2016 年 7 月 31 日

・説教 エペソ人への手紙 5章21-33節「互いに仕えあう喜び」

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2016.07.31

鴨下 直樹

 
 今日の箇所を楽しみにして今朝、教会におみえになられた方があるかもしれません。今日の箇所は結婚式などでもよく語られる聖書の箇所です。「妻たちよ、夫に従いなさい」と書かれたこのみ言葉は、多くの場合、何か不条理なことが書かれているとお感じになる方が多いようです。それで、何とか納得のいく説明を聞けるのではないかと思って楽しみに来られた方があると思うのです。もうすでに、何人かの方からそのように聞きました。そして、多くの方は、心のどこかで、「そんなはずはない」と思っておられる気がするのです。私のかん違いであればそれは幸いです。
 この時代に、聖書は、「妻は夫に従うように」と書いている、なんというナンセンスなという思いがある。きっとそれは、生活の中でなかなか納得しづらい場面が多く見られるからなのだろうと推察いたします。しかも、最初に出て来ますので、余計にその理不尽さが際立つのかもしれません。

 新改訳聖書は残念ながら段組みを変えてしまっているのですが、本来この箇所は21節から読まれるべきです。21節にはこう書かれています。

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

まず、パウロはそのように言いました。パウロはこの21節から6章9節までで、夫婦について、親子について、そして奴隷についてどのような関わりで歩むべきかについて記しています。夫婦、親子、奴隷という関わりを語るうえで、まず、その前提としてこの21節をこう語りました。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 この「互いに仕える」ということがすべての前提です。今日、この礼拝の後で、ここ数年の間に洗礼を受けられた方々と、教保とで昼食を共にとりながら、交わりの時を持とうと思っています。主イエスを信じて洗礼を受けて、どう生活が変わったのか、それぞれ分かち合うことができればと思っています。キリスト者となって、生活がどう変わるのかというと、まさにそこで問われるのは、私たちがどのように人に仕えるようになったのかということに尽きると思うのです。夫婦の間で、親子の間で、あるいは仕事場で、私たちはキリスト者となって、仕える者となったのかが問われるのです。

 先週から信徒交流会で祈祷会の時に、信徒の方々が証をして、その後で、出席しておられるみなさんがそれを受けて色々なことを語ります。特に、先週は「キリスト者としての成長」というテーマで水曜日にAさんがお話してくださいました。クリスチャンになって自分がどう成長したのか。みんな色々なことを語ってくださいました。ある方は、仕事に行く前に祈るようになった。特に、いやな取引先に行く前に祈る。そうすると、先入観から解放されて気持ちよく相手の方と話すことができて、そうやって実際的に守られているという話をしてくださった方があります。自分はこのようにして成長してきたなどと、高らかに人前で話すことは難しいのかもしれません。けれども、人と会う前に神にゆだねて祈る。そうやって、仕えるということを思い出させていただいて、毎日仕事に励む。ここに、まさに、互いに仕えるというキリスト者の基本的な姿があると思うのです。

 新改訳聖書ではここで「従う」という言葉で訳されていますが、「仕える」というふうに一般的には訳される言葉です。しかし、この「従う」とか「仕える」というのは、どういうことなのでしょうか。もともとのこの言葉の意味は、「下に立つ」とか「従属する」という意味の言葉です。ある方が、それは自分の意思と権利を捨てることであると言った方があります。自分のことではなくて、その人が支えられるようにすること。それが、仕えるということです。まずは相手がどうであったにせよ、その人が支えられるようにするということが、まずこの従うという言葉の持つ意味です。相手がどうであったにしてもと言われると、私たちはそこで止まってしまうのかもしれません。それで、そのことを裏付けるように「キリストを恐れ尊んで」という言葉がしるされているわけです。

 この「キリストを恐れ尊んで」という言葉、この「キリストを恐れる」という言葉は新約聖書ではここにしか出てこないとても貴重な言葉です。神を恐れるという言葉は何度も出てきます。けれども、キリストを恐れるという言葉はここ以外にないのです。もちろん、ここで恐怖の「恐れ」という言葉が使われていますが、畏敬の念などということばの「畏れ」という言葉で表すともっと意味が分かるのかもしれません。キリストのなさった御業を畏れよと言われた時に、私たちはどうしても、十字架と復活のことを覚える必要があります。キリストのことを思い起こす時に、相手の下に立つことができるはずだ。なぜなら、キリストは相手の下に立たれたお方だからということになるわけです。キリストは、相手が罪びとであることを理解したうえで、その人の傍に立たれ、そうして私たちの下に立って、私たちを生かすために、私たちに仕えてくださったわけです。

 私たちが人に仕える、従うというということに、すぐに、その人は仕える価値のある人かどうか、そういうことを考えてしまいますので、その時に、キリストを畏れつつ、私たちもこのキリストのわざに生きていくのだということになるのだと思います。

 しかし、そうであっても、私たちは相手がどうであったにしても、その人に仕えると言われると少し躊躇してしまいます。そこで、語られているのは22節で「妻たちよ、あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」という言葉が続くわけです。ですから、ここで覚えなければならないことは二つあります。一つは、これは、キリスト者に言われていることであって、一般論ではないということです。もう一つは、ここで夫に従いなさいと言っているのであって、「女は男に従いなさい」と言われているのではないということです。この二つはどれも大事なことです。

 もう一度、誤解のないために繰り返しますが、これはまず、すべてのキリスト者にお互いに仕えるようにと言われた後で、妻は夫に従いなさいと言っているということ。この順番を忘れてはなりません。この妻は夫に従うべきであるということは、実は、聖書の概念というよりも、古代社会の通念だったわけです。そして、それを聖書は受け入れています。たとえば、この次に出てきます奴隷についてもそうです。現代的な通念でいえば、奴隷制度というものは人を人として見ない悪い考えだということが一般に理解されています。けれども、その時代は奴隷という制度はその人が生きていくために必要な手段として認めているわけです。聖書のレビ記の中にもそれがすでに語られております。そういう社会通念を認めているのですが、しかし、聖書はだからといって社会の考え方に同調しているわけではなくて、そのようなあり方の正しい在り方をさらに展開させていくわけです。

 というのは、ここで文章の流れとしては妻と夫のことを言っているように読めるわけですけれども、内容を読んでいきますと、教会のあり方のことをパウロは語っているのだということが見えてきます。夫と妻の関係のことを言いながら、キリストと教会との関係について語っているわけです。23節にこうあります。

なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

ここで、夫は妻のかしらだという当時の社会通念を語りながら、パウロはそれが教会の姿なのだということを語ります。キリストは教会を救うために自らを犠牲にされた。それは、教会はキリストの体だから。それと同じように、夫は妻のかしらなのだ。そうやって読んでいきますと、夫もなかなか素直に、ほら聖書に書いてあるから俺に従えとは、そうやすやすと言えないことが見えてくるわけです。

 確かに、キリストは教会、私たちのためにいのちを投げ出してくださいました。それこそが、キリストの仕える姿です。そのようにして、キリストは教会のかしらであることをご自分が示された。だから、キリストはかしらなのだ。だから、夫は妻のかしらとして立つのはあたりまえだと言うためには、妻のためにすべてを捨てる犠牲の精神を夫が持たないと、妻に対して、簡単にこのことを言うことは出来ないわけです。

 しかも、妻に対して夫に従いなさいという言葉は、この22節と24節に出て来るだけですが、他はすべて、夫が妻を愛するというのはどういうことかということがほとんどの節で実に丁寧に書かれていることに気づくのではないかと思います。

 夫にはここで「妻を愛するように」と語られています。25節

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

とあります。
 ここで、夫に対して言っているのは仕えるという言葉ではなくて、「愛する」という言葉です。この「愛する」という言葉は「アガパオー」という言葉ですが、これは「自分の気に入るようにしてくれる」という意味ではありません。むしろ、まったく逆の意味で、相手の見返りがなくても、相手のために犠牲を払うということをさす言葉です。

 私たちは、愛ということばをどこかで、自分の願うとおりにしてくれることと思い込んでいるところがあります。そして、そうならないと分かると、これは失敗だったと考えてしまうのです。今、この秋に結婚をしようという方々の結婚カウンセリングをしています。前の教会の家庭集会に来ておられた娘さんが結婚をするというので、ちゃんとした牧師さんにやってもらいたいということで、娘さんと夫になる方と、お母さんとで教会に来られまして、そのお母さんも最初の結婚カウンセリングの話を聞いて行かれました。その方はまだキリスト者ではありません。ところが、話を聞いているうちに、結婚をする娘よりもお母さんの方が身を乗り出して聞き始めまして、こんな話であれば息子夫婦にも聞かせたいし、私たち夫婦も聞きたいと言って帰って行かれました。結婚をするために、二人がしっかりと向かい合って関係をつくりあげるということは聖書なしには成り立たないので、聖書から6回の学びをしますと言って、その後は娘さんと彼とが毎回集って来てくれていますが、良く話を聞いてくれますし、とてもよく理解してくれます。

 結婚カウンセリングをするときにいつも話すことは、愛するということは、相手が望むことをしてあげることではなくて、相手を受けとめるために赦していくことだということを話します。そして、妻が夫に従い、夫が妻を愛することができるのは、キリストの愛を知らないとできないということを話していきます。そうしますと、とてもよく理解してくれます。キリストの犠牲が、愛することのモデルなのだということを結婚する時に知って結婚することは、その後の結婚生活にどれほど大きなものをもたらすか、それは計り知れません。

 パウロはここでこう言っています。26節

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため

とあります。み言葉を聞いて、主イエスを信じて洗礼を受ける。そうすることによって、教会は、ここに集っている私たちひとりひとりは、聖なるものとされていくというのです。この「聖なるものとされる」というのは、聖く純粋な、完全な存在になるということではなくて、まさに、神のものとされるということです。この「聖」という言葉は「違う」という意味の言葉です。この世界のものとは異なったもの、つまり、神のものとなるということです。私たちはそれまでの生き方、つまり、自分を喜ばせるための生き方ではなく、神のものとされて、神を喜ばせる生き方をするようになる。それは、何よりもまず家庭の中から、夫婦の中から変えられていくのです。相手が、キリスト者であろうとなかろうとです。夫に仕える。妻がキリスト者であったとしても、あえて言いますが、妻を愛する。これでもクリスチャンかと思うのではなくて、この人のためにキリストは死なれたのだと思いながら、自分も同じように相手のために死ぬ。キリストがそうされたように、私たちは互いに仕えあい、互いに愛し合っていくのです。

 こうして、あの創世記のみ言葉がここで繰り返して語られています。31節。

それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。

これは創世記の冒頭2章24節でアダムとエバを指して言われた言葉がここで繰り返されています。アダムとエバには父も母もいませんでした。最初に造られた人間です。それなのに、聖書は「人は父と母を離れ」とわざわざ書いているのです。

 結婚をするときに、私たちはそれぞれ自分の両親に育てられていますから、その家の習慣というものを抱えて生きています。自分の父と母から受け継いだものは、それがどんなものであったにせよ、自分自身を形成してきたものです。そうすると、結婚した時に何が起こるのかというと、この二つのカルチャーのぶつかり合いが起こります。それまで、自分が無意識にしてきたことは、当たり前ではないのだということにいやでも気づいてしまいます。

 味噌汁は、赤だしがあたりまえだと思っている人が、白みその文化の人と結婚しますとそれはもう大変です。朝、パンを食べてきた人が、ごはんと味噌汁でないとだめだということになると、さらに問題が生じます。そこで妥協して、パンを諦めて、赤みそも捨てて、しぶしぶ朝食をとりはじめると、玉子焼きが甘かったりするともうここらあたりで堪忍袋の緒が切れるわけです。

 愛するということは、一見簡単そうに思えますが、自分を捨てるということがこれほど大変なのかということを、結婚した時から、この戦いが、とても具体的に毎日繰り返されることになります。相手を無視するのでもなく、相手を嫌いにならず、我慢するのでもなく、相手に仕え、愛していく。もうほとんど奇跡みたいな忍耐と悔い改めにより、新しい決意を、それこそ毎日繰り返して、私たちは愛することを学んでいくのです。

 妻たちよ、夫に従いなさい。これは、当たり前のことです。夫たちよ、妻を愛しなさい。当たり前のことです。不当なことでも、理不尽なことでもなんでもないんです。それが愛するということなのです。しかしいったい、誰が、それを自分の力で成し遂げることができるというのですか。

 キリストは、教会を、ここに集められた私たちをそのようなとても現実的とは思えないほどの愛をもって愛してくださったのです。キリストが私たちにすでにして下さったという、この事実なしで、私たちは愛のある家庭を築き上げていくことはできません。「二人は一心同体になる」。それはいつかなるのです。すでに、結婚したときに一つとされました。しかし、まだ完成されてはいません。途上にあるのです。

 それは、私たちが救われたということと同じです。もう救われたのです。もう神の子どもとされたのです。愛に生きる者とされました。でも、まだ完成されてはいません。そうなりたいと一心にもとめながら、私たちもキリストのように歩んでいく以外に道はないのです。

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

32節。
 これは、奥義なのです。簡単なことではありません。だからこそ、私たちは互いに仕え、互いに愛することを目指して、歩んでいるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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