・説教 詩篇51篇「きよき心を造りたまえ」
2017.04.02
鴨下 直樹
この詩篇はダビデが大きな罪を犯した後の、悔い改めの詩篇です。しかも、ここで問題とされているのは、人の妻を奪い、その夫を殺害し、それを自分の立場を利用して隠すという極めて重い罪です。しかし、このようなダビデの犯した罪は、その犯した過ちの大きさに目が留まってしまいますが、気づかなくてはならないのは、その罪の本質がどこにあるかということです。私たちは「罪」イコール「悪いことをすること」と考えてしまいがちです。この詩篇は自らの罪に対して、ダビデがどのようにそれを乗り越えようとしたのかが記されています。
今日は、この詩篇に先立って、第二サムエル記12章を読みました。11章で、ダビデがバテ・シェバと関係を持ってしまってから、どうやってその罪を隠そうとしたのかということが記されています。そして、この12章では、そのダビデに預言者ナタンがたとえ話をしながら、ダビデの罪を指摘するということが記されていました。
「あなたは罪を犯している」と、その人に面と向かって言うのはとてもエネルギーのいることです。だから、私たちが誰かの罪を目の当りにするときに、それを指摘するのも勇気のいることだし、誰かがきっと忠告するだろうと考えて、見なかったことにするということを選び取ってしまうことも、多くの場合、選択肢の一つに入ってしまいます。しかし、預言者ナタンはそうではありませんでした。ナタンは、神の前に罪が忘れられることはないのだと、ダビデの罪を本人に直接指摘するのです。
ダビデからすれば、自分で反省して、預言者ナタンに助言を求めたということではなくて、うまく隠し通せたと思っているところで、神の前にその罪が明らかにされたのです。ナタンに指摘された時に、バレたという思いになったのではないかと想像します。心臓が急にドキドキしてきて、普通であればどうやって言い訳をしようかと考えるところです。ダビデがここで犯した過ちを考えてみると、ダビデは、バテ・シェバを自分の妻とするために、十戒の罪をことごとく犯しています。
第十の戒め。「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」。第八戒「盗んではならない」。第六戒、「姦淫してはならない」第五戒「殺してはならない」。
神の御前に隠されている罪などありません。人は神を侮ることはできません。神はすべてのことを御存じです。たとえそれが、人の目には見えなくても、神はすべてを知っておられます。
ダビデはナタンから「あなたがその人だ」と罪の宣告をされた時に、ダビデは主の前にこう言います。第二サムエル記12章の13節につぎのように記されています。
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
すると、すぐに続いてこう記されています。
ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」
私は、この箇所を読む時にいつもダビデの決断の速さに驚きます。ダビデはここで言い訳の言葉を考えてなんとかごまかそうとはしませんでした。このことは、驚きです。けれども、それ以上に驚くのは、神の赦しの速さです。
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」
神は、怒るに遅く、赦すに早いお方です。神は、それほどまでに、人が悔い改めて神の御心に生きるようになることを願っておられるのです。
このサムエル記ではダビデの悔い改めの言葉は短く、端的です。そこに書かれているのは「私は主に対して罪を犯した」と記されているだけです。しかし、この詩篇51篇には、ダビデの悔い改めがどのようなものであったのかが、もう少し丁寧に記されています。
神よ。み恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
と1節にあります。
もともとのヘブル語の冒頭の言葉は、「私を憐れんでください」という言葉がまず記されています。そして、つづいて「神よ、あなたの慈しみによって」と続くのです。新改訳では「恵み」と訳している言葉です。ダビデは、主の憐れみを求めました。この主の憐れみということをよく知っていました。自分の罪が、神への不義が、そして、人に向けられた数々の過ちの行為を見る時に、神の憐れみの心により頼むしかないということを知っていたのです。
ダビデは自らの罪を自覚します。「私の罪は、いつも私の目の前にあります」と3節にあります。文語訳聖書では「わが罪はつねにわが前にあり」と訳されていました。夏目漱石が「三四郎」で引用して知られるようになった言葉です。文語訳には心に訴える響きがあります。
自分の犯した罪は自分についてまわり、それは決して消えることはない。それが、罪を自覚するということなのです。このどうすることもできない、罪の事実を目の当たりにして、人は逃げることはできません。けれども、それをどうにかすることも、また自分の力ではできないのです。それゆえに、神の憐れみにより頼む以外にないのです。
ダビデの悔い改めの言葉は続きます。4節。
私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。
この言葉を、自分は神の前には悪かったけれども、人に対しては悪いと感じていないと読む人があるようですが、もちろん、そういう意味ではありません。ダビデは、ただひたすらに神の御前に、自らの罪を認め、神の御前で悔い改めをしています。
少し前のことですが、祈祷会でこのダビデがバテ・シェバに対して行った罪はバテ・シェバにも少しは非があるのではないかという話しになったことがあります。人の目にふれるところで水浴をするのは、良くないのでないかとか、あるいは、ダビデの前に出てもバテ・シェバ自身拒むこともできたはずだというようなことも考えられるわけです。
私たちが日常、誰かと議論をするとき、どちらが悪いか、どちらの責任なのかということを問題にするときに、喧嘩両成敗というような原則がどこかで働くところがあります。罪に対してもそうです。どちらかが一方的に悪くて、片方は完全にシロであるというようなことはなかなか言えません。どちらにも言い分があり、それぞれの立場からすれば、その言い分は成り立つわけです。
しかし、そのような考え方は、人間同士の喧嘩や、トラブルには当てはめられるかもしれませんが、神の御前に通用するのかどうかは考えてみなければなりません。かつて、神がアダムとエバに善悪を知る知識の木の実を取って食べてはならないと言われた時、神は、神の御心に従おうとするという人間の応答をお求めになりました。しかし、アダムがこの木の実を取って食べ、そのことを神に指摘された時、アダムは神にこう言いました。
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
創世記3章12節です。あなたがそもそもこの女を私の近くによこさなければ私は大丈夫だったはずですと言わんばかりでした。この時から人は、自分が神との約束を破っても、その責任は自分以外にもあるとして、その罪を軽くしようとしてきました。しかし、それは、神の前では通用しません。
ダビデはここでこう言いました。詩篇51篇5節。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
ここで、ダビデはバテ・シェバにも非があるのだとは言いませんでした。そうではなくて、この罪は私が生まれた時からわたし自身に備わっている。神に逆らって生きようとする私の罪がみなもとなのだということを、こう言い表したのです。ここに、ダビデが罪の本質を理解して、神の御前に告白した姿を見ることができるわけです。
ダビデはここで自分が生まれた時から罪ある者として生まれたと告白します。自分が犯した過ちは、つい出来心でとか、魔が差してというような一時的な判断の誤りや、やってしまった事柄が問題というのではなくて、自分の存在の根源的な問題だということを、「私は生まれた時から罪ある者として生まれて来た」と言い表すことによって告白したのです。
この自分は生まれながらに、自分にはどうすることもできない罪の力が自分の中に働いている、というダビデの理解は、画期的なものだったと言っていいと思います。それを「原罪」といいます。自分の中心部分に、自分ではどうすることもできない罪の力が働いていて、これを何とかしないかぎり、自分は神の前に正しく生きることなどできないということを、ダビデはここで認めました。
それが、この詩篇の中心部分の告白の言葉となって言い表されています。10節です。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
自分の中に自分にはどうすることもできない思いが働いている。自分で努力をした。なんとか、罪を犯さないようにと思う。けれども、負けてしまう。いつも気が付くと、自分はしたくないと思っていても、それをしてしまう。それは、性的な罪の問題に留まりません。人を憎む思いもそうです。愛することにおいてもそうでしょう。自分の内面がきよくないのです。きよい心ではいられないのです。
この自分の内面にある、きよくない心はいつも自分の内側にあって私たち自身を苦しめるのです。人を愛したいと思ってもできない。赦したいと思ってもできない。かえって、その人を憎んでしまう。あるいは、自分が傷ついたことばかりを考えてしまって、そこから前には進めなくなってしまう。ここで描き出されているダビデを襲った性的な罪の誘惑というのは、それを非常に分かりやすい形で私たちに気づかせてくれるきっかけになっています。
この自分の内面の汚れ、心の汚れは、その心がきよい、新しい心に取り替えられなければ何ともなりません。ダビデはここで、自分の内面を見つめて、そのことに気づきます。そして、私のこの心が、ゆらぐことのない新しい霊に取り替えられなければ解決にはならないので助けてください、主よ、と祈り求めたのです。
私たちは、人のした悪いことにはすぐ目がいきますが、自分のしていることにはなかなか気づきません。それくらい、私たちは罪に鈍くなってしまいます。自分のことは、それなりに理由があって、そうせざるを得ないのだという正義感を抱くことによって、自分を正当化するすべを私たちは知っています。けれども、人のしたことは、その人のした事実だけに目がとまって、その人の動機などは分かりません
けれども、神の前には、人のしたことも、自分の行ったことも全く同じように映っています。そして、神の御前に、私たちは自分の非を認める以外にないのです。
その時、ダビデのように「私は主の御前に罪を犯した」と認めることができるか、それとも、神の前で、アダムのように言い訳をするのか。その結果はまったく違ったものとなるのです。
ダビデは言います。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。(第三版では「砕かれた霊」となっています。)砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
17節です。この言葉には当時の礼拝のことが背景になっています。当時は、罪を犯した者は、神の御前に罪を赦していただくために、動物を犠牲としてささげて、神との関係の回復を求めました。その都度、エルサレムの神殿を訪れて、犠牲をささげていたのです。そのために傷のない動物をささげなければなりませんでした。当時はそのために傷のない小羊を捧げていましたが、小羊を傷つけずに何キロも旅をするというのは大変でした。
それで、神殿側も何とか簡略化できないかと考えて、次第に動物を自分で持ってこなくてもいいように、神殿側で用意して、それを買えばいいということになっていったのです。けれども、そうすると、自分の罪の身代わりに、自分で用意した小羊を捧げるという意味合いが、気が付くとお金を払えば罪が赦されるというシステムに変わってしまっていました。そうなると本質が見失われてしまいます。
ダビデはここで礼拝の本質は、自分の飼っている最愛の動物を自分で連れて来て、自分でほふるということの中に、罪を悔い改めるということの意味が込められていたことを思い起こしつつ、こう語ったのです。神が本当に求めておられるのは動物のいのちではなくて、人が心から神の御前で自分の罪を赦してほしいと願うことであったはずだと。
今日は第一主日で、このあと聖餐をとり行います。パンとぶどう酒はこの犠牲の礼拝の時にささげられた小羊のように、主イエスが犠牲となってその体を裂かれ、血を流して私たちの罪を赦してくださったことを思い出すように導かれています。
私たちは、自らの心の中にある汚れた心を清めていただくために、神の御前で罪の告白をし、罪を赦していただくことをこうして覚え続けるのです。神は、その心をさげすまれず、私たちの罪を、主イエスの血潮によって赦してくださるのです。そして、私たちは、新しい霊を与えられて生きることができるように、してくださるのです。
今、神の御前で本当に砕かれた思いで祈るならば、その祈りは、動物をささげた犠牲の礼拝にまさるのです。神はその祈りを喜ばれます。そして、主がダビデに語りかけらたように「私もあなたの罪を見過ごす」とすぐに語りかけてくださるのです。
お祈りをいたします。