・説教 マルコの福音書1章21-28節「礼拝の起源」
2017.08.13
鴨下 直樹
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先週の11日にデイキャンプが根尾山荘で行われました。今回、教団の教会全体に案内を出したのがはじめてということもあったのですが、スタッフ合わせて90名の参加者がありました。芥見からも沢山の方が参加してくださり、また、助けていただいてとても感謝でした。キャンプの間、雨も時々パラパラと降りましたが、予定通り何とかバーベキューはすることができました。残念ながらその後で雨が降り始めてしまいましたので、キャンプファイヤーは食堂で行いました。
ですからもちろん、火はないわけですが、そういう気持ちで、最後の集会を行ったわけです。けれども、子どもたちを合わせて90人というのはなかなかの人数です。Oさんが手品をしてくださり、Mさんが司会をしてくださり、とても楽しい時となりました。このキャンプファイヤーの最後に伊藤牧師が「礼拝」をテーマにメッセージをしてくださいました。そこで、あるカトリックの司祭の言葉を紹介してくれました。「礼拝とは遊びである」。その司祭は礼拝のことをこう表現したというのです。伊藤牧師のメッセージを聞く中でそれがどういう意味なのかが少しずつ分かって来たのですが、それは、「夢中になるほど楽しいこと」という意味だったようです。
礼拝は夢中になるほど楽しい。そんな言葉を聞くと、ちょっと首をかしげたくなるかもしれません。それはどういうことなのでしょうか。今日の聖書の箇所にその答えがあります。今日の聖書は、主イエスが最初に会堂を訪れたことが記されている箇所です。その様子を少し注意深く見て見たいと思います。
それから一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
と21節にあります。「一行」というのは主イエスと弟子たちのことです。主イエスの弟子となったばかりの人たちがこの中に含まれていたはずです。主イエスとともに歩むようになって最初の安息日を迎えました。
安息日というのは、この時代のイスラエルの人々にとってとても大切な日でした。仕事を休んでその日は、会堂に行って聖書の教えを聞く日、それが安息日の過ごし方と考えられていました。弟子になったばかりのシモンやアンデレ、ヨハネやヤコブがその前の週までどのように過ごしていたかは分かりません。ただ、この日は主イエスと一緒に会堂に出かけます。そして、おそらくそこで初めて聖書を解説する主イエスの説教というのを聞いたのです。
どんな内容だったのか興味がありますが、残念ながらその話の内容については書いていませんが、その話を聞いた人々の感想が書かれています。それが22節です。
人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
とあります。聞いた人は驚きました。この驚くという言葉は面白い言葉で「ひっくり返るほどに驚いた」という意味の言葉です。恐らく、弟子たちもそうだったはずです。それまで、会堂で聖書の話しをするのは、「律法学者」と呼ばれる人たち、聖書の専門家です。この聖書はどういう意味です。神様はこういうことを求めておられますよ。そんな話がされていたのです。ところが、主イエスの話はそれまで聞いていた解説のような話ではなくて、まるで自分で聖書を書いた本人であるかのような話しぶりだったのです。
どんな語り方だったのかとても興味のあるところです。私自身、はじめて説教をした時のことを今もよく覚えています。まだ神学校で勉強していた時のことですから牧師になる前のことです。聖書をよく調べて、話をまとめて説教をします。説教というのは、神さまはこう言っておられますよと宣言することです。ですから、自分がどう思っているかではなくて、神の権威で語るわけです。ですから、説教が終わったあと、何だか居心地が悪いんです。普段の自分は、他の人と何も変わらないわけですが、説教が終わると、何か偉い人になったかのような口ぶりでその直前まで話したものですから、普通の自分に戻れないような居心地の悪さというのを感じるわけです。他の人に、「今、なんか偉そうなこと言ったけど、自分でできるの?」と聞かれたらどうしようというようなドキドキ感があるわけです。そこがまだ、自分のことをお話する証しと説教の大きな違いでもあります。
ただ聖書の解説をするというのであれば、「この本にこうかいてありましたよ」、「この言葉はこういう意味みたいです」と第三者の視点で話すこともできます。それは、自分とは関係ないので、気になりません。けれども、この礼拝の時に、説教をするというのは自分を置いておいて語るわけにはいかないのです。ここで、主イエスが会堂で語られた時、今まで聞いていた聖書の専門家である律法学者がしていたような語りぶりではなく、まるで自分のことを語るかのように話し始めたので、聞いていた人たちは心底驚いたのです。
そして、それだけでなく、この主イエスが説教をなさったとき、ある出来事が起こりました。その会堂で叫んでいた人がいたのです。礼拝でも時々、子どもたちの大きな声が聞こえてしまったりすることがありますが、そういうレベルではありません。聖書は「汚れた霊につかれた人」とあります。印象としては、ちょっとヤバイ人。人前で静かにしていなければならないのに、ブレーキが掛けられないで、大声を出してしまう。そんな印象を受ける人です。
私が牧師になったばかりの頃ですが、一人のナイジェリアの人が教会に来ていました。その人はその時期とても困っていました。心が苦しくなるといつも教会に来ました。そして、牧師になったばかりの私を訪ねて来たのです。ところが、いつも訪ねてくる時間が真夜中なのです。いつも決まって夜の12時過ぎです。しかも、日本語があまり話せません。片言の日本語で一生懸命私に話しかけてくれます。ところが、私には何が言いたのか全くわかりませんでした。すると、彼は「あなたはパスター(牧師)だから分かるはず」と言います。「話さなくても分かるでしょ」と言うのです。そんなこと言われても分からないわけです。すると、彼はだんだん興奮して牧師室でジャンプを始めます。あるいは、奇声を上げることもありました。もう真夜中です。近所の家の明かりがついて、近所の人たちは教会から奇声が発せられるのを深夜に聞かされるわけです。私も何とか落ち着かせようとするのですが、落ち着きません。もう、どうにも手におえなくて、ひどい時には救急車を呼んだこともあります。そういうのが一週間に2、3回あるのです。それが何カ月か続きました。もう、私はノイローゼになってしまって、真夜中に駐車場に車が入ってくるともう気がめいってしまっておろおろしながら、玄関を開け、その人を迎え入れます。私ははじめ、「悪霊につかれるというのはこういうことか」と思ったことさえありました。
あるとき、ようやく親切に対応してくれる病院を見つけて、彼はそこに入院することになりました。その年のクリスマスに、私は彼の入院している病院を訪ねて小さなクリスマスの礼拝をしに行きました。その時に、そのお医者さんが私にこう話してくれました。「人間と言うのは、自分では抱えきれないほど多くのことを抱えると、誰でもこうなります。牧師さんでも、こうなりますよ」と言われました。この病院でようやく分かったのはとても大きなトラブルをいくつもいくつも抱え込んでいて、それが何ともできなくて苦しんでいたということでした。その後、彼は無事にナイジェリアに帰ることが出来ました。
あまりにも多くの不安や心配事を抱えて自分で自分がコントロールできなくなってしまう。それは、聖書の時代にだけあったある特別な人のことではありません。悪魔がその人を支配しているというようなことではなくて、聖書はそれを良くない霊に支配されているという表現を使ったわけです。けれども、自分で自分がコントロールできない状態というのは、よく考えて見ると、私の生活を振り返ってみても、自分でもそういう時があることに目をつぶるわけにはいかないということに気づかされます。私たちでも、自分の気持ちや行動がコントロールできなくなってしまうということは起こるわけです。厳密に考えてみると、果たして自分で自分のことを完全にコントロールできる人がいるのだろうかとさえ思えてくるわけです。
この主イエスの前に現れた人は、主イエスにこう語ります。24節です。
ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。
この「私たち」という複数形で自分のことを語っている姿からみても、自分で自分のことがコントロールできなくなっている姿を見ることができます。この人はつづいて語ります。
「あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
主イエスが自分を滅ぼしに来た。あなたは聖なる方、自分はそうではない。あなたが来ると、自分のようなものはダメにされてしまう。そう語ったのです。それに対して、主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と言われて、その人を癒されたということがここに記されているわけです。
これが、弟子たちが見た、最初の主イエスの礼拝の光景でした。きっと衝撃的だったはずです。今、自分たちは何を見たんだろうと思ったはずです。そして、主イエスが苦しんでいたであろうこの人を解放されるという衝撃的なわざを、弟子たちやこの礼拝に来ていた人たちは目の当たりにしたのです。それが、最初の礼拝の出来事でした。
自分で自分をコントロールすることができなくなる。そこには色々なことがあると思います。自分の感情のコントロールということもあるでしょう。あるいは、悪い習慣や考え方から抜け出せないということもあるかもしれません。あるいは、自分を苦しめる出来事や、苦しめる人などと関わると、冷静でいられなくなるということもあります。そして、そういうところに、誰かが入り込んでくると、それはさらに状態が悪くなるだけで、混乱してしまったり、人が入ることで自分がみじめになってしまうということもあるのだと思います。
主イエスは礼拝で教えられました。けれども、ここではその言葉だけに力があったのではなくて、実際にそのわざにおいても、権威があったということを物語っています。ところが、聖書は、最後のまとめとして27節で、人々は驚いて互いに論じあいながら、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか」と評価していると書いています。ここでは「教え」に強調点が置かれているわけです。主の教えが、そのままわざにも表れていると描いているのです。
この主イエスのいた礼拝で何かが起こっています。これまで聞いたことのない教えを聞き、そして、その教えの力が目の前に示される。これは何かあると人々は感じたのです。
最初に「礼拝には人を夢中にさせるものがある」とお話しました。それは、まさに、私たちが自分で自分をコントロールできないような者であったとしても、主の言葉を聞くなら、主とお会いできるなら、そこで、自分の大事なものをもう一度気づきなおさせられ、分かるようになり、自分が変えられるという経験をするからなのだと思うのです。
それが、聖書が語る礼拝の姿です。礼拝は、自分を取り戻すために神が私たちに備えてくださった場所です。どれほど、心が疲れていても、どんなに大きな問題を抱えていたとしても、自分で自分をどう納めたらよいか分からなくて苦しんでいたとしても、主イエスはそのような私たちに聖書の言葉を与えて、私たちがしっかりと立って生きることができるようにしてくださるのです。だから、礼拝に夢中になれるのです。礼拝はまるで子供の遊びのように、私たちが夢中になれる喜びを備える場となるのです。
主イエスは最初に仲間となった弟子たちを、安息日に会堂に連れて行き、礼拝というのはこういうことなのだとはっきりとお示しになられたのです。それは、まさに主イエスを知る場となり、自分が解放される場であることを知り、まさに夢中になれるところであることを主イエスは教えてくださったのです。
お祈りをいたします。