2017 年 7 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章14-15節「時が満ちた!」

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2017.07.23

鴨下 直樹

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 私たちが聖書を読む時に、いくつもの驚きを発見します。私自身、今水曜日と木曜日の祈祷会で、このマルコの福音書を先立って一緒に読み進めています。そこでは礼拝ではほとんど語れない細かな所まで丁寧に学びながら、みなさんと一緒に考える時を持っています。そこでとても嬉しく思うのは、参加しておられるみなさんが本当によく聖書を理解する力を持っているということです。ところが、そうやってとても丁寧に聖書を学びながらも、このための説教の原稿を整える時には、さらにその時の何倍もの驚きを発見するのです。ですから、祈祷会で学んだとおりに説教するということには不思議とならないわけです。それほどに、聖書の言葉には深みがあるのです。

 ここで、「ヨハネが捕えられて後」と書かれています。何故ヨハネが捕えられることになったのか。その経緯についてはマルコの福音書の6章まで待たなければなりません。けれども、ヨハネはこの時代、非常に大きな影響力をもっていました。6章を読みますと、ヘロデ王自身、「ヨハネを恐れて保護を加えていた」と書かれているほどです。ただ、荒野で騒ぎ立てている薄汚れた預言者というようなことではなかったのです。

 そのヨハネが捕えられる。たいていの場合、そこで何を考えるのでしょうか。ヘロデに一目お置かれていたヨハネでさえ捕えられてしまうのであるなら、逃げた方がいいのではないかと考えるのが普通です。ですから、つづいて記されています「イエスはガリラヤに行き」という言葉をそのように理解した人たちが少なくなかったのです。主イエスはヨハネが捕えられて、自分も危ないと思って、ガリラヤ、つまり自分の故郷に帰った。そうして、故郷で人知れず、こっそり伝道を始められた・・・。マルコの福音書の書き方はそのように読まれても仕方がないような書き方です。あまりにも、説明不足なのです。けれども、そのように読んでしまうと、どうしてもつづく主イエスの言葉の響きが暗くなってしまいますから、そうは読めないわけです。

 ここに「捕えられる」と書かれています。新改訳聖書には注がついています。そこには直訳「引き渡された」と書かれています。つまり、主イエスが十字架に引き渡されたと同じ言葉が使われているのです。マルコがここで記しているのは、主イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが捕えられた。まさに、ヨハネによる備えの時は終わり、ついに主イエスによる宣教が開始されるという、待ちに待ち続けてきた救い主の御業がまさにここから始められようとしているという期待を記しているのです。そして、まさに、主イエスもまた、ヨハネの後継者として捕えられる道、十字架へと「引き渡される」苦難の僕の道を歩んで行かれるのだと、ここで描きだそうとしているのです。

 マルコの福音書はここまで、「待望」とか「期待」というキーワードを込めて記していました。そして、その期待に応えるお方として、主イエス・キリストが登場し、洗礼をうけ、荒野の誘惑を乗り越えて、今、人々の前に現れたのです。

 今週から夏休みを迎えました。子供にとっては指折り数える待ち遠しい時です。子供を抱える親にとっては、恐怖の六週間のカウントダウンという気持ちなのかもしれません。けれども、楽しみにしている時間を過ごす子どもの姿というのは、親にしてみても、その大変さを差し引いても余りある豊かな経験となるとも言えます。まして、ここでは、主イエスが来られることが記されているのです。

 その主イエスは、最初にガリラヤに行かれたのでした。12節のように「追いやられた」わけではありませんから、自ら、ガリラヤを選ばれたということでしょう。ここでも興味深いのは、最初から人々の集まるエルサレムの都には向かわないで、田舎の、しかもご自分の郷里でもあるガリラヤに行かれたというのは、どういうことなのでしょう。

 田舎から始める。それはあまり賢い選択とはいえないかもしれません。私たちこの同盟福音キリスト教会の歴史を考えても同じように言えるかもしれません。ドイツから宣教師としてこられたストルツ先生がこの芥見で伝道を始めたのもそうですし、今から60年以上もまえに、羽島の竹鼻から伝道を開始したウェレナー先生もそうです。同盟福音ははじめ、羽島、尾西、笠松、木曽川というところで伝道を始めました。御存知の通り、どこも小さな町です。どこの教団も見向きもしないような田舎の片隅で伝道を開始しました。そして、私たち同盟福音はいまでも、教会のない所で伝道をする、「未伝地に福音を」というスピリットをもって宣教をしています。最初から大きな町で大勢の人の集まる教会を作ろうとは考えてこなかったのです。その姿勢は、この主イエスがガリラヤで宣教を始められたということと一つに結びつくと私は思っています。そこで、主イエスは神の福音を宣べ伝えられたのです。

 この時の主イエスの語られた言葉がこう記されています。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」

 これが、主イエスの宣教のはじめの言葉です。ある聖書学者は、この15節の言葉を説明したのが新約聖書だと言いました。新約聖書のメッセージを要約すると、この15節の言葉にまとめられると言うのです。それほどに、この短い言葉の中に、主イエス宣教の内容が含まれています。

 ですから、少し丁寧にこの言葉を見てみたいと思います。はじめに「時が満ち」と記されています。「時が満ちた!」それはまるで、これまでの時間が、この主イエスの登場をもって頂点に達したというような響きがあります。この時というのは「カイロス」という言葉です。一般の時間をさす時は「クロノス」と言います。時計の名前にもなったりしていますので、どこかで聞いたことがあるかもしれません。けれども、この「カイロス」というのは、まさに、神の時、この時しかないと言うほど、頂点に達した神の時なのです。

 三つのことだけ説明したいと思いますが、「パクス・ロマーナ」という言葉があります。「ローマの平和」という意味で使われる言葉です。この時代、ローマが地中海沿岸から内陸に向けて非常に広大な土地を支配していました。この強大なローマの力によって民族の争い、国家同士の争いは沈静化し、世界全体に平和が訪れたといわれた時代です。まさに、政治的に安定した時代に、主イエスは登場したのです。そして、二つ目に、「すべての道はローマに通ず」と言われましたが、道路が整備されました。そのために、キリストの福音は瞬く間に世界中にもたらされる環境が整っていました。そして、三つ目に「言語の統一」です。この時代、みなギリシャ語を公用語として使うようになっていました。

 聖書のマラキ書から主イエスの時代まで、聖書には記録されていない400年間、これを中間時代と言います。預言者たちを失い、イスラエルの民は世界中に離散してしまい、考え方によっては、イスラエルの神への信仰などもはや消えたように見えた時代に、神は着々とローマの力を用いて、福音が世界に届けられるための備えをしておられたということができるわけです。

 「時が満ちた!」と主イエスが語られた時、まさに、機は熟したと言い得る備えを主なる神は整えてくださって、主イエスが宣教を始められたのです。そして、まさに、この世界に神からの贈り物が届けられようとしているのです。それで、主イエスはつづけてこうお語りになられました。「神の国は近くなった」と。

 「神の国」これは「天国」とも言うことの出来る言葉です。そうすると、私たちは死後の世界を連想します。けれども、この「国」という言葉はギリシャ語で「バシレイア」と言う言葉です。これは「支配」というように訳すこともできる言葉です。

 山浦玄嗣(はるつぐ)という東北の震災で知られるようになった大船渡で医者をしておられた方があります。この地域を気仙地方というらしいのですが、この山浦さんは地域の言葉、ケセン語の研究をしていました。そして、2002年からケセン語で聖書の翻訳をすることを始められたのです。そして2004年までにヨハネの福音書を訳し終えます。2011年にあの震災が訪れるのですが、その時にはこの翻訳の出版社が震災を受けて、すべての本が水につかってしまいます。このことで、山浦さんの働きが一般の方々にも知られるようになりました。

 この山浦さんの翻訳は、聖書の言葉をケセン語に翻訳したということもありますが、非常に分かりやすい言葉に置き換えたことでも知られています。たとえば、この「神の国」という言葉を「神様のお取り仕切り」と訳しました。この「国」という言葉は国家を意味するというよりも、神さまが取り仕切ってくださることだというわけです。「神の支配」という言葉よりもさらに分かりやすい表現です。主イエスがこの世界にもたらせた福音というのは、神さまが私たちの生活を取り仕切ってくださるという事だというわけです。

 この「近くなった」も翻訳するには難しい言葉で、もともとは「完了形」で書かれています。「近づいて来る」というのは現在形です。そして、到達すると「来た」となります。これが完了形です。けれども、バス停でバスを待っていますと、バスが見えてくると、まだ来ていなくても「バスが来た」と言います。「バスが来つつある」とか、「まもなく到着する」という言い方もできると思いますが、たいていは見えてきたら「バスが来た」というわけです。でも「来た」は過去形ですから、本当は到着する前に「来た」は正しくはありません。

 この「神の国は近づいた」というのも、そういう意味の言葉です。神の国とは何か、神のお取り仕切りとは何かというと、主イエスが私たちのところにもうおいでになられたので、私たちの生活を取り仕切ってくださるということです。だとすると、主イエスはもうおいでになられたわけですから、本当は「神の国が来た」と言ってしまっていいわけです。でも、それでは文法的に正しくない、だから「近づいた」と訳されているわけです。

 そこで、私たちが覚えていないといけないのは、主イエスはもうおいでになられているということです、けれども「神の国」の中身がまだ分からない。主イエスの取り仕切りと言ってみたところで、どう私の生活を取り仕切ってくださるのか、はっきりしません。

 今お中元の季節です。最近はそういう習慣もだんだん少なくなってきた気がしますが、私が子どものころ、父のところにお中元が届く時があります。そうすると、5人兄弟がみんな集まりまして、まだ包装紙に包まれた箱をガサガサと揺すりながら、何が入っているのかを想像するのがとても楽しみでした。持ってみて、とても重かったりしますともう兄弟みんなで大はしゃぎです。カルピスに違いないと想像するわけです。次の日、カルピスを楽しみにしていて、出てこないと「あれ?カルピスは?」なんて親に言ったものです。すると、「ああ、あれはサラダオイルだよ」という返事が返って来た時の落胆といったらなかった。

 主イエスが自ら、ここで「福音の贈り物がもう届きましたよ」と宣伝してくださるわけです。「福音」というくらいですから、良い知らせです。私たちが嬉しくなるような知らせを、主イエスがもたらしてくださるのです。期待しないわけにはいかないのです。

 そして、こう言われました。「悔い改めて、福音を信じなさい」これが、主イエスのお語りになられた知らせです。「悔い改めなさい」それは、ヨハネが語ったことを、主イエスもお語りになられたということです。

 今年、宗教改革500年の記念の年です。先月、私も何度目かになりますが、ルターが95箇条の提題を掲げたヴィッテンベルグの城教会を訪ねて来ました。この教会の入り口の壁のところに、ルターはこの文章を掲示したのが、宗教改革のはじまり、今から500年前の10月31日のことです。
 ルターはこの文章の冒頭でこのように書き記しました。

私たちの主であり、師であるイエス・キリストが「悔い改めよ・・・」と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

 ルターの宗教改革というのは、悔い改めの再発見ということができるわけです。先週の月曜日、私は東海聖書神学塾で1時間ほどですが、ルターについての講演をしました。先週の説教でもお話したのですが、ルターは修道士時代、何度も何度も告解をしました。罪の告白をしたのです。理由は、神の要求される義に到底到達することができないと悩んだためです。こんな無理難題を押し付けて来る神は、人間の敵なのではないか、そのようについ神のことを考えてしまう自分を責め、また神に対して怒りを覚えたのです。

 ところが、博士と認められ、そのために学生に教えるために詩篇の研究をしたことがきっかけとなって、「神の義」とは何かということを考えるようになりました。そして、ローマ人への手紙に書かれている「なぜなら福音のうちには神の義が啓示されている」という1章17節の言葉を考えていた時に、神の義というのは、人間を裁くための規範ではなくて、私たちにプレゼントとして与えられるものだということに気づきます。その時以来、悔い改めはルターにとって神の前で自分にみじめさを突き付けられるものではなくて、神の赦しと出会う時となったのでした。

 この95箇条の提題にルターが記した「信じる者の全生涯が悔い改め」と言うとき、そこには私たちの全生涯が神の前で赦されているのだということを語ろうとしたのです。

 私たちは、「お前はどうしようもない奴だ」と攻め立てられて、「ごめんなさい」と重い口を開くのが悔い改めだと、つい考えてしまうのです。けれども、主イエスご自身が私たちの生活を取り仕切ってくださろうと、私たちに素晴らしいプレゼントを持ってきてくださいました。ですから、これからは自分で自分を取り仕切っていた、自分で自分の生活を支配していたのを、主イエスにお任せしてみます、お委ねしますと自分を明け渡す。これこそが、悔い改めなのです。

 この悔い改めなしに、私たちは神の福音に生きることはできません。けれども、この福音の中身が分かってくるならば、自分を託すことのできる価値あるものと分かるならば、私たちは悔い改めに生きることができるようになるのです。この主イエスがもたらしてくださった福音の中身、喜びの知らせの中身は、まだ、ここでは語られていません。まだ、ここでは包装紙に包まれた状態です。けれども、主イエスが私たちの生活を取り仕切ってくださるということだけは、すでに分かっているのです。ここで語られているのです。そして、そここそが、人々が待ちに待っていたものでもあるのです。

 神が私を見捨ててしまったのではないかと、それまではパイロットのいない飛行機に乗って、これからこの飛行機はどこに行くのだろうか、落ちてしまうのだろうかと思っていたのが、「時は来た、パイロットは私だ」と言ってくださる方が、目の前に現れたのです。主は言われるのです。「私を信頼して、私がもたらすものに期待したらいいのだ」と。

 主に私たちをゆだねるならば、私たちは確かな神の守りの中で生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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