2018 年 11 月 11 日

・説教 詩篇27篇 「心の歌」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:54

2018.11.11

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝の主の日です。毎年、この時になりますと、天に召された方々のご家族やご友人の方々がこの礼拝にお集いになられて、共に礼拝をおささげしています。その中で、今日は詩篇27篇を一緒に聞きたいと思っています。私の願いは、ぜひ、一度ご自分で声をだして、この詩篇を読んでいただきたいということです。まるで、故人がこの祈りを祈っていたのではないかという気持ちになるのではないかと思います。また、まるで、自分の祈りそのものだという錯覚を覚える方もあるかもしれません。

 今週、私自身、何度も、何度もこの詩篇を読みました。そして、声に出して読むたびに、深い慰めを覚えてきました。私ごとではじめてとても恐縮なのですが、この一週間、私自身自分では抱えきれないほどの問題をいくつも抱え、気がつくとため息ばかりついていました。気分がなかなか晴れない。

 その中で、この詩篇を声にだして読んでみる。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

まるで、私の気持ちを知っているかのような言葉が、ここで祈りの言葉として記されています。この言葉を自分に言い聞かせるように、声に出して読む。そうすると不思議です。言い知れない深い平安が私を包むのです。

 自分を慰める言葉というのは、自分の中からは出てきません。自分で自分を励ますように言い聞かせたとしても、自分を奮い立たせることはできるかもしれませんけれども、いつまでももつものでもありません。また、それは誰かに元気になれるような言葉をかけてもらえればいいということでもありません。それこそ、一杯やりながら同僚と語り合うことも気分転換にはなりますが、自分を支える確かなものにはなり得ません。

 私を支える言葉、それはいつも外からくる言葉です。こう声をかけて欲しいというような自分の望むことではなく、外からくる言葉というのは、権威があり、存在を支えるような言葉です。それが、聖書の言葉だと言っていいと思います。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

「主は私の光」。冒頭から、こういう言葉が出てくる。この詩篇の作者は、「ダビデによる」とあります。ダビデはイスラエルの王です。王には、王の悩みがあったでしょう。ダビデの生涯を見てみると、ほとんどが困難の連続であったと言っていいと思います。聖書でなくてもいいかもしれません。NHKの朝ドラをみる。大河ドラマをみる。こんなに次々にいろんなことが起こるかと思うほど、いろいろなことが起こる。もちろん、ドラマというのは、そういうエピソードだけを切り抜いて、その人物を描き出すわけですから、当然なのかもしれません。さまざまなこと、それこそ予想もできないようなことが、次々と起こる中で、ダビデは自分を支えるのは、光の主なのだと祈りました。闇の中に自分を閉じ込めるようなお方が、私の主なのではない。私の主は光の主。私の救い。そういうダビデの祈りの言葉を聞く時に、私たちもまた、この聖書に記された神が、光の主であることを、救いの神であることを知ることができるのです。

 今日、私たちはすでに、天に召された方のことを心にとめながら、この礼拝に集っています。ご家族の方は、故人がどのように歩んできたのか、よく知っておられると思います。ドラマのような人生ではなかったのかもしれません。けれども、よい時もあり、悪い時もあったのだと思います。今日私たちが一緒に読もうとしている詩篇27篇というのはまさに、そのような生涯を描いた詩篇であると言っていいと思います。

 前半の1節から6節までは、深い信頼と喜びの歌です。特に、この前半部分の歌の中心を占めるのは、4節でしょう。

一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

そのように、書かれています。「主の家」というのは、「エルサレムにある神殿」のことです。けれども、この詩篇が、もしダビデのものであるとすると、ダビデの時代にまだ神殿は建てられていませんでした。神殿はダビデの息子であるソロモンが建設するわけです。そうであるとすると、この「主の家」は、幕屋と呼ばれていますが、天幕に契約の箱を納めてそこで礼拝を捧げていました。この幕屋に神が臨在されると考えていたわけです。ですが、この言葉はもっと大きな意味で、「神の住まわれるところ」という意味に理解することもできると思います。今で言えば教会とも言えるし、天の御国、今、召天された方々いるところという意味にもとれると思います。

 教会に集うことを喜びとするということは、いつまでも主の家に住むことになる。生きている間に、そのことを求めて信仰に生きた方々は、今、天の御国でそのいのちの日の限り、いつまでも喜びの生活を送っていることでしょう。それは、喜びの日々。確かな慰めの日々なのです。5節にあるように、「苦しみの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくま」ってくださるのです。私たちは、その人生の歩みにおいて、このような確かな平安と喜びを味わう日を、しあわせな日々を過ごすことができるのです。

 ところが、7節からはガラッと変わります。祈り手は、とつぜん、孤独を感じています。不安を経験しています。神の御顔が見えなくなってしまったかのような、祈っても手応えがなく、まるで神から見捨てられているかのような経験をしているのです。
10節にはこうあります。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。」

 父や母がその子どもを見捨てるということは、少し考えにくいことです。父や母というのは、子どものためにできるだけなんとかしてやりたいと思うものです。それでも、見捨てるほかないようなことが起こる。例えば病に侵される。なおしてやりたくてもどうすることもできない。そういうことがないとは言い切れない。けれども、もしそういう経験があったとしても、主は私を見捨てないはずだと。困難な中で、この詩篇の祈り手は、信頼をこめてそのように祈っているのです。

 先週の水曜日と、木曜日の聖書の学びをした時に、この箇所をみなさんで一緒に読みました。そして、この詩篇のテーマのように、人生の中で良い時と悪い時がある。困難を経験する時と大きな信頼と喜びを経験する時、この両極端な二つのテーマについて、皆さんは自分のこれまでの人生を振り返ってどうですかと質問させていただきました。驚いたのは、その中で、何人かが、自分の人生を振り返って大変だった時のことを話してくださったのですが、その多くは子どもの頃の大変さでした。これは、年代によっても違うかもしれないとも思いますが、学びに参加されている方の中で60代、70代の方々は子どもの頃の大変さを話してくださった方が多くいました。沢山の苦労を重ねてこられたんだということが、よく分かりました。自分が苦労をしてきたので、子どもには苦労をかけたくない。そういう人生であったのかなと思う方々が何人もありました。そして、それと同時に、良い時、深い感謝と喜びをどこで感じるかということでは、多くの方々が、神様がそのように支えてくださってきたからだと言われる方が多くて嬉しく思いました。また、そのなかで、ご自分の伴侶の話をされた方が多くおられました。夫に感謝している。妻に感謝している。そういう言葉を話すことができるのは嬉しいことだなと思いました。

 自分の人生を振り返った時に、良い時もあった。困難な時もあった。そのような道を歩んできた。そうやって、自分の生涯を振り返りつつ、まるで、その自分の生涯の心の歌のように、この詩篇27篇は、私たちに語りかけてくるのだと思うのです。
13節にこうあります。

もしも 私が 生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったなら。

この言葉のあとに何がくるのだろうと考えてみるのです。きっとやっていけなかったに違いない。そういう言葉が続くのではないか。そう想像するのです。

 この13節は、ほかの翻訳ではもっと直接的な翻訳になっています。新共同訳ではこうなっています。

わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。

 「命あるものの地で」というのは、この生かされている人生においてという意味です。この神がいてくださるから、わたしは信じる。わたしの生涯において、神の恵みを見ると。原文を直訳すると新改訳のような訳になるのですが、意味は、新共同訳聖書のような意味です。
主なる神が共にいてくださる。それは、良い時も、悪い時も私たちの人生を支え、その生涯において、神の慈しみを、神の恵みを味わうことになる人生を生きることになるのだと。

先週の学び会の時に、教会の方に質問されました。牧師はどうですかと言うのです。先生の人生を振り返ってみてどうだったのか。みなに話させるなら、自分も話すべきだと言われてしまいました。私は今49歳です。まだ50年にも満たない人生を振り返ってこうですと、言えるほどまだ何も成し遂げていないと思うのです。ただ、この一週間、ため息ばかりつきながら、思うようにならない苛立ちばかりを感じておりました。

 そして、ふと父親のことを思い出しましたので、父の話をしました。父は今82歳です。まだ元気です。その父がちょうど今の私ぐらいの年齢の時でしょうか。同じようにため息ばかりついていたことがありました。当時高校生の私は父に思わず、質問しました。「父さんのこれまでの人生の中で、一番良かった時っていつ?」そう尋ねたのです。しばらく、考えた父は、私にこう答えました。「今が一番いいなぁ」。その答えに私は驚きました。子どもからみても、今一番いい時とは思えなかったのです。大変そうだ。そう思ったから、聞いたのです。

 教会の方に、尋ねられた時にふと、このことを思い出しましてお話ししたのです。自分は、「今が一番いいなぁ」と言えるだろうか。まだ、父の足元にも及ばないのではないか。そう思ったのです。

 人生には、いい時もあれば、悪い時もある。この詩篇はそんな人生を振り返った1人の信仰者の心の歌です。そして、この歌は、私たちの心とも深く結びつくのだと思います。

 その時に、「わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(新共同訳)と、この詩篇の結びのように祈ることができるなら、それは幸いなことだと思うのです。

 今日は、召天者記念の礼拝です。まさに、この言葉は、信仰に生きた一人一人の心の歌だったのではないか。そう思うのです。幸いな人生であった。命あるものの地で、主の恵みを見てきたのだ。そして、いまも、いのちの日の限り、主の家に住むことがゆるされている。そういうことだと思うのです。どうか、この詩篇が、ここに集われているみなさんにとっても、心の歌となる、自分の祈りとなる。そういう幸いがあることを知って欲しいと願うのです。

お祈りをいたします。

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