・説教 詩篇138篇「心を尽くして感謝する」
2017.02.05
鴨下 直樹
この詩篇は「ダビデによる」というタイトルがついています。この旧約聖書のもっとも古い翻訳で紀元前にすでに作られていた70人訳聖書とよばれるギリシャ語の翻訳の聖書があります。そこには、このタイトルは「ダビデ、ゼカリヤとハガイ」となっています。つまり、ダビデの詩篇がバビロンからの捕囚が終わって帰還してきたときに読まれた詩篇ということになるわけです。
そうしますと、この詩篇の意味が少し整理することができます。1節にこうあります。
私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。
ここに「天使たち」という言葉がでてきます。新改訳聖書は下に注が出ていまして「あるいは『神々』」となっています。かつてのバビロンには都の大通りに「ベル」と「ネボ」という神々の像が置かれていて、やがてそれが荷台に載せられて取り除かれたという記録がイザヤ書46章に書かれています。けれども、今はこのバビロンの都からエルサレムに帰って来て、神殿で礼拝をささげるようになりました。その様子がここで歌われているのです。そして、そのテーマは「感謝」です。まさに、今おかれている自分の状況を思い起こしながら神に感謝をささげているのです。
この詩篇を正しく理解するために、大切なのはこの2節の部分です。
私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。
とあります。
今、この詩人は神の御前で礼拝をささげているのです。この時代の礼拝というのは、神殿でささげものを捧げるという礼拝でした。その大切な部分は神への感謝です。神が、生活の中で守り、支え、導いてくださることに感謝をささげるのです。まさに、礼拝をささげるために神の御前にでるのです。
私たちも礼拝を捧げにやってまいります。しかし、ひょっとすると私たちの礼拝は、神に感謝をささげ、自分を捧げるということよりも、み言葉を聞いて、神に恵みをいただくためにやってくるということに強調点があるのかもしれません。もちろん、礼拝というのはそのどちらの要素もあるのです。
この四月から、私は名古屋の東海聖書神学塾で15年ぶりに礼拝学を教えることになりました。礼拝とは何をすることなのかということを学ぶのです。そのために講義のノートを整理しながら改めて気づかされることがいくつかあります。
特に、旧約聖書で礼拝を表す言葉は3つあります。ひとつは「シャーハー」という言葉で「拝む」とか「地にひれ伏す」という意味の言葉です。もう一つは「アバード」で、これは「仕える」とか「奉仕する」という言葉です。もうひとつは「カーハール」という言葉で「集まる」とか「出会う」という意味の言葉です。どの言葉もそうですが、神に対してどういう態度をとるのかということが言われていることが分かります。礼拝というのは、徹底的に自分本位ではなくて、神を神とする行為をいうわけです。
この2節の「ひれ伏し」という言葉は「シャーハー」という言葉です。神を恐れ、自分を捧げるために、地にひれ伏すわけです。そうすることによって、神は神であられるということを明らかにしたのです。そこでは、この世にある、ありとあらゆる神々のようではなく、主こそがまことの神であられることを、礼拝の態度で明らかにしたのです。
興味深いのは、そのように礼拝をささげるとどうなるのかということが3節に書かれています。
私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。
ここで、詩人は礼拝を捧げると、自分の存在が確かにされるような力が与えられたと言っています。これが、礼拝を通して起こる神の御業です。
私たちには毎日、本当に予想もしない出来事が次々と起こります。この一月の間だけでも、十分すぎるほどの出来事が起こりました。愛する家族を亡くされた方があります。大きな病に苦しんでおられる方があります。交通事故を起こしてしまった方、仕事がうまくいかない人。家族の中で大きな問題を抱えている人が何人もいます。そういう私たちの身に迫って来るさまざまな出来事で私たちの心は貧血状態になってしまいます。そして、さらに大きな問題は、私たちの心が、この詩篇の言葉でいえばたましいが力を失っていっていることに気づかないままに、毎日をすごしているのです。この魂の貧血状態は、私たちから冷静な判断力を奪い取って行きます。そして、ゆっくりして何とか気分転換をしようとしても、それがうまくいかないということを味わうのです。
スイスの説教者バルター・リュティーの書いた「あなたの日曜日」というエッセーがあります。その中に、ある自営業の夫婦の話が書かれています。スイスでも、ドイツでも、ヨーロッパの多くの国々は一年にまとめて何週間という長期の休暇をとる習慣があります。長い人で6週間の休みをまとめてとります。私たち日本人からすると、それだけでも、うらやましい話なのですが、どうもそんなにうらやましい話でもないようです。この自営業の家族は長い休みをとって家族で休暇にでかけました。夫婦も子供もいっしょに過ごします。ところが、まだ10日もたたないうちに、夫が暴れはじめるのです。喧嘩をしないで、楽しい時間を過ごしたいと思うのに、いつもと違う環境に耐えられない夫が我慢できなくなって当たり散らしてしまうのです。そして、「もう家に帰りましょう」ということになって、結局気分転換もできず、苛立ちだけがふえてしまって、また一年間を過ごすということになるのだそうです。リュティはその中でこう書いています。「自分自身に立ち戻るということは、へりくだらされる機会なのだ」と。
心が貧血状態になって苦しくて、何とかしなくてはいけないということは分かっているのに、どうしたら、自分の心があるべきところに立ち戻ることができるのかを知らない人は、少なくありません。私たちはどのようにたましいの貧血状態から解放されるのかというと、この詩篇にあるように、それは神の御前に礼拝をささげるときなのです。
神がみ言葉を語られると、それはそのとおりになります。神のみ言葉はただの言葉として私たちのうえを通り過ぎていくのではありません。神の言葉は出来事となって、私たちの身に何かが起こるのです。それが「恵みとまこと」という言葉の意味でもあります。
この恵み、ヘセドという言葉は神との契約に基づいている言葉です。神は、ご自身の民と約束を交わされました。それは何よりも神ご自身が守られるのです。人が神に対して約束を反故にしてしまったからと言って、神はその約束を守らないお方ではありません。神は、いつも私たちに目をとめ、変わらない愛を示してくださいます。そして、そこに神の真実がしめされるのです。この「めぐみとまこと」は神の祝福の根源であり、私たちの心の貧血状態から、私たちを力に満ちた状態にする神のあふれる愛のみなもとなのです。
4節以下は、神に力づけられたらどうなったのかという結果が記されています。ここに記されているのは確信をもって生きる詩人の姿です。とくに6節に興味深いことが記されています。
まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。
とあります。宗教改革者ルターはこう言っています。「神は見上げられることがありません。神の上にはなにもないからです。神は横を見回すことができません。ご自分にならぶものはないからです。ですから、神はご自分の下をみおろされるだけです。それゆえ、あなたのいる場所が、低く、いやしくなればなるほど、あなたをごらんになる神のまなざしは、いよいよ輝きます。」
このルターの言葉は想像力に満ちたことばです。神の上には誰もいない。神の周りも誰もいない。神はただ見下ろされるだけ。それゆえに、人は低ければ低いほど、神の目には輝いて見えるというのです。私たちのたましいが貧血状態に陥っている時、もう私たちがやつれ果て、身動きがとれなくなってしまったともがけばもがくほど、神の目にはその人が輝いて見える。神はその性質上、そのような者に慈しみの眼差しをほどこされるのです。これが、私たちの主なのです。
7節にはこうあります。
私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。
として続いてこうも記されています。
私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。
このお方が、このお方こそが、私たちの主なのです。
神を正しく知ること、そのことは礼拝によって可能になります。神は苦しみの中でも私を生かしてくださる。私にどれほど敵がいたとしても、どれほど私が弱っていても、神が私を守ってくださる。このような言葉は、礼拝で神と出会い、神を知ることによって、神がどのようなお方であるか、神は私たちをどのように扱ってくださるかを知るのです。そして、神を正しく知るとき、私たちは力を得ます。私たちの貧血状態の魂は、私たちの弱く痛めつけられた心は、本来あるべき場所を見出し、励ましを受け、支えられるのです。
こうして、聴き取った神のみ言葉は、かならず私たちの身に起こる、必ず実現すると、信じることができるようにされるのです。
礼拝は神を見出すところです。礼拝は神から力をいただくところです。そして、礼拝は、私たちに希望と慰めを与えます。それは、神が私たちを力づけ、希望を与え、慰めを与えたいと願っていてくださることを知るからです。そのように、神の御前に出るとき、私たちは心から自分の存在そのものを神の御手にゆだねることができるようにされるのです。
お祈りをいたします。