・説教 マルコの福音書1章16-20節「漁師イエス」
2017.08.06
鴨下 直樹
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いつも、夏になりますと、私たちの教会では信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が証をするときとなっています。今年も、水曜日にはTさん、木曜日にはYさんがそれぞれ証しをしてくださいました。両方合わせて20名以上の方々が出席くださいました。
水曜日にTさんは、イザヤ書52章7節の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことよ」のみことばから、誰もが自分に福音を伝えてくださった人がいるはずというところから話してくださいました。お話を聞きながら、改めて、自分に福音を届けてくれた人は誰だっただろうかと思いだしながら、またお話を聞いた後で、自由に語りあう機会を持ちました。木曜日のYさんは、ご自分の若いときから今に至るまでの信仰の経緯をお話しくださいました。この日もまたその後で、みなさんYさんの証に刺激されて、自分はどのように信仰に至ったかという話しをしてくださいました。
救いの証というのは、人によってはもう何回か聞かせていただいた方もありますけれども、何度聞いても、自分がどのように救いに導かれたのかという話しを聞く時というのは、嬉しい時です。そして、毎回思わされるのは、誰もがみなそうですけれども、主イエスとの出会いを通して、変えられていくのだということを改めて覚えさせられるのです。
今日の箇所もそうです。いよいよ、ここからは、主イエスの伝道の姿が具体的に記されているところです。そして、ここで何が書かれているかというと、シモン、アンデレという漁師であった兄弟と、またヤコブとヨハネという漁師の兄弟が主イエスの弟子になったということが記されているわけです。伝道の旅を始めるにあたって、主イエスは、まず初めに、一緒に旅をする仲間をお集めになられたわけです。
16節にこのように記されています。
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
新改訳聖書には主語が書かれていませんが、もちろん「主イエス」が主語です。主イエスは二人の漁師をご覧になられたのです。しかし、当の本人たちはそのことを知りません。ただ、今から獲ろうとしている魚のことしか考えていなかったでしょう。ということは、彼らには何の準備もなく、それまでごく普通のこれまでとまったく同じ生活をしているところを、主がご覧になられたということです。
主イエスがここで何を見ておられたのか、そんなことは分かりません。優秀だと思ったのか、将来が有望だと感じたのか、私たちがしてしまいがちなのは、この先に起こることをすべて主イエスは見据えながら声をかけられたのか、そこは何も記されていません。もちろん、主イエスの眼差しと言うのは、何か人の運命を決定づけるようなものではなかったと思います。そこにあるのは、ただ主の愛の眼差し、慈しみの眼差しです。
主はここで声をかけられます。17節。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」
読み手である私たちはここで驚きを感じます。人物査定もしていないのに、履歴書を見たわけでもないのに、どうして、突然、こんな声を発することができるのか、私たちには不思議でなりません。そして、その呼びかけに対して、マルコは簡潔にこう記しました。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」と。18節です。
こんなにも簡単に人生を決定づける選択をしていいのかと不思議に思います。「わたしについて来なさい」。こんな簡単な言葉があるだろうかと思います。私たちの心はもっと複雑なはずです。5歳の娘にいつも教えます。「そんなに簡単に人について行ったらダメだよ」と。もちろん、シモンもアンデレも立派な大人です。自分で考える力もあるのです。誰もこんなに簡単な言葉でついていけるほど軽い人生をおくっていないはずです。けれども、ここで主はおそらく敢えて、そのような簡単な言葉で弟子たちをお招きになられたのだと思います。この短い言葉の中に、まさに、深い主イエスの思いが秘められているはずなのです。この主イエスの招きの言葉は、シモンとアンデレ、またこの後招かれたヤコブとヨハネという4人にだけ特別に語りかけられた言葉ではなくて、実に、すべての人に語りかけられた言葉。まさに、すべての人を招く言葉としてここでお招きになられたのです。
漁師というのは、その日の収穫で生活が左右される仕事です。天候にも左右されるでしょう。また健康が損なわれたら続けることができません。社会保障もないこの時代の人々というのは、自分で家畜を持っていたり、耕す土地を持っている人はある程度安定した生活をすることができたと思います。そうでない人はみな、この時代生きることに必死だったと思います。もちろん、今の方が生活しやすいとも簡単には言えないかもしれません。私たちが生きている現代もまた、明日の保証のない時代と言えるかもしれません。そういう中で、自分の仕事を捨てる、しかもヤコブとヨハネというゼベダイの兄弟は20節によると
すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
とあります。この兄弟の記述はかなりリアルな書き方がしてあります。父の代から漁師で、雇い人もいる立場です。けれども、父から受け継いだはずのものをそのまま残して、つまり、家業を捨てて主イエスについて行ったわけです。このあと、残された家族が大変だったことは想像できます。あとあと、嫌味の一つや二つでは済まなかったと思うのです。
主イエスについて行くと言うことは、その時からこれまで以上に計算のできない生活になるということを意味していました。あるいは、一時的に家族と関係が悪くなることもあり得たし、自分の生活だけではない、一緒に住む家族みんなを巻き込むことになることが予想されたわけです。
私たちの生活の中で良く聞かれることばに「人に迷惑をかけないで生きる」という言葉があります。これは、倫理的な判断をするときの基準となる言葉です。大事な決断をするときに、「人に迷惑をかけないようにしよう」というのが考え方の基準になるというものです。これを消極的倫理といいます。最低限のものを守っていくという考え方です。この基準に照らすと、主イエスについて行くということは、とんでもないことになるわけです。自分のことだけならいいわけですけれども、こともあろうに、自分の親にまで迷惑をかけることになるわけです。
しかし、マルコの福音書はそのことを恐れずに、主イエスに従うということは、それに優ることがあるということを示そうとしているわけです。では、主イエスに従うとどうなるというのでしょうか。何を示そうとしているのでしょうか。主イエスはここで弟子たちをお招きになられる時にこう語りかけられました。
「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」
漁師というのは、自分たちの生活のための仕事です。生活に直結する仕事です。漁の上手い下手が、そのまま結果になってあらわれる仕事です。主は、あなたは魚を獲るのではなく、人間を捕るようになる。人そのものを救いあげる生き方をするようになる。そう言って語りかけられたのです。これが、主イエスの漁のやり方でした。このように語りかけて、人の心を捕えたのです。
考えて見ると、みなそうです。人が信仰に至るのは、主イエスと出会うかどうかです。主イエスを知るときに、その主に捕えられる、魅了されるのです。そして、このお方に私の人生を託そうと思えるようになるのです。
私が牧師になって一年目、ある方の引っ越しを手伝いました。その時に、他にも手伝いに来ていた方がいて、どんな仕事しているかと尋ねられました。私は牧師と答えました。その人はさらに私にこう質問してきました。「その仕事は楽しいですか」と。私はその時に、「牧師は楽しいですよ。たぶん、これより楽しい仕事はないんじゃないでしょうか」と答えました。その方がそれを聞いてびっくりした顔をしていたのが印象的でした。
私はあとで、そのことを神学校の卒業生たちの機関紙に書きました。あとで、当時神学塾の塾長であった羽鳥純二先生が、その原稿のことで「君みたいな牧師にみんななればいいのにね」とコメントを頂いて、牧師になりたてだった私はずいぶん励まされました。
その思いは牧師を20年しても、変わりません。けれども、実はそれは牧師だけではなくて、クリスチャンみんな同じなのだと思うのです。「クリスチャンになって楽しいですよ。クリスチャンになる喜びにまさるものなんて他に無いんじゃないですか」と。私は、みなさんすべてが、こう証が出来るようなったらいいなと思っています。
クリスチャン生活の基盤は喜びです。それは、ここで主イエスが語りかけてくださったように、主イエスについていくことから来る喜びです。それは、自分の生活のためにだけ生きているところから解放される喜び。自分に固執しているところから自由にされる喜びです。
主イエスはここで、自分のために生きていた人たちに語りかけているのです。あなたの喜びは何に根差しているのかと。自分の働きがうまくいって誰かに認められること、生活が経済的に安定すること、家族が思い描いている道に進むことができるようなること。色々あると思います。
まさに網をおろしているシモンとアンデレ、次に備えて網を繕っているヤコブとヨハネ。今まさに生きている、生活のただ中にあるこの弟子たちの頭の中には色々なことがあったはずです。この世界の目から見れば、どんな生き方でも正解と言えるでしょう。その中にはさまざまな意味を、理由を見出すことはできるはずです。けれども、主イエスはそこをご覧になってはいないのです。
主イエスが見ておられるのは、まさに主イエスに見いだされる事、神の眼差しに生きる事そのものです。そこでは、自分のやりたいことは評価の対象にはなりません。あるいは誰かに何か言われたことも問題にはなりません。ただ、神の前に生きる事こそが意味を持つのです。
このことは、教会で何度語っても、なかなか届きません。自分のやりたいことが大事、人から言われたことが気になるというところから抜け出せないからです。自分で自分を支配、あるいは人から支配されることに慣れすぎてしまっているのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
この17節と18節の短い言葉の中に、神が私たちに備えてくださっている喜びのエッセンスが詰まっています。
そこには、主イエスに期待する心が生じます。そこには主イエスにゆだねる平安があります。そして、そこには、本当の自分を取り戻す生きがいが秘められているのです。
シモンと呼ばれたペテロ、ペテロの兄弟アンデレ、そして、ヤコブとヨハネという漁師だった四人は、主イエスと出会った時に、文字通りすべてを捨てました。主イエスに自分の人生をかけた、託したのです。主イエスと共に旅をするなかで、この弟子たちは新しい自分を発見していきます。生きる意味を見つけ出していきます。そして、自分が迷惑をかけたはずの家族までもが、主イエスと一緒に生きるように変えられていったのです。
おそらく、少しずつ分かっていたのだと思います。はじめのうちは後悔したかもしれません。けれども、主イエスと出会って、主イエスがどのようなお方であるかが分かっていく度に、どんどん自由になっていたのです。
木曜日の祈祷会の時に、Yさんがみなさんに質問をしました。「クリスチャンになって良かったことは何ですか?」と。残念なことに、ほとんど誰もこの質問にふれないで、証を聞いた感想と、自分がどのように導かれたかという話しをみなさんされました。私はこの質問、とても良い質問だと思いました。木曜日、私はもう時間がなかったので何も話さなかったのですが、こう答えようと思っていました。
クリスチャンになって良かったのは、本当に自由になったことだと。それは、牧師の働きが楽しいということと一つです。それは、クリスチャンの生活が喜びであるということと一つです。主イエスとお会いして、主が私たちに何を望んでおられるかが分かれば分かるほど、どう考えたらいいのかが分かるようになります。どう生きたらよいかが分かるようになります。どう人を愛したらいいのかが分かるようになります。主イエスを知ることを通して自分に自信がないということから解放されます。考え方が変わる、生き方が分かるからです。人の評価から自由になります。人の意見はいくつもあります。人からの要求もいくつもあります。けれども、本当に大事なことは、誰が私のことをどう思うかではなく、主がどうして欲しいと考えておられるかだけです。そうやって、自由に生きることができるようになるのです。
主イエスは人間を漁る漁師です。主は人の事を良く知っておいでです。何よりも私の事を、あなたのことを、主は良く知っていてくださいます。この主についてゆくとき、従ってゆくとき、私たちは自由に、喜んで生きることができるようになるのです。
お祈りをいたします。