装のパッケージのお菓子が陳列されていて驚きました。お祭り好きな国民性もあるのかもしれませんけれども、イースターが取り上げられることは嬉しい気持ちになります。主イエスがよみがえられたことを、少しでも多くの方の耳に入るのであればそれは、素晴らしいことです。
先ほど、聖書のおはなしで、このイースターの物語を聞きましたし、今も、このイースターの出来事の聖書を聞きました。イースターの日、ここでは「週の初めの日」という言葉から始まっていますが、この日に起こった出来事が記されています。教会では「週のはじめの日」といえば日曜日だと誰もが分かりますが、最近は、新年のために手帳やカレンダーを買おうと思って文房具屋さんに行っても、ほとんどが月曜始まりになってしまっているので、日曜が週のはじまりの日であるということは、ひょっとすると、もう多くの人はあまり気にしていないのかもしれません。
この聖書の記されていた当時、特に、ユダヤ人たちにとって休みの日といえば土曜日です。翌日の日曜日はもう仕事がはじまる日でした。けれども、教会の人々は仕事がはじまる前、つまり夜明け前に礼拝をするようになっていたようです。それで、復活の朝の日の出来事を、ごく自然に「週の初めの日に」という言い方で書き記すようになったのです。そして、この言い回しが、いま、私たちが当たり前に日曜日は一週間の始まりの日というようになったのです。世界中で、日曜を週の始まりとするとするように決まったのは、まさに、このイースターの出来事がこの時に起こったからです。
さて、この朝の物語には男の弟子たちの姿と、女の弟子の姿が描き出されています。とても対照的です。男の弟子たちはこの日、とてもアクティブといいましょうか、活動的です。女の弟子たちは感傷的と言えるかもしれません。
はじめにでてくるのは、マグダラのマリヤです。まだ、朝早く、主イエスを埋葬した墓にマリヤは行っていました。2節にこう書かれています。
だれかが墓から主を取っていきました。主をどこに置いたのか、私たちには分かりません。
お墓に行ってみたら、お墓が開いていて、遺体がないので大慌てで弟子たちのところにそのことを伝えに来たことが分かります。
すると、その知らせを聞いたペテロと、主の愛された弟子と書かれていますもうひとりの弟子たちは、急いで墓に走ります。まるで競争をしたかのように書かれています。面白いことに、若い方の弟子は先に墓に着いたのですけれども、どうしていいか分からず覗き込みはするのですが、そこに踏みとどまっていると、後から走って来た年長者のペテロの方は、何にも考えずに墓に飛び込んで行ったようです。二人の性格の違いがここに見て取れます。墓に入ってみると、墓には主イエスの遺体をくるんであった亜麻布と、頭に巻かれていた布切れは別々に置かれていたとあります。
これは、墓泥棒が高価な亜麻布を目的で荒らしたのではないのだという事と、主の復活が本当にあったことなのだ、ということを、こういう書き方で表現しているわけです。面白いのはここからですけれども、大慌てで、走って来て空の墓を見た男の弟子たちですが、8節ではこの主に愛された弟子はそれで、「見て信じた。」と書かれています。主がよみがえられたことを、空の墓を見て信じたと書いているのです。ですが、10節を読みますと、そのまま「弟子たちはまた自分のところに帰って行った。」と書かれているだけです。主イエスの復活を、空の墓を見て信じたと言っている割に、それで、どうにかしようとは思わなかったようです。ある意味では、信仰というのは、そういうものであるということができるのかもしれません。主イエスを信じるというのは、何かとんでもない自分の中で大きな変化が起こるような気が、信じる前はするのですが、信じてみると、それからも、毎日同じような毎日の過ごし方のままということは、多くの方が経験されることなのだと思います。
では、女の弟子の方はどう描かれているのかというと、11節で、「マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。」とあります。感傷的とはじめに私が言ったのは、この箇所からですが、マリヤは主イエスの墓から離れることができませんでした。遺体がないのです。遺体がないということは、心の持って行き場がないのです。身近な家族を亡くされたことのある人は誰もが経験することでもあります。昨日まで元気だった人が、今まで一緒に生きていた人が、もういない。体がない。声をかけてもいない。それは、そこで佇むしかなくなってしまう。心の持って行き場がない。それが、愛する人を失うということです。
すると、そこで「なぜ、泣いているのですか」と声がかけられます。声をかけたのは、どうも墓の中からです。二人の御使いがいたのです。けれども、マリヤは「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分からないのです」と、それ以上の言葉は出て来ません。けれども、今度は後ろを振り返ります。すると、後ろに主イエスが立っておられたのです。主はもう一度、問いかけられます。「なぜ泣いているのですか。」よみがえりの主が、ここで悲しみにくれているマリヤに語りかけているのです。けれども、マリヤは誰が語り掛けているのか気づきません。「園の管理人だと思った。」と15節に書かれています。マリヤにしてみれば、誰かと会話していられるような気持ではないのです。悲しみが支配してしまって、愛する者がいないということにしか、心が向かないのです。
すると、主イエスはその時に、「マリヤ」と呼びかけられました。「マリヤ」と直接名前を呼んでくださったのです。すると、「ラボニ」とマリヤは声をだします。いつも主イエスに呼びかけていた言葉だったのでしょう。「先生」という意味の言葉です。
主イエスの「マリヤ」との呼びかけにマリヤは「ラボニ」と答えることができる。これが、イースターの朝、起こった出来事でした。愛するものを失って悲しみにくれている者に、主は名前で呼びかけてくださる。その語りかけの言葉は、どれほど深く心に響いたことでしょうか。
名前を呼ぶ、他の誰でもない、その人の名前を呼ぶ。不思議なものですけれども、小さな子供に親は名前で呼びかけます。注意する時も、自分の腕に抱く時も、名前を呼びます。ところが、大きくなるにつれて、名前で呼んでくれる人はどんどん少なくなっていってしまいます。残念ながら、それが日本の生活です。名前で呼ばれないということは、ものになっていくということです。だから、教会ではできるかぎり名前で呼びたいと思うのです。それは、主イエスがそうしてくださるからです。しかも、その人が最も悲しんでいる時に、もっとも、慰めを必要としている時に、主は名前で呼びかけてくださる。そして、「なぜ泣いているのか」と声をかけてくださる。「わたしを見なさい。わたしは生きている。死は、私を支配しない。死は、別れではない。」主イエスは、このよみがえりの朝、そのように語りかけることによって、この世界に大きな希望を与えてくださったのです。
少し前のことですけれども、夜、娘を寝かしつけるとき、一緒に絵本を何冊か読んで、お祈りをします。絵本を読んでやっていると、急に娘が死について語り始めました。そして、お父さんが死んだらいやだと言って泣くのです。もう一年数か月ほど前のことですけれども、大事にしていた犬が死んでしまいました。それで、娘は死ぬということが何となくどういうことか分かるようです。死んだら、もう、会えなくなってしまう。今、お父さんと会えなくなってしまったらどうしたらいいのだと、小さいなりに考えるのでしょう。お父さん、死んだらいやだと言って泣き出したのです。
ちょうど、その時、聖書の物語を読んでいたので、娘に、こう話しました。「私たちが信じているイエスさまは、十字架で死なれたけれども、三日目によみがえられた。イエスさまは、死ぬことでおしまいではなくて、その先にも命があることを教えてくださった。イエスさまを信じる者は、このイエスさまのくださる「死を打ち破るいのち」を頂くことができる。だから、お父さんはもし、死んだとしても大丈夫。あなたが死んだとしても大丈夫。神様は、わたしたちにほんとうのいのちを与えてくださったので、心配しなくてもいい、泣かなくてもいい」と話しました。
話しながら、こんな話をしてもたぶん、まだ分からないだろうなと思いました。けれども、私は子供に死は終わりではない、死の先にある本当の平安は、神の御手にある命があるから大丈夫なのだと、確信をもって語ることができることはなんて幸せなことだろうと思うのです。一人の親として、死の恐怖を感じている子どもに対して語るべき言葉を持っているというのは、当たり前のことではありません。多くの子どもは、そこで答えを与えてもらえないことで、いつのまにか死をタブー視するようになっていくのです。
この話を、今、洗礼のための学びをしています入門クラスで話しました。すると、この時に、私の話を聞いてくださった方は、自分がまだ子供の頃に、同じことを親に言ったことがあると話してくださいました。けれども、周りの大人たちは縁起の悪いことを言わないで、この子はまったくと言って、取り合ってもらえなかったことを思い出したと言われました。そういう経験をされる方は少ないのだと思わされました。そして、その方は、私にも小さいころにそういうことを教えてくれる人がいればきっと自分の人生は違うものになったのにと言われました。
人がもっとも恐れるのは死です。死は絶対に動くことのないほど大きな壁となって私たちの前に立ちはだかります。けれども、主イエスはよみがえられた。死を打ち破られた。それこそが、イースターに語られる福音、良い知らせです。しかし、主はこの良い知らせを、名前をもって語りかけてくださる。「あなたは、泣かなくてもよいのだ」と。だから、この日を、イースターを世界中で何よりもうれしい日としてお祝いしているのです。
お祈りをいたしましょう。