・説教 詩篇24篇「永遠の戸よあがれ」
2016.11.27
鴨下 直樹
今週からアドヴェントに入りました。教会の暦で新しい一年を迎えました。そして4週間のちにクリスマスを迎えます。このアドヴェントに神が私たちに主イエスを与えてくださり、私たちのことを顧みてくださっていることを共に覚える時としたいと思います。そしてまた、主は再びこの世においでくださると約束されていますから、このアドヴェントに、もう一度おいでくださり私たちの救いを成し遂げてくださるという希望を心に留めたいと思います。
アドヴェントに入りますと、毎年、先ほども歌いました讃美歌21の「高く戸をあげよ」という讃美歌を共に歌います。これは、ドイツの讃美歌でも第1番にのっているほど、ドイツのキリスト者たちにとって深く心に刻まれている讃美歌です。この賛美は今朝私たちに与えられている詩篇24篇の後半のみ言葉がそのまま歌詞になっています。このアドヴェントの季節になるとよく歌われる賛美です。しかし、主イエスが来られることを待ち望むこのアドヴェントに、この詩篇第24篇を歌うというのはなぜなのでしょうか。
この詩篇第24篇はダビデの賛歌という表題が掲げられています。しかし、この詩篇の内容はどうも神殿の礼拝の時に歌われた歌だと考えられます。エルサレムに神殿が作られたのはダビデの息子、ソロモンによって建設されましたから、ダビデのあとの時代です。けれども、この詩篇をダビデの賛歌と言った時に、それはどういう意味なのかという事を考えさせられます。
ダビデの時代にはまだ礼拝、つまり祭儀は幕屋でおこなわれていたはずです。幕屋というのは、イスラエルの民がエジプトで奴隷だったときに、エジプトから出て、このカナンの国を目指して40年にもおよぶ荒野の旅の時に、神が民への約束として十の戒めを与えられ、この十戒を収めた箱を契約の箱と言いますけれども、この契約の箱を今でいうおみこしのようにしまして、イスラエルの民は常にこの契約の箱を担いで移動して、どこでも祭儀をおこなうことができる移動式の礼拝のための場を設けていました。その中心となったのが、契約の箱です。そして、この契約の箱の置かれた幕屋の一番中心部分を至聖所と呼んで、この契約の箱のあるところに、神が臨在されると、神はイスラエルの民に約束されたのでした。
そして、ダビデの時に、契約の箱がそれまで別の場所におかれていたのですが、エルサレムに運び込ませます。それが第一歴代誌の第15章に記されています。まだ当時エルサレムには神殿はありませんでしたけれども、このことがこの詩篇の背景にあると言っていいと思います。
少し、説明が長くなりましたけれども、この詩篇24篇は内容としてはこの契約の箱がエルサレムの神殿に運び込まれる様子を歌った歌だと考えられています。少しこの詩篇に何が書かれているのか見てみたいと思います。
この詩篇は、その冒頭でまずこのように言い表しています。1節です。
地と、それに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
エルサレムの中心につくられた神殿に契約の箱を運び込む。その様子を歌にしているのですが、この詩篇の興味深いのは、人間が築き上げた神殿の中に神を収めるというのではなくて、この世界そのものが、なによりもまず神、主のものであるということを、冒頭で宣言しているのです。この世界はまさに神がお造りになられたものであって、人間が築き上げた建物の中に神を置いて、それで安心できるということではない。この世界はそもそも、神がお造りになられたものだと、神ご自身はこの世界よりもずっと大きな、偉大なお方だという事をまず高らかに宣言しているのです。
そして、まさに、この「世界とその中に住むものは主のものである」という事が、本当に分かっていたら、私たちはこの神の事実を受けとめることによって、確かな平安を持つことができるのです。
つい二日前のことです。教会の前にあります、スーパーが新装開店をいたしました。実は、びっくりしたのですが、朝から夜までひっきりなしに車が入って行きます。このスーパーにこれだけの人が来るのかと、とても不思議な気持ちになりました。あまりにも車が入っていくので、何か特別なものが貰えるのではないかと気になりまして、妻はさっそく様子を見に出かけて行きました。こんなに人が来るんだから何かあるとしか思えないわけです。結果としては特に何かもらえるわけではなかったようです。
この聖書の時代、エルサレムの神殿に礼拝のためにどれほどたくさんの人が訪ねただろうかと、ちょっと不謹慎かもしれませんが、比較したいような気持になりました。いったいエルサレムの神殿に礼拝に来る人は、このスーパーのようにあとからあとからやって来たのだろうか。礼拝の中心ですから、もちろんそうだったということは言えると思います。
3節にこうあります。
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
一体どういう人が神殿の礼拝に訪れたのだろうか。この問いかけに、この詩篇はこう答えます。4節。
手がきよく、心がきよらかな者
と答えが返ってきます。
何かが貰えると思って行くということでは、少なくともありません。興味本位でもありません。「手がきよく、心がきよらかな者」とあります。もう少し見てみると、続いて「そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」とあります。
ここに「むなしい」という言葉があります。ヘブル語で「シャーウ」という言葉ですが、この言葉は、文脈によって色々な翻訳がなされます。「偽証」となっている場合もあれば「偶像」と訳される場合もあります。あるいは「むなしい幻」と訳されている箇所もあります。この言葉は「実態がないこと」を示す言葉です。中身のない事柄、まどわしに心を向けるのは、偶像だけでなくて、ありとあらゆるものがそれに含まれます。
「手がきよい」とか「心がきよらか」というのも、直接的には真の神に礼拝しないことを意味しています。神に心が向かわないで、むなしいものに心が向いていくのです。この時代、神殿に赴くということは、そのまま犠牲をささげるということでした。犠牲は何のためにささげるかというと、神への感謝という意味もありますが、大きな意味は罪の悔い改めです。神に心が向く者は、礼拝に集い、自分を顧みて、神の御前で罪の悔い改めをするのです。けれども、神殿に行かない。神に悔い改める必要などないとうそぶきながら、他のことに夢中になってしまうのです。それこそ多くの場合、生活の糧を得る事、自分の生活のために心を注いで、スーパーには行列をしてでもいくけれども、礼拝は・・・というようなことであるわけです。
けれども、この箇所が私たちに問いかけているのは、神に向かわないで、自分の生活のことをいくら考えた所で、その生活に実態がともなうのかという事が問われているのです。
私たちの生きがいは、私たちを生かしてくださる神にあり、まさにこの1節で語られている「世界とその中に住むものは主のものである」ということを覚える時に与えられるのです。この世界を治めておられる主が私の生活をも支えて下さる。このことが明確になってはじめて私たちは生きがいを見出すことができるのです。暗やみの生活から抜け出すことができるようになるのです。
ここでは、そのように神に心を向けて自分は神のものであることを認めて、悔い改めるために礼拝を捧げる者は、神からの祝福を受けると記されています。この詩篇には直接悔い改めという言葉は書かれていません。けれども、私たちが神の前に出るということは、神に自分をゆだねるということですから、むなしいものに心をすぐに向けてしまう私たちの心を正しい方向に向けることが、ここで語られていることだということができます。
さて、こうして、この詩篇はエルサレムの神殿に王が帰還してくるかのような言葉を繰り返します。
門よ。お前たちのかしらをあげよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいってこられる。
という声が神殿の門の外側から響いてきます。これはまるで王の帰還のような響きの言葉です。ダビデの賛歌とありますから、まるで、ダビデが神殿で礼拝をささげるために入って来られたという姿を一瞬イメージします。けれども、最初にいいましたように、ダビデはエルサレムの神殿が完成した時にはおりません。けれども、イメージとしてはダビデ王が入場するかのような響きなのです。エルサレムの神殿には三つの門がありました。その扉を開けて、契約の箱を運び入れる。それは、まさにダビデがエルサレムに契約の箱を運び入れた時の喜びを思い起こさせたのかもしれません。栄光の王と言った時に人々がまず考えたのはダビデであったと思うのです。
すると、神殿の扉の内側から声がします「栄光の王とは誰か」と。すると、外で入場しようとしている王の僕が答えるかのように、こう答えます。「強く、力ある主。戦いに力ある主」8節です。今から入ってくるのは王ではなくて、「主なる神」。この主というのは、「ヤハウェ」という神自らの名前が記されています。ダビデが入ってくるのではない「ヤハウェ」ご自身が入って来られるのだと宣言するのです。ここから、これはダビデのような力強い人物が神殿に来られたということではなくて、「契約の箱」が神殿に運び込まれた時のことを指しているのだろうという理解が成り立つわけです。このやりとりがここで二度繰り返されています。ヤハウェご自身、主なる神自らが神殿にお入りになられるのだと、ここで高らかに宣言しているのです。
この当時のエルサレムの神殿での礼拝の出来事が、どうしてアドヴェントに教会で読み続けられることになったのでしょうか。それは、ダビデの子孫として、主イエスがクリスマスの時にまさに、神殿に契約の箱が運び込まれた時のように、この世界に主イエス自らがご降誕くださったというこの出来事と重なるからです。
そして、ここでは二度繰り返した後で、「その栄光の王とはだれか」との問いかけに、最後は「万軍の主。これぞ栄光の王」との答えが記されています。ここに「万軍の主」という言葉があります。旧約聖書の中に何度も何度も記されている神自らを示す言葉として語られている言葉です。ところが、この「万軍の主」という言葉の意味は明確ではないのです。この言葉はヘブル語で「ヤハウェ・ツェバオート」という言葉です。この「ツェバオート」、「万軍」と訳されている言葉は「ウァバー」という言葉の複数形です。「ウァバー」という言葉は「軍勢」という意味の言葉です。
たくさんの軍勢というのは、イスラエルの軍勢とか、天の大軍勢のことだとか、あるいは、天の万象すべてを指す言葉ではないかとかいろいろ考えられますが、はっきり言えることは、「絶大なる権能を持っておられるお方」ということです。まさに、1節、2節で語られているように、この天地万物すべてをお造りになられ、イスラエルの軍勢も、天の軍勢も、この世界の天地万物すべてを支配しておられるお方こそが、私たちが「主」とお呼びしているお方です。
そして、このようは万軍の主がエルサレムの神殿の一番奥の小さな部屋に収まりきれるようなお方なのかということを、ここで考えさせられるのです。そして、それは、同時に、クリスマスに馬小屋でお生まれになられた、あのマリヤのお腹に生まれたイエスという名前の赤ちゃんこそが、この万軍の主なるお方そのものなのだということを、私たちは知らなければならないのです。
そして、この万軍の主は、マリヤのお腹の中だけではありません。信じるすべての者のうちに住まわれるのです。しかし、わたしたち自身を万軍の神の住まわれる宮として、このお方を受け入れることが、はたしてできるのでしょうか。
「永遠の戸よ、あがれ」。私たちのこころがむなしいものに向けられて、永遠に閉じられていたはずの私たちのこころが、この主にむかって開かれる。あなたが、主イエスを信じて、今日、この神の宮で礼拝をささげているということは、私たちの前に立ちはだかっていた、永遠に閉じられていたはずの扉が開かれて、私たちの心のうちに主イエスをお迎えするということなのです。それが、万軍の主を、私たちのうちにお迎えすることなのです。
そのために、心を聖くすることがここで求められているのです。それが、悔い改めるということです。このお方に心を向けて、新しい思いで、このお方をお迎えするのにふさわしくされるように、心を主に向けるのです。
先日、23日の祝日の時に、我が家では大掃除をいたしました。教会でも先週の日曜日に大掃除をいたしました。なんのためか、それは気持ちよく主イエスをお迎えするクリスマスの準備をするためです。いらないものを処分し、整理されていないものを整えて、部屋を綺麗に片づけます。あっ、牧師室のことだけは少し忘れていただきたいのですが・・・
しかし本当は例外など作ってはいけないのです。すべてを整えて、気持ちよく主イエスをお迎えする用意をするのです。掃除をするということは、大変なことですが、やり終えてしまいますと、実にすがすがしい気持ちになります。やっぱりやってよかったと思えるようになります。
虚しいものをため込んでそこに心を向けることをやめて、主の前に出るのです。万軍の神、主が私たちのかたくなな扉を開いて来て下さるのです。永遠に閉じられていた私たちの心の扉を開いてくださって、永遠の喜びの中に私たちをおらせるためです。確かな平安につつまれるためです。ですから、永遠の扉を開いて、この主を心から迎え入れ、この天地すべてを治めておられる万軍の主が来てくださるという平安と喜びを、心から招きいれようではありませんか。そして、このアドヴェントの喜びをともにみなで分かち合いたいのです。
お祈りをいたします。