2016 年 7 月 3 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(2)「愛によって建て上げられるキリストの体」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:01

 

2016.07.03

鴨下 直樹

 
 今日は、先週につづいてエペソ人への手紙4章1節から16節までのところから、み言葉を聞きたいと思っています。先週はほとんどふれられませんでしたけれども、特に12節から16節の部分に目を向けてみたいと思います。ここでは、教会のことが書かれています。教会はただキリストを見上げながら一つとなっていくのだということをパウロはひたすらここで書いているのです。

 明日から木曜日まで、私は、久しぶりに説教塾という牧師のセミナーに参加してまいります。もう五年ほどの間、なかなか都合をつけることができなかったために、参加することができなかったのですが、今年はセミナーの日程が変わったために、参加できることをとても嬉しく思っています。この説教塾を主催していてくださるのは、加藤常昭先生をはじめとする説教塾のメンバーの牧師たちです。私は今からちょうど20年前から参加するようになりました。実は、はじめて牧師として参加した時に、説教クリニックという時間がありまして、自分の説教を見てもらいたい人が、その場で実際に説教をやりまして、出席している牧師たちや、加藤先生からアドヴァイスを貰います。そこで、最初に加藤先生に言われたのは「君の説教はあと20年くらいたったら良くなるだろうね」という言葉でした。あれから20年たちますが、そうやって、自分のいけない部分に目をとめて、改善していきながら、できるかぎり誠実に説教することができるように、研修をするのです。

 なかでも、この説教塾で大切にしていることに、黙想というものがあります。ただ聖書を読んで理解するだけではなくて、自分の教会に来ている人たちのことを思い起こしながら対話をする。実際話したり、聞いたりしたことを思い浮かべながら、自分がこの聖書を説教するためには、何を考えなくてはならないのか、どこで配慮するべきなのか、何を語るべきなのか、そういったことを思い巡らせながら文章に書いていく作業を黙想というのです。

 そこで、ドイツの神学者でこの黙想を書くということを広めた人でもあるイーヴァントという牧師の書いた黙想を読むという作業を、いつも必ずいたします。そこで、明日から、セミナーに参加することを思い起こしながら、そういえば、このイーヴァントの書いた今日の聖書の箇所の黙想がないかと調べてみましたら、持っている資料の中に、ちょうどこの11節から16節までの黙想がありましたので、読みました。とても、刺激的な文章がいくつも目に飛び込んできました。

 このエペソの手紙のこの部分で何を書いているのかといいますと、子どものままの信仰ではなくて、大人の信仰になることについて、パウロは語っています。そこで、このイーヴァントという人は、大人だと思っている人は自分で正しい判断をすることができると思っている。それは、自分は知識があると思っているからだけれども、「信仰を欠くならば知識も何ら得るものはない」のだと書いています。

 ここでパウロが、おとなになるというのはどういうことかというと、13節で

「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって」

と書いています。パウロは教会の人びとに手紙を書くにあたって、子どものような信仰のままではよくないと言っています。続く14節で「人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」のだと書いています。

 この世界には確かにさまざまな知恵があります。知識があります。そういうものを確かに上手に利用することで私たちの生活が成り立っている部分があるわけです。「そら、こういう考えがすぐれているとか、いや、こっちのアイデアの方が秀でている」、そういうニュースを聞き集めながら、私たちは自分たちの生活を築き上げています。けれども、そういう何が得で、何が損なのか、何が賢くて、何が欠けているのかという知恵の言葉は、決して神から出たものではありません。

 ですから少なくとも、教会はそういう知恵によって建て上げられることはないのです。教会を建て上げるのは、信仰と知恵です。そのことをここでパウロは言っています。この新改訳聖書の翻訳は神の御子にかかるのは知恵だけのように訳していますけれども、本当は、信仰と知恵という二つの言葉にかかっている言葉です。信仰の知恵、その両方が重なるのは、ただ一点、それは神の御子だと書かれているのです。この神の御子を信じ、神の御子から与えられる知恵によって生きる時に、おとなとしての歩みをすることができるのだとパウロは言っているのです。

 今私は、東海聖書神学塾で教師をしております。そして、教団の役員をしています。そうすると、あまり知らなくてもいいことなのですけれども、他の教会の事で、どうしたらいいのでしょうかという相談を受けることがあります。先日も神学校で、ある神学生が、「教会で二つの意見が出て、衝突した場合には、どちらが神の御心だと判断することができるのでしょうか」という質問をしてきました。具体的なことは聞く必要もないのですけれども、その対立について聞かなくても、私はこう答えました。「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている。その判断を神様の御心として決めようとすると、意見が受け入れられなかったグループの人たちは悲しい気持ちがするでしょうね」と言いました。

 どんな意見であったとしても、そこには一面の真理という部分はあるわけです。そこで、神様はこちらの意見を望んでおられるので、あなたの意見は神の御心ではありませんなどと言ったら、下手をしたら明日から教会に来なくなってしまうかもしれません。私はこう続けました。大切なことは「どちらが正しいか、間違っているかではなくて、どちらにも必ず優れた部分があるはずなので、まず、その部分に耳を傾けることです。そして、一つの選択をしなければならなかったとしても、残りの少数意見も大切なのだということをちゃんと受け止めること」そう答えました。本当はもう一つのことを付け加えたかったのですけれども、それは、キリストを見上げながらする決断は、キリストがいつも最善をなしてくださると信じることです。

 教会には色々な意見の衝突があるのは仕方がないことです。誰もが、それぞれに主が喜んでくださることをしたいと思っているので、真剣に色々な意見がでてくると思います。けれども、そこで気をつけなければならないのは、その考え方はどこから出て来ているのかということについて、いつも目を向けている必要があるのです。パウロはここで、この世の考えに支配されることを「子ども」と呼び、神の御子から来る信仰と知恵に結びついたものによって考えていくことをおとなと言っているのです。

 子どもというのは、まだ自分で責任をとることができません。だから、おとなの言うことに聞き従います。そうやって、何が正しいことなのかを少しずつ理解していきます。先日、2016年の参院選の選挙の公示が行われました。今回から18歳から選挙権を得ることができるということです。将来をつくるのはこの若者たちなので、若者たちも選挙に参加することによって、自分たちの意見を反映させていくことが大事だと考えての事のようです。18歳ではまだ早いとか、海外では18歳から選挙をしているとか、いろんな意見があるようです。いずれにしても18歳から選挙を認めるということは、もうおとなであると認めるということでしょう。そこで言うおとなというのは、自分たちの決断の責任を負うのだということです。

 パウロがここで言っているおとなというのは、どちらかというと、そういう消極的な意味ではなくて、「完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」と言っています。ここで「完全なおとな」という少し変わった言葉が出て来ます。子どもに、あなたが完全なおとなだと思う人はだれかと聞いてみても面白いかもしれません。まだ小さい子であれば両親と答えるかもしれません。けれども、思春期くらいになって来て、両親のことが分かって来ると、「りっぱなおとな」だと思ってくれる子どもはまだいるかもしれません。けれども、「完全な」とつくと「?」がつくようになります。そして、「完全なおとな」なんて果たしているのかということになるかもしれません。

 しかも、これはもともとの言葉は、おとなという言葉でもなくて「人」という言葉です。もっというと、「男」とも言える言葉。英語で言うと「マン」という言葉です。しかも単数形で書かれています。こうなると、だんだん誰のことをさしているのか明らかになってきます。「完全なひとりのひと」というと、もうこの方しかありません。それは、やはり、「神の御子、主イエス・キリスト」しかないのです。

 キリストのようになる。それが、人間の完全な姿です。キリストのようになった時に、私たちは、人の顔色を見ながら、あるいは、自分の財布の中身と相談してとか、世の中の流行りがどうだとか、そういう自分たちの都合によってではなくて、まさに、神ご自身がどう考えておられるかで、物事の判断がつくようになっていきます。そのように、成長させていただく必要があるのですよということをパウロはここで言っているのです。

 これまで、パウロは教会というところは異なる意見があることを知りながらも、一つとなるということについて語り続けて来ました。そして、それは、「神の御子の信仰と知恵」によって可能になるとすでに語りました。ところが、15節と16節を見てみますと、ここに来て突然のように「愛」ということを語ります。まず15節では「愛をもって真理を語り」と言っています。教会で語られるべき言葉は「真理」の言葉です。今の時代の特有の考え方や、誰かのアイデア、そのようなこの世の知恵ではありません。神の知恵です。そして、それは信仰の言葉です。

 けれども、いくら信仰的で正しい言葉であっても、それをただ言えばよいという訳でもありません。というのは、正しい言葉の前に、人は打ちのめされてしまうからです。「真理」は人を自由にする言葉であって、人を傷つける道具とはなりません。だから、パウロは真理を語るためにはそこに「愛」を添えることが大事なのだと言います。愛をもって真理を語ることが大事なのだとパウロはいうのです。

 最初にお話しした、イーヴァントの黙想の中に、ここで語られている愛とは何かということが書かれていました。「愛とはその人が、キリストによって最善のものをあたえられるために、キリストが死んでくださった者だと見ること」。さらにこう言います。「互いに相手のおかげでキリストにおける成長をすることができるような関係」と言っています。

 私はこのイーヴァントという人が、どのように教会の人たちの姿を見ているか知って、とても驚きました。自分に敵対する人、自分の思うようにならない人、そのような自分本位で人を見るのではなくて、この人のためにキリストが死なれたほどの人なのだとちゃんと見る、と言っているのです。そして、この人がいることで、わたしも成長させてもらえる。そう見ることが、パウロがここで語っていることだと言うのです。

 「愛するというのは、他の人がキリストにおいて成長することを願い求めることにほかならない」とまでイーヴァントは言います。それこそが、神の御子によって与えられる信仰と知恵の中身です。これこそが、教会が一つとなる愛の源泉です。キリストは誰が勝つか負けるかなどということにはまったく興味はありません。誰の言い分が正しくて間違っているかを見極めたいわけでもありません。お互いが愛によって成長し、相手がキリストに支えられることを求めること。それこそが、ひとりのお方、主イエス・キリストがなさりたいことなのです。

 わたしたちがそうなるときに、教会のなかでひとりひとり異なる歩みをしていたところから、主にあってひとつに結び合わされていきます。機能するようになっていきます。外から見ても、ああ、あの人たちは互いに認め合い、受け入れあって一致しているのだということが見えるようになっていきます。それこそが、教会の成長した姿なのです。

 愛をもって真理を語る。それは、誰かの心の中にあることを語るのではありません。それは、ただ、おひとり、主イエス・キリストのところにだけあるものです。このキリストの心を互いの心としつつ語りあう。そのためにただ、キリストだけを見上げつつ、このキリストのところにある本当のものを互いに分かち合って行きたいと願います。

お祈りをいたします。

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