・説教 マルコの福音書7章24-30節「柔らかい心を持って」
2018.06.03
鴨下 直樹
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今日の聖書の箇所は私たちには少し新鮮なというか、新しいイエス像を描かせるものではないかと思います。24節にこう記されています。「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方に行かれた。誰にも知られなくないと思っておられた」とあります。
読んだ印象からすると、これまでの流れの中で、主イエスはもうちょっと人と会いたくない気持ちになられて、誰も自分のことを知らない外国に足を延ばされたわけです。このあたりだと、ちょっと下呂にでも温泉旅行に行こうかというような感覚であったかもしれません。主イエスも人に会いたくないと思われるようなところがあるのだということに、私たちは親近感を覚えるかもしれません。あるいは、意外性を感じるかもしれません。
けれども、これまでのマルコの福音書を読んでいきますと、主イエスの弟子たちはどうもあまりパッとしないのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡のときも何も感じることもなく、向かい風の湖の試練でも、主イエスの願いは届かず、この前のパリサイ人や律法学者たちとけがれについて議論した時も、弟子たちは何の話を主イエスがしておられるのかさっぱりつかめていないのです。このあまりの弟子たちの不甲斐なさと、自分の願いばかりを押し付けて来る群集、そして議論を吹っかけて来るパリサイ人や律法学者たち。ちょっと疲れた。静かなところに行って休みたい。そんな雰囲気を読み取ることができます。
ところが、主イエスにはそんな時間が与えられるべくもなく、一人の女の人がやって来ます。彼女は幼い娘を持つ母親で、娘は汚れた霊につかれている。どんな状態なのかは分かりませんが、最後のところでは「床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた」と記されていますので、何かの病気に冒されていたのを「汚れた霊につかれていた」と表現しているのかもしれません。この小さな病の娘を持つ母親は、主イエスに娘の回復を願いに来るのです。
このツロという地域は、主イエスたちのことばと同じアラム語を話す人も多い地域でしたので、会話も問題なかったようです。ところが、この人は「ギリシア人」とあります。ギリシャ語を使う人ということです。生まれはシリア・フェニキアとありますので、ツロという町のある地域をさす地域名です。つまり、生粋のこの地域の人は、アラム語は話せないというのは珍しいことではないわけです。
ここで興味深いのは、主イエスはこの母親の願いにこのようにお答えになられました。27節です。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
このように主イエスは言われたのです。
疲れ果ててこの地に来ていて、人にも会いたくない、さらに、この母親の願いを完全に断ってしまったのです。しかも身も蓋もないような断り方です。ここで主イエスが「子どもたち」と言ったのは、イスラエルの人々のことです。「わたしはイスラエルの人々のために来たのであって、異邦人のために来たのではない」と言われたのです。イスラエルの人々は、異邦人のことを「犬」と呼ぶことがありました。犬はその時代、死んだ動物などの肉を食べたからです。そういうところからきた明らかな差別用語です。主イエスはここで、そういうイスラエルの人々が異邦人に対して口にした「犬」という言葉を用いて、わたしはあなたがたのような異邦人の願いを聞いてやる義理立てはないと拒絶なさったのです。
ちょっと珍しいと思えるほどに、ここに記されている主イエスは冷たい答えをしておられるように読み取れるのです。「断るにしても他の言いようがあるだろうに」と言いたくなるような言い方です。こんな風に言われて傷つかない人がいるのだろうかと思えるほどです。
この27節の主イエスの言葉を聞いて、このとても厳しい拒絶の言葉の中に、福音を見出すことはできるのでしょうか。このツロの母親は、この主の言葉の中に何を聞いたと言うのでしょうか。
彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どものたちのパン屑はいただきます。」
ツロの女は主イエスにそのように答えたのです。
きびしい拒絶の言葉としか思えない主イエスの言葉の中に、主の愛の言葉を聞き取ったのです。
主イエスはここで「まず子どもたちを」と言われました。自分の子ども、イスラエルの人々が優先だと言われているのですが、その言葉の前には「まず」という言葉がついているのです。「まず」ということは、たしかに優先は子どもだとしても他の可能性を拒絶しているわけではないのです。それで、それならば完全に拒絶されているわけではないということを、この主イエスの言葉から聞き取ったのです。
そして「小犬」という言葉があります。主イエスは「犬」とは言わないで「小犬」と言われたのです。まだ生まれて間もない小さな犬には、人はささやかな愛を示すでしょうと、この女はこのことばの中にかすかに響く主イエスの愛の言葉を聞き取ったのです。
「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
この切り返しがすごいのです。センスがあると言ったらいいかもしれません。「拒絶された」、「犬扱いされた」、「この人はひどい人だ」とその言葉に腹を立てることはいくらでもできたはずなのです。よく考えてみると、今主イエスがおられるのはツロの地域です。異邦人は、「外人」は、その地にを旅で訪れている主イエスの方なのです。「その外人に、外人呼ばわりされたくないわ。」と腹を立てて言い返すこともできるはずなのです。それなのに、この母親は「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」と言うことが出来たのです。何と心の柔らかな人なのかと思うのです。
我が家でも数年前まで犬を飼っていました。小犬とは決して言えない大きな犬でしたが、いつも食事の時には食卓の下で待ち構えていました。子どもがまだ一、二歳の頃でしたから、だいたい子どもの椅子の下に伏せて、食べ物が落ちて来るのを待っているわけです。ただ、こういうことを連想してみると、イメージはできるのですが、この聖書の時代というのは犬をペットとして飼っていたのかと考えると、ちょっと想像ができないわけです。
日本でも、先日大河ドラマの『西郷どん』で、島津の城主の奥方が犬を飼っていて、その犬が大久保利通の家にやってきた話を見ました。この時代に、室内犬というようなものは、城主のようなよほどの身分の者でない限りあり得ない話です。そういう時代に犬を室内犬として飼っているというのはとても違和感を覚えるわけです。
聖書の中にもあまり犬の話は出て来ません。何故かと言うと、犬はそれこそ、前回の聖書箇所に示されているように汚れを持ち込みますから、犬を飼うというような習慣はイスラエルにはないわけです。ですから、犬の話は聖書にはほとんど出て来ません。しかし、異邦人の町では、あるいは、小犬の頃は食卓から落ちるパンをいただくというような習慣があったのでしょう。汚れを問題としない異邦人の地では、イスラエルの生活よりも、食卓の足もとに犬がいるというような生活はイメージしやすかったのかもしれません。
しかし、そうであったとしても、食卓の下にいて、子どもの落とすパン屑をもらう小犬と自分を重ね合わせるなどというような連想ができるというのは、このツロの母親はどれほど謙遜で、心の柔らかな人であったのかということが分かるのです。
実は、このマルコの福音書というのは「主よ」と告白しているのは、この母親以外にありません。今度の新改訳2017はそのまま「主よ」とだけ訳されていますが、これまでの新改訳は「主よ。その通りです。でも」となっていましたが、ずいぶんすっきりしてしまいました。新共同訳聖書をお持ちの方は「主よ、しかし」となっています。翻訳で大分ニュアンスが変わりますが、実は、この「主よ」という言葉が大事です。福音書の中で異邦人が主と告白したのは、ここだけです。ただ、この「主」という言葉は、聖書学者たちがいうのは、聖書に出てくる「主」という言葉よりもう少し軽い言葉で、異邦人たちはこの言葉を使っていた。英語で言うと「ミスター」とか「サー」とかいうニュアンスなのだと説明する人もいます。けれども、この言葉は確かに「主」という言葉なのです。当時の異邦人たちはこの言葉を確かに、もっと気軽に使ったのかもしれませんが、ここでマルコの福音書が語っているのは、主イエスは不甲斐ない弟子たちをご覧になって、自分勝手な願い事ばかりをするイスラエルの群衆、そして、議論を挑んでくるパリサイ人や律法学者たちから少し離れたいと思って、この町に来たのです。けれども、この町には確かに、主イエスの小さな言葉を聞き取り、主イエスの愛の心に気づく人がいたのだということを記しているのです。そのような信仰を、異邦人の中に見ることができたというのは、このツロまで旅をしてこられた主イエスにとって大きな慰めになったに違いないのです。
しかし、そうであるとすれば、どうして、このツロの女はこんなにも謙虚で、主イエスのお姿をよく見、また主の言葉から愛を聞き取ることができたのでしょうか。
この母親は自分の願いに固執して、主イエスのことを見る余裕がなくなるような人ではありませんでした。私たちは多くの場合、主に願い事がある時、願いを聞いて欲しいばかりにどうしても、主に対してまるで謙遜な態度ではなく、反対に上からものを頼むような尊大な態度になってしまうことがあるのです。しかし、この人は神を自分に仕えさせるような態度ではなく、主イエスの言葉にしっかり耳を傾け、主イエスの愛に気づくことができる人だったのです。
今回の説教を準備するにあたって、私は、久しぶりに、加藤常昭先生の説教集を読みました。加藤常昭先生は全国の牧師たちがよりよい説教をすることができるようにと、全国各地で説教塾という牧師のための説教のセミナーを開いて、指導しておられる先生です。私は、神学生の頃から、この説教塾に参加して学んできました。最近なかなか参加できなくなっているのですが、わたし自身この加藤先生から実に多くのことを学びました。
この加藤先生は、このところからどんな説教をしているのだろうと思って読んでみると、面白いことが語られていました。
カトリックの教会に行きますと、礼拝堂に並ぶ椅子に跪いて祈る時に、ひざをつく台があります。そこは跪くところですから、靴でそのまま踏むことはできないところです。カトリックの礼拝では祈りの時に、椅子から降りて跪いて祈るという習慣があります。なぜ、ここでこんな話をしているのかというと、跪いて祈ると見えて来る世界があるということを話しておられるのです。そして、この母は25節を見ると主イエスのもとにお願いに来た時に
その足もとにひれ伏した。
と書かれています。
祈るときに、ひれ伏していると、まるで召使いに命令するように願い事を言うなどということはできません。自然に、祈る相手を仰ぎ見るわけです。跪いて仰ぎ見ながら祈っていると、当然謙遜になるでしょう。主のお姿もしっかり見るでしょう。言葉も聞き漏らさないようにするわけです。
このツロの女は異邦人の中で、イエスを主と呼んだ最初の人です。この人は跪いて、主を仰ぎ見ることを知っていたのです。だから、その心が柔らかいのです。しなやかなのです。こういうへりくだった姿勢が、主を仰ぎ見る信仰を育んでいくのです。
この後、私たちは聖餐を祝います。主イエスの十字架の御業を思い起こし、その御業に感謝する時を持とうとしています。十字架の主イエスは、じつに柔らかい心の主です。そして、いつも父なる神を仰ぎ見ておられるお方でした。主ご自身、まさにご自分がへりくだっておられるお方であったがゆえに、そのお姿は私たちに主の愛を確信させるものとなったのです。
主イエスはこの時、心動かされて、幼い娘をお癒しになられました。ここに信仰の姿を主イエスは見つけられたのです。そして、私たちも、この主の謙遜なお姿に心動かされるのです。主を仰ぎ見ること。主のお姿を見、主の言葉に耳を傾けること。そうすると、そこから主イエスのもたらしてくださる慰めが、福音が見えるようになっていくのです。
お祈りをいたします。