2016 年 8 月 14 日

・説教 エペソ人への手紙 6章10-24節「神の武具を身に着けて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:42

 

2016.08.14

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙をはじめから順に聞き続けて来ました。今日で、最後の箇所になりました。この10節にはこう記されています。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

「終わりに言います」とありますから、パウロはここで手紙を締めくくろうとしているわけです。しかし、ここで語られているところは、非常に豊かな内容のある手紙の言葉です。それで、この箇所からだけでも一冊の本が書けてしまうほど、豊かな内容があります。けれども、「終わりに」とありますから、今日のところで終わりになるようにしたいと思います。

 このエペソの手紙は教会の手紙と言われます。教会の歩みは、ひとりひとりがキリストのように歩むことです。そして、最後にパウロはここで三つのことを語りながらそのまとめとして、キリストのように歩むために生じる信仰の戦いについて語っています。

 エペソ人への手紙はその最後に信仰には戦いがあるということを書いているわけです。信仰生活には実際にさまざまな戦いがあります。どのように信仰を証ししていくかという戦いもあるでしょう。あるいは、罪との葛藤もあるかもしれません。あるいは、信仰に生きるということ自体が戦いになることもあるのだと思います。パウロはこの手紙で、キリスト者のひとりひとりの生活が教会の歩みそのものなのだということを語りながら、最後に

主にあってその大能の力によって強められなさい。

とまず勧めています。これが最初の第一の勧めです。

 「強められなさい」というのは命令形の受動態で書かれているからです。「強めていただきなさい」というわけです。神様に強めていただいて、信仰の戦いを戦うのだということを、最後に確認しようとしているのです。というのは、信仰の戦いというのは、自分の力でするものではないからです。それで、ここでも「主にあって」と言っているのです。

 私たちは信仰の戦いという時に、さまざまな個人個人の信仰の戦いがあるのだと思いますけれども、振り返ってみますと、案外、自分の力で戦おうとしてしまうところがあるのではないでしょうか。家族の中で自分一人しかキリスト者がいない。あるいは、職場でキリスト者であるということがなかなか人に話せないでいる。知られたら何と思われるか分からない。そういうさまざまな悩みを抱えている方があるかもしれません。教会でもそんなことを話すと自分が弱いクリスチャンであるかのように思われてしまうのではないかとか、色々なことを考えてしまう。それは、自分の力で何とかしなければと、つい考えてしまっているということです。

 けれども、パウロはここで「主によって強めてもらいなさい」と言っているのです。主が強めてくださるのだからそれを受け取りなさいと勧めているのです。しかも、ここで「大能の」という言葉がありますが、このエペソの1章19節に同じ言葉が出て来ます。そこでは「神の全能の力の働きにより」とありますが、この「全能」という言葉なのです。「全能の神」という言葉を私たちが耳にすると、神はすべてのことがおできになるということを思い起こすのではないでしょうか。神は、私たちが弱いキリスト者として歩みつづけなければならないと思っておられるのではなくて、神の全能の御力によって強めようとしていてくださるのです。

 そして、つづく11節で

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。

と語られています。ここで、私たちは信仰の戦いをしていると感じる時に、何と戦っているのかということが記されているのですけれども、ここでパウロは、それは「悪魔」だということ記しています。もちろん、そこで気をつけなくてはならないのですが、例えば、家庭の中で争いが起こる。どこかに原因があったり、何かが問題となっていたり、誰かのために戦いが生ずるということがあります。自分にとって不都合なものをすべて「悪魔」だと聖書は言っているわけではありません。

 この「悪魔」と言う言葉は、ギリシャ語で「ディアボロス」といいます。この言葉は、「訴える者、中傷する者」という意味の言葉です。私たちに対して立ち向かいながら、神に訴えるわけです。この人は信仰に生きていないと。私たちを打ちのめして、神への希望に生きることをやめさせようとする働きの総称としてここで「悪魔」という言葉が使われています。私たちはすぐに、頭に角の生えた、全身真っ黒の、みるからに悪そうな存在をどこかでイメージしてしまうのかもしれません。けれども、私たちの信仰を失わせようとする働きは、時には甘い誘惑であり、時には強い力をもってやって来ます。あるいは、病に姿を変えたり、親切な人の姿をまとって現れるのかも知れません。あるいは、今であればインターネットやスマートフォンが神から私たちを引き離すものとなっているのかもしれません。いつも分かりやすい悪魔の姿をしているわけではないのです。さまざまなものは悪魔のように私たちの前にあらわれて、神様と私たちとを引き離そうとするので、それに対して立ち向かう必要があるのです。

 パウロはここで第二の勧めとして「しっかりと立っているように」ということを語ります。この11節に「立ち向かう」とあります。そして、13節では「堅く立つ」とあります。14節でも「では、しっかりと立ちなさい」と命じています。この「堅く立つ」とか「しっかりと立つ」というのは、自分の立っている場所をしっかりと確保するということです。一度敵から奪い取った土地を失わないようにするということです。私は教会に来て、主イエス・キリストと出会って、信仰に生きる者となった。毎日の生活の場に、聖書が入り、祈りがはいり、教会生活が入ってくるようになった。そういうものを、そのままそこに立ちとどまって、その場所を自分の生活の中でしっかりと確保するということです。

 パウロはここで信仰の兵士の姿をイメージさせながら13節の最後に「神のすべての武具をとりなさい」と命じています。お気づきのように、この最後の部分は命令形の言葉がつづきます。神がそう私たちに命じておられるのです。神のところに立ち続けるようにです。

 そして、ここで神が私たちに与えてくださる武具が一つずつ取り上げられています。

腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

とあります。14節から17節です。
 体を支える腰には真理の帯を締める。それによって筋の通った生き方が支えられます。胸には神の正義の胸当てを身にまとい、足には福音のくつを備えとしてはくのです。その上に信仰という大盾をとり、信仰が敵の攻撃を守ってくれると説明しています。頭には救いのかぶとをかぶり、私たちは確かに神に救われていることを忘れないようします。この5つは身を護るものとして記されていて、攻撃のためには、神のことばのつるぎを聖霊からいただきなさいとあります。実際に主イエスご自身、荒野で四十日四十夜断食した後で悪魔に誘惑された時、主はみ言葉だけでこれに立ち向かいました。これらのものがあなたの信仰の歩みを支え、その場に立ち続けることができるように支えてくれるのだと言っているのです。

 来年、宗教改革者ルターが宗教改革をしてから500年を迎えます。私たちの団体でも、牧師たちのためですけれども、そのためにドイツの研修旅行を来年計画しています。ルターの信仰の戦いのことを少しでも心にとめることのできる一年になればと思っています。この宗教改革者ルターのことを記した伝記がいくつも出ていますけれども、私がもっともすぐれていると思うのは、ベイントンという教会史家の書いた「我ここに立つ」という伝記です。これは、ルターが当時のローマ教会が発行しました贖宥券の発行にさいして、これは過ちであるということを95の文章にまとめまして、これをヴィッテンヴェルグの城教会の門に掲示しました。これが、宗教改革の発端となったのですが、このルターの訴えを取り調べる裁判の席でルターが言ったとされる言葉が、「我ここに立つ」という言葉だったというところから、この本の名前がきています。

 その裁判の席でルターはこう言いました。「陛下ならびに閣下方には率直な答えをお求めになりますから、私はさっそく角も牙もなしに、神妙にお答えします。私は聖書の証明、または明白な論拠によって論証されないかぎり―――教皇と教会議会とは今までしばしば誤りを犯しているので信頼しません―――また、聖書から正当な理由を示されないかぎり、私は何ものをも撤回することはできませんし、撤回しようとも思っておりません。私の良心は聖書に捕えられております。私は聖書にさからうことはできません。神よ。助けたまえ。アーメン」と言ったとされています。そして、この最後にこう付け加えたというのです。「我、ここに立つ」と。

 聖書に立つ以外に私の立つところはない。それが、ルターの信仰の戦いの答えでした。贖宥券という言葉をあまり耳にしたことのない方は、免罪符と言う言葉を御存知かもしれません。聖ペテロ大聖堂の建設資金をえるために、当時の教会は免罪符を発行して、これによって罪が赦されるとしました。しかし、ルターは、それは聖書に記されていないと断固立ち向かったのです。

 私たちの信仰の戦いは、ルターのような歴史に名まえが刻まれるような信仰の戦いをすることは少ないのかもしれません。けれども、私たちの毎日の信仰の戦いにおいても同じことが求められているのです。私たちは自分の信仰のためには神の全能の御力と、神からの防具によって守られますが、私たちが口を開いて戦う時には、聖書の言葉がそれを助けてくれるのです。こうして、私たちは信仰の戦いを戦う備えを得ることができるのです。

 そして、最後の三番目にパウロは祈りを語ります。信仰の戦いを戦い抜くために祈りが不可欠なのだというのです。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

とあります。
 今回、実は一般キャンプのために三回の祈りについてのメッセージの準備をしました。しかし、今年はキャンプの参加者の日程に偏りがあったために、真ん中の一日だけ、デイキャンプを行いました。そこで、夜一度だけメッセージをしました。テーマはやはり祈りです。一度のメッセージで三度分の話をすることはできませんでしたが、ここで「どんなときも御霊によって祈りなさい」とあります。どういうことでしょうか。

 先ほど、ルターのことを紹介しましたけれども、ルターはある本の中で、「祈りは短ければ短いほど良い祈りである」という意味のことを書いています。ところが、別の本の中では「私は一日中祈っている」とも書いているのです。はじめは矛盾するなぁと感じていたのですが、祈りが短ければ短いほど良い祈りであるというのは、良く分かる気がするのです。

 たとえば、有名なアッシジのフランチェスコの祈りとして知られている祈りで、「わが神、わがすべてよ」という短い祈りがあります。これは、フランチェスコの最初の弟子になったベルナルドがフランチェスコの祈りの秘密を知りたくて、アッシジを訪ねた時に聞いたフランチェスコの祈りでした。この短い祈りを朝までただ繰り返していたというのです。考えてみますと、この「わが神、わがすべてよ」という短い祈りは、その言葉の中にすべての祈りの要素が含まれていると言えます。それ以上に言葉は必要ないとさえ思えるほど、凝縮された言葉の中に込められた意味というのがあります。

 一方で、ルターは修道士時代、修道院の何時間も労働するという習慣の中に身を置いていました。そこでは、働くことが祈りであるという理解がありました。働いている間も神のことを思うわけです。それもまた祈りの姿です。
この18節の

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

とパウロがいう時、私たちの生活そのものが祈りに支配されているような生活となるようにということを語っていると思います。

 「そのためには」という言葉がその後でつづくのですが、この言葉は、本来はこの後の三つのことをさしていると考えた方がいいと思いますが、この後で、パウロは三つのことを言っています。「すべての聖徒のために忍耐の限りをつくし、また祈りなさい」とあります。これは、教会のための祈りです。もう一つは「私のためにも祈ってください」とあります。これは、伝道者のために祈るということです。そして、最後は「語るべきことを大胆に語れるように祈って下さい」とあります。これは、求道者のための祈りと言っていいと思います。

 私たちは誰もが信仰の戦いの場に置かれています。ですから、互いのために祈りあい、また伝道者のために祈り、求道者のために祈ることが大切です。お互いに、お互いのことを思いあいながら、その人のために祈る。それが、教会の姿でもあります。

 私たちの主はご自身、私たちに全能の力を与えて強めてくださるお方です。そして、私たち自身もまたその与えられた場において、神の武具に支えられながら、その場でしっかりと立ち尽くして信仰を全うしていきます。そして、そのような信仰の戦いは祈りによって、お互いに祈りあうことによって成し遂げられるのです。そして、そのすべての手本として、主イエス・キリストが私たちには与えられているのです。

 私たちは自分の力や努力で、信仰の歩みを全うすることはできません。けれども、主はそのために最善の備えをしてくださって、私たちがキリストの愛から引き離されることのないように守ってくださるのです。私たちの生活の場、そのところに立ち続けることができるように、私たちの主は支えてくださるのです。ですから、私たちもお互いのことを覚えながら、この信仰の歩みを力強く歩ませていただこうではありませんか。

お祈りをいたします。

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