・説教 エペソ人への手紙 1章15-23節「栄光の富」
2016.05.08
鴨下 直樹
私たちの教会では毎月第一週の礼拝後に役員会の時を持っております。長老と執事たちとで教会のさまざまな課題について話し合いながら、主の御心を求めて祈ります。その役員会で昨年からですけれども、役員が順に証しをする時間をもうけております。年間聖句についてでもいいし、それぞれの信仰の歩みの中で味わった主の恵みをともに分かち合うようにしているのです。先週の役員会は、Y長老が証をしてくださいました。Y長老は全日本製造業コマ大戦で優勝して以来、テレビなどでも何度か会社が取り上げられています。見られた方も少なくないと思いますけれども、コマとはいえ侮るなかれ、それぞれの企業の技術の結晶がわずか2センチのコマに託されるわけですから、見る方も興奮します。Y長老の会社は、昨年の秋に行われた大会でも優勝したそうです。
このY長老 ―この場合はY社長と言った方がいいかもしれませんが― の会社で、「ありがとう」とお互いに声をかけあう運動をしているのだそうです。そして、Y長老自身、この運動をはじめて自分自身がありがとうという言葉をあまり意識して使っていないことに気づかされたと証の中で話してくださいました。その話の中で、聖書には「ありがとう」という言葉がどうなっているのかという話になりました。「ありがとう」という言葉は確かに聖書でみかけることがありません。ありがとうと言う言葉は口語で、書き言葉の場合は「感謝する」という言葉で表記されます。そうしますと、聖書には反対に「感謝」という言葉で満ち溢れていることになります。Y長老は会社だけでなくて、家庭でも、お互いに感謝をいいあう環境が、豊かな生活をつくること会社の人たちに覚えてほしいと思っているということでした。
今日の、このエペソ人への手紙でも、パウロの感謝の言葉が語られています。ヨハネの福音書がようやく先週で終わりました。レントの前にこのエペソ人への手紙から説教をはじめましたので、今日は3か月ぶりでつづきの箇所からということになりますが、ここからが、いよいよパウロの手紙の中身の部分にはいっていきます。そこで、改めて語られているのが、感謝の言葉です。
「ありがとう」という言葉の方がこの言葉の内容が良く分かるかもしれませんけれども、有り難いことが起こるので、ありがとうという言葉を発します。ですから、そこでは自分に何か有り難いこと、何か得をしたというようないいこと、自分がそのことで嬉しくなるような事態がその言葉の前にあるわけです。さきほどの話しではないのですが、日常の生活の中で感謝を見つけることができるというのは当たり前のことではありません。そこに不満をもっていたらありがとうという言葉は出てこないわけです。
パウロは教会の人々の信仰と愛を聞いて感謝したいという思いをいだきました。人が信仰に生きること、あるいは、愛に生きることは当たり前のことではありません。けれども、何かの知らせがパウロの耳に入って来たのでしょう。これは素晴らしいことだと思わず、こんな素敵な知らせが自分の耳に入ってきたことをありがたいと思ったのです。そして、パウロはここで、感謝をしたと同時に祈りたいと思いました。今日の17節から25節までの部分というのは、ここでパウロは思わず祈りだした祈りの言葉です。感謝の言葉と同時に口からあふれてきた祈りがここにあるのです。
パウロがここで祈っているのは何かといいますと、17節です。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
とあります。この短い一節の中で三位一体の神が出て来ていますが、祈りの内容は難しくはありません。「神を知るための知恵が与えられるように」と祈っているのです。それを、次の18節では「栄光の富」と言い換えています。神を知ること、それがどんなに素晴らしいことになるか、それこそ、栄光の富を頂くことになるのだと知って欲しいと祈っているのです。
会社で、「ありがとう」と互いに声をかけあう。家で、家族同士が「ありがとう」と声をかけあう。それだけだって、ずいぶんと人間関係がよくなっていきます。けれども、そこからさらに優れたものを手にいれるためには、神のところに眠っている宝を手に入れること、これにまさる富はありません。祝福のみなもとはありません。栄光の富とは何か、それは、「神を知ることだ」とパウロは言うのです。あなたがたが神を知るようになって、この栄光の富を手にいれることができるように私は祈っている。18節
あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・を、あなたがたが知ることが出来ますように。
これがパウロの祈りです。
パウロは「栄光の富」のことを、ここでは「神の召しによって与えられる望み」と言ったり、「聖徒の受け継ぐもの」と言い換えています。信仰に生きるようになると、どうなるのか。それこそ、何か有り難いこと、あるいは、どこで得をするのかと言い換えてもいいのかもしれませんが、それは、神を信じた時に与えられる望み、聖徒が受け継ぐべきもの、栄光の富、それらは、神を知ることによって得られるのだと言います。
その中身は何か。それは、19節に続いて書かれています。
神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
パウロはそう語り続けています。「神の全能の力の働き」が、「信じる者に働く力」となる。
もったいぶった言い方ですけれども、パウロがもったいぶりたい気持ちが良く分かります。一言で簡単に言い表してはいけないようなもの、それこそが、神の全能の力です。全の王の神の力が、わたしたちに働くのだとしたら、それはとてつもないことです。筆舌に尽くしがたいことと言わなければなりません。
パウロの言葉は、ここまで言い換えてばかりですけれども、今、私は大切な18節の言葉を飛ばしました。この「栄光の富」、「神の召しによって与えられる希望」、「聖徒の受け継ぐもの」、「神の全能の力」、「信じる者に働く神のすぐれた力」は、私たちにどうやってはっきり見えるようになるのかというと、この18節で言われているように「心の目がはっきりと見えるようになること」によってそれを得ることができるわけです。この「心の目がはっきりと見えるようになる」ためにはどうしたらいいかというと、私たちは自分の目をろ過して不純物を取り除いて、見なければならないものを顕微鏡で発見するかのようにしてみることと考えられるでしょうか。そうなると、もう私たちにはお手上げです。私たちはついつい、そのように考え込んでしまいます。神だけ、その一点だけを凝視すればきっと見える。もうそうなるとそれは信念のようなものですけれども、そうやって信仰の歩みをしていきますと、どこかで挫折を味わうことになります。いろんなものが私たちの目に飛び込んでくるからです。そして、よそ見をしない。他ごとを考えないと注意され続けていくうちに、諦めてしまうのが関の山です。
けれども、パウロはここでそういうことを言おうとしているのではありません。前の17節ですでに記されているのですが、最後に書かれている一文「あなたがたに与えてくださいますように」。この17節は三位一体の神が語られていますが、三位一体の神が、私たちに神を知るための知恵、啓示の御霊を与えてくださるのです。ですから、この三位一体の神が、私たちの心の目ではっきりと見えるようにしてくださる。だから、パウロは祈っているのです。三位一体の神よ、あなたの働きで、彼らにも心の目を開いて、この栄光の富を得させてやって欲しい、神の全能の力を味わわせてやってほしいと。
では「栄光の富」と言われている、「神の全能の力」とはいったいどこで見られるのか、それがつづく20節21節で語られています。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
あまり、分かりやすい言葉ではありませんが、神の全能の力はキリストの復活に現されているのだとパウロは言います。そして、この復活の主ご自身の御名のうえに、今の世界も後に来る世界もすべてが支配されているのだと言っています。つまり、パウロは何が言いたいのかというと、キリストの復活の力が、私たちに、主イエスを信じる者にも与えられるのだから、その力があなたがたにも与えられますようにと祈っているのです。
この復活の力、キリストが死を打ち破った力はどこで働くのか、このエペソの手紙ではそれは、私たちの死の後にというような書き方はしていません。この主イエスの復活の力、神の全能の力は教会に働くと書いています。そして、ここにエペソ人への手紙の特徴があります。神の全能の力はいつか、私たちに与えられるというのではなくて、今ある教会に与えられると言っているのです。最後の23節でパウロはこう言うのです。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
パウロはここで、「教会」のことを「キリストのからだ」という呼び方をしています。もちろん、それは建物のこと、教会堂のことではありません。教会というのは、主に呼び集められた人々の集まり、私たちひとりひとりを指しています。今日、遠く山口県からMさんが帰省してきております。子どもの出産のためです。私たちはこうして、普段遠いところで信仰の歩みをしている一人一人のことも覚えて祈っています。今、熊本でもいくつかの教会が厳しい中で礼拝をしています。あるいは、高校を山形県のキリスト教学校で学んでいる人たちもおります。ドイツで芥見の教会のことを宣教報告しているマレーネ先生もこの教会の交わりです。ですから教団や教派を超えて、すべて、三位一体の神を真の真美と信じる教会は、それぞれの地域、場所も越えて、このキリストのからだとしての教会に属しています。あるいは、それは、時間も越えて存在するものですから、かつてあった教会、それこそエペソの教会やルターの宗教改革の当時の教会、それもすべて含んだすべての教会に加わっている人々のうちに、今、このキリストの復活の力は働いているのです。そこに神の全能の御力が示されているのです。それこそが私たちが受けるべき栄光の富なのです。
そしてそれは、すべて、キリストを知ることに深く関わっています。神のことを知ること、私たちの主イエスのことを知ること、真の神によって知らされていくことを通して、わたしたちは時間も場所も超えて、キリストのからだである教会を建て上げ続けるのです。主イエスがよみがえられたということが、時代も場所も超えて、このキリストのからだである教会に人々が呼び集められてくる。そこで、キリストの御業が起こるのです。神の全能の力としか言うことのできないような不思議なことがそこで起こる。私たちの毎日の生活の中で起こるのです。
そういう話が伝わってくると、それはもう感謝するほかなくなるのです。主よ、ありがとうと言うほかなくなるのです。きっとパウロは思ったことでしょう。ああ、あそこでも、ここでも神が働いておられる。ドイツでも、日本でも、岐阜でも、熊本でも、ドイツのノルトライン・ウェスト・ファーレン州においてでも、神の御力が働いている。あそこでも、ここででも、神の業が、神の全能の御業が働いているのです。その時に、私たちは天を仰ぎながら、ああ、主よ、あなたに感謝します。これこそが、神の栄光の富、全能の神の御力。その力が今も、私たちに惜しむことなく与えられていて、その力によってこれからも支えられるのだと神に感謝することができるのです。
神は、この教会で今も働いていてくださる。神はあそこでも、ここでも今も働いていてくださる。そのことがどんどん分かって来る度に、私たちは神を知るものとされていくのです。神の全能の力を知らされ、神の栄光の富がどれほど豊かで、この豊かなものを私たちは今、この岐阜の地で受け継いでいるのです。
お祈りをいたします。