2016 年 9 月 4 日

・説教 詩篇1篇「幸せな歩み」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:17

 

2016.09.04

鴨下 直樹

 
 今日から詩篇のみ言葉をともに聞きたいと思っています。改めて、自分の書斎の本を手にしながら、詩篇に関する本を一番沢山持っていることに気が付きました。詩篇というのは、じつにさまざまな作者がいます。言ってみれば、讃美歌集であるとか、祈祷集です。ですから、一人の人が全部一気に書いたというのではなくて、長い歩みの中でどこかで覚えられたり、聞いたりしてきたものをこうして一つに誰かがまとめたのです。

 その多くは祈りと賛美です。ですから、これは神が人間に語りかけられた言葉というのではなくて、あるいは、教会のために書き記したのでもなくて、完全な個人の信仰が歌われているということができます。それぞれの生活の中から、悩みの中から、苦しみの中から生まれてきた、祈りと神への深い信仰とを言い表した言葉が、ここにはあります。ですから、人は詩篇の言葉に共感したり、あるいは、その独特の信仰の表現に驚いたりしながら、この詩篇に愛着を感じる人が沢山いるのではないかと思います。

 そして、おそらくこの詩篇1篇は、そのすべてをまとめた人が、冒頭にこの詩篇を書き記しました。この150篇からなる詩篇の冒頭にふさわしい、いってみればそのすべての前書きとして、あるいは序文として、この詩篇を記したのです。

 この詩篇は「幸いなことよ」という言葉からはじまっています。この言葉はヘブル語で「アシュレ」という言葉ですが、幸いの度合いだとかを表している言葉ではなくて、祝福の宣言の言葉なのだそうです。つまり、ここで言っている幸いというのは、神が祝福してくださるという事実の宣言なのです。そして、この神の祝福の宣言は、主の教え、これは、もともとはヘブル語で「トーラー」と言って普段は「律法」と訳されている言葉ですが、この主の律法をいつも口ずさんでいる者に与えられると宣言しています。

 神の律法、神の戒め、それはそのまま聖書と言い換えてもいいと思いますが、聖書の言葉をいつも口にしている人は祝福される。それが、詩篇全体を通して語っていることだと言おうとしているのです。

 先日、ある本を読んでいましたら、クリスチャンの聖書離れということが書かれていました。それは、アメリカのことが書かれていたもので、今から少し前に書かれたものですが、その時にすでに、教会員の95パーセントは聖書に無関心であると書かれていました。読んで私は驚きました。読みながら、私たちはどうなのだろうかと改めて考えさせられるのです。

 私たちの教会は毎日教育部がみ言葉を配信してくれています。多くの方がローズンゲンで毎日聖書を読んでおられます。あるいは、聖書通読会が行われ、毎週の聖書学び会にも比較的大勢の方が集まってきます。けれども、だからといって私は大丈夫とは簡単に言えないものがあるのだと思います。

 聖書に関心がないということは、神に期待をすることを止めているということです。神に期待している。期待したい、だから聖書を読む。そして、読む時、神の言葉を口ずさみ、神の教えに聞き従おうとするとき、そこに神の祝福があるのだと、この詩篇は私たちに思い起こさせようとしているのです。

 聖書を読むと、幸せになる。この詩篇は実に単純にそのことを私たちに語りかけています。けれども、そうすると、そこで、私たちの中に浮かんでくる問いは、「本当にそうなのか」ということです。

 先日、ある方と話をしていた時に、「クリスチャンになったということは本当に幸せになったと言えるんでしょうか」。と問いかけられました。その方もクリスチャンでした。実際に身近にいる方々を見て、疑問に思うことがあるのだと言われました。

 確かに、そういう面があると感じることはあるかもしれません。クリスチャンでない方は、あらゆる場面でうまいことをやって、それでうまくいっているということを見る機会は少なくないのです。

 おそらく、この詩篇が記された時代も同じようなことはあったと思います。聖書に聞き従って来たユダヤ人たちは幸いだと言えただろうか。まわりの諸国の方がよほどうまくいっていたのではなかったか、という面はあったのだろうと思います。けれども、この詩篇の作者はあえて、この詩篇の冒頭で宣言しているのです。神の言葉に聞き従う者の歩みこそは幸いなのだと。

 私はその方と話しながら、「確かにそう見えるのかもしません。神に聞き従うことによって損をすることが沢山あるかもしれませんが、それでも、みんな、やはり神に聞き従うことの方が幸いだと言えるんじゃないでしょうか。一度周りの人に聞いてみてください」と話しました。長い間、聖書を読み、神の言葉に従って生きてきたということのなかに、どれほどの神の支えがあったことか。神の祝福を味わってきたことか。自分の人生はこれでよかったと確信をもっていくことができるか。私は、そういう事ができることが、まさに幸いな人生であったということなのだと思うのです。

 「その人は水路のそばに植わった木のようだ」と3節にあります。とても豊かなイメージを伴う言葉です。聖書の言葉に聞き従う人生を、水路のそばに植わった木と描写することができるのは、まさに、自分の人生が何に根差しているかを良く知っているということです。見せかけだけを取り繕った根なし草のようにではなく、いつも、豊かな水をいただきながら、そこで健やかに成長する木。それが、私たちの姿なのだと、この詩篇の作者は描いて見せているのです。

 しかも、そういう視覚的な表現にとどまりません。この「木」という言葉は、ヘブル語で「エーツ」と言います。そして、その比較対象となっている「もみがら」はヘブル語で「モーツ」という言葉です。

 4節。「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」と、「エーツ」と「モーツ」という言葉を対比しながら、似たような音でもどれだけそのイメージは異なるかということを、音でも表しているのです。

この「悪者」という言葉は詩篇の中でもっとも沢山使われている言葉ですが、「義人」という言葉の対義語として使われています。「悪事を働く者」「暴虐を好む者」「偽りを語る者」というように言い換えられる言葉です。神こそが義であるとする者が幸いな者であるとすると、この「悪者」は自らの義で生きる者ということです。自らを義とするものは、「さばきの中に立つことができない」と5節に書かれています。

 先週まで夏休みを頂いていたのですが、休みの時に、軽井沢高原教会の礼拝に出席しました。この教会はいつも、夏の間外部の講師を招いているのですが、先週の日曜は山北信久先生が説教をしてくださいました。この先生は長い間日本基督教団の総会議長を務められた先生で、何冊も本を書いておられる先生です。『福音のネタ・笑いのネタ』であるとか、『愛の祭典 クリスマスアンソロジー』というような、説教に使えそうな小ネタを集めた本が沢山あります。この時の説教でも、色んな話を聞きました。時に、興味深かったのは、「この聖書の時代の一般の宗教の人間観というのは、人間はもみがらのように、はかない存在というように考えていた」という事をお話しておられました。まさに、この詩篇の5節の言葉です。その説教では、マタイの福音書の9章37節からの「収穫は多いが働き手が少ない」という箇所からで、聖書の人間観は、人を収穫物として見ている、ここが違うところなのだということを話してくださっていました。少し、テーマがそれてしまいましたけれども、神の言葉に聞き従わない、収穫する値打ちのないもみがらであるということがここで語られているのです。

 また、つづく5節にあります「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず」とあります。この「さばき」という言葉も実はとても面白い言葉です。「ミシュパート」という言葉ですが、「公正」とか「法」というようにも訳すことができる言葉です。この神のさばきは、詩篇の中では、弱い者を守り、悪者を罰する神の裁きという書き方をしています。

 神に従う者は弱いのです。損ばかりしている人です。けれども、神はその人に公正なさばきをしてくださる。これもまた、神の祝福の姿です。このように、神の言葉に聞き従う者の道と、悪者の道は、まったくことなる結果に至るということをこの詩篇は教えているわけです。

 いま、バックストンという日本の関西地区で宣教の働きをされた宣教師の事が再評価されています。私の家にも、父の書斎にも何冊かバックストンの説教集や、聖書講解と言われる本がありましたが、私自身ほとんど興味を持っておりませんでした。関西の神学校で教えて下さった、きよめ派の牧師です。長い間、それほど評価されてこなかったのですが、今年、このバックストンの著作集が刊行されることになりました。先日、名古屋のキリスト教書店でこの本をみながら、そういえば、まだ私が神学生の時に買い求めた、バックストンの詩篇の本があったことを思い出しました。

 そこにこんなことが書かれていました。この詩篇1篇には7つクリスチャンの要点が書かれている。一つ目。「主のおきてをよろこび」これは、勉強家であるということ。二つ。「昼も夜もそのおきてを思う」は思索家。三つ目「流れのほとりに」は満足の人、四つ、「植えられた木」は「草のようではない力の人」。五つ、「時が来ると実を結び」は実を結ぶ人。六つ、「その葉は枯れない」はいのち豊かな人。七つ「何をしても栄える」は盛んな人、成功の人。そんなふうにまとめられていました。

 こうやってみると確かに七つのことが記されていて、それは、クリスチャンのイメージというこのイギリス人の宣教師の言葉は、とても具体的で豊かな言葉で説明されています。そして、そこからはきよめ派の人らしい言葉が続くのですが、「みことばに満たされるというのと、聖霊に満たされるというのはほとんど同じ経験のようである」と書いています。神の祝福は、勉強し、試作し、満ち足りて、力強く、結果を出し、成功する、そういうものだとバックストンはここから語りました。いや、バックストンが語ったのではなくて、詩篇はそう書き記しているのです。

 神の言葉に聞き従う人は弱い人である。その弱いものを、神は助けて、聖書を通して、祝福を与える。これこそが、クリスチャンの幸いだとこの詩篇は語っているのです。

 聖書に聞くことをよろこびとし、聖書の言葉を昼も夜も心にとめる。ぜひ、このことをやってみていただきたい。聖書を本当に喜んで味わっていただきたい。そこには、確かな神の祝福があるのです。

お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.173 sec. Powered by WordPress ME