・説教 マルコの福音書 12章13―17節「神のものを神に」
2019.02.17
鴨下 直樹
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「私とはいったい何者なのだろう。」みなさんは、自分のことをそう問われることはあるでしょうか。「自分とはいったい何者なのか」そんな難しいことは考えていなくても、「他の人は自分をどう見ているんだろう。」そんなことは考えるかもしれません。
先週の金曜日に名古屋で教えております神学塾で、今年度の最後の講義が行われました。その時、私が神学生だった時に、どの講義が助けになったかという話がでました。私は、その時に、いつも「カウンセリング」と答えることにしています。本当に、この講義で、というか、この講義を担当してくださった先生によって、私は実に多くのことに気づかされたのです。その先生は、赤坂泉という先生なのですが、今は、東京にあります神学校の聖書宣教会というところで、学生主任をしておられる方です。私が学んだ当時は、もう20年以上も前ですけれども、アメリカでカウンセリングの専門の学びをされて、帰ってこられたばかりで、当時は三重県の伊勢で牧会をしておられました。先週の講義時にも話したのですが、この赤坂先生の「牧会カウンセリング」という講義の中で、ある時、まる一日かけて松坂市のある研修施設に一日「缶詰」になって学ぶ機会がありました。当時この講義をとっていたのは教職課程の4〜5人だったと思うのですがその日は、自分で自分をどう理解していて、他の人は自分のことをどう理解しているのかを語り合うという時を持ったのです。
その講義の時に、先生は一枚の絵を使いました。その絵の真ん中には一本の木があるのですが、その木の周りに、いろんな人が描かれています。これから木に登ろうとしている人、木を登りかけた人、枝の幹のところで腰掛けている人、木の一番てっぺんに上り詰めている人、そのほかにも、木に背を向けてほかのところに行こうとしている人なんかも書かれていたと思います。そして、自分はこの絵の中のどれにあてはまると思うかということを尋ねられたのです。私は、当時神学塾で学びながら、他の教会で奉仕神学生として働いていた時です。自分の無知なことを知り、改めてたくさんのことをまだまだ学ぶ必要があるということを感じていたので、その絵をみて、私は迷わず、これから木に登ろうとしている人を指さしました。ところが、その瞬間、他の人たちから一斉にどよめきが起こりました。みんな一斉に、木の一番上にいる人を指差して、「お前はここにいつもいる」と口を揃えて言ったのです。私は、ショックでした。私はまだ、何もはじめてもいないと自分では思っているのに、周りからはまったく違うイメージで見られていたわけです。それと同時に、自分の傲慢さということに、改めて気づかされました。自分ではそう思っていなくても、周りからはそう見えるのかということに気づかされたわけです。自己理解と、他者理解というのでしょうか。こうも自分が考えていることと、人が見ている自分というのは違うのかとショックを受けました。そして、そのことは、とても大切な気づきになりました。
みなさんはもう気づいておられると思いますが、私は普段あまり、人からどう見られているかということを、さほど気に留めません。それは、この学びを通して気づかされたことでもあるわけですが、他の人が考えること、感じることというのは、自分ではどうすることもできないということが、よく分かったからです。人のイメージに合わせていたら何もできなくなってしまうのです。けれども、多くの人にとって、人から自分がどう見られているかというのは、とても大きな意味を持つ場合があります。自分が正しく評価されていないとか、自分のことを正しく認めてもらえないということが、悲しみの大きな原因になるのです。
今日の聖書の中に出てくる人は、パリサイ人とヘロデ党の人が新たに登場してきます。彼らを連れて来たのは、前から続いている祭司長や律法学者たちです。この人たちは、人からどう見られているかということが、気になって気になって仕方がない人たちです。今日の話は、まさにそういう中で、誰の顔色を見るのが正しいのでしょうかというような問いかけがなされているところです。
さて、まず今日出てきた「パリサイ人」という人たちですが、この人たちは宗教的な熱心さが特徴で、律法を守ることを大切にしてきた人たちです。そして、当時のユダヤ人たちの信仰の代表者と言ってもいいような人たちでした。そして、もう一方の「ヘロデ党」というのは、イスラエル人でありながら、当時のイスラエル近郊を支配していたヘロデ・アンティパスというローマの総督の政治を支持する人たちのことです。つまり、長いものには巻かれろというような考えで、時の支配者であるローマの権力に従うことを表明していた人たちのことです。イスラエルのこれまでの伝統を大切に考える人たちと、ローマに従うことも仕方がないという人たちとでは本来、相容れない考え方のはずです。けれども、この両者は以前から主イエスを懲らしめるという点では一致していたので、ここでも手を取り合って、主イエスを陥れようとやってきたわけです。
このパリサイ人とヘロデ党の者たちは、主イエスにこう尋ねました。14節です。
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」
いろいろと感じるところのある質問です。まず、とても慇懃な物言いです。しかもここで「あなたは人の顔色を見ないで、真理に基づいて神の道を教えている」と言っています。神の真理に基づいて生きるならば、人の顔色を恐れることはないと、そう自らの口で言っているわけです。断りにくい状況を作り出しておいて、質問の本題に入ります。カエサルに税金を払うべきか払わなくていいと考えるのかという質問です。
それは、少し考えてみればすぐに分かることですけれども、カエサルに税金を払うべきだと答えればパリサイ人はニヤリとほくそ笑むわけです。誰も、好き好んで支配者の国に税金を払いたい人はいませんから、「税金を払うべきだ」と答えればユダヤ人たちは主イエスから去っていくと考えたのです。けれども「払わなくてもいい」と答えれば、ヘロデ党の者たちがニヤリと笑う番です。主イエスをヘロデ・アンティパスの前に突き出して「カエサルに敵対する考えの持ち主だ」と告発できる理由を得ることになるからです。
それで、主イエスはデナリ銀貨を持ってこさせました。そして、その銀貨に誰の肖像と銘があるかとお尋ねになられます。当時の銀貨にはローマ皇帝の刻印が刻まれています。それは、このお金はローマがその価値を保証しているということになるわけです。けれども、この時代、神殿で神様に犠牲のいけにえを捧げる時には、このローマの銀貨を使うことができません。それで、神殿には両替商というのがいて、神殿用のお金と交換していたわけです。もちろん、そこでは手数料を取ったわけです。そこにも、神殿側の欺瞞があるわけです。私たちはユダヤ人だからローマに税金を納めなくてもいいはずだなどと言ってみたところで、当の神殿側は、ローマ銀貨の両替をして手元に残るのはローマのお金ですから、当然のようにローマの権力を認めて、そこから収入を得て生活をしていたことになります。しかも、デナリ銀貨を求められると彼らからは、さも当たり前のように、このデナリ銀貨がさっと出てくるわけです。彼らは普段の自分たちの生活を棚に上げて、主イエスを陥れるためにこのような質問をしてきたことは一目瞭然なのです。
主イエスはそのお金をご覧になりながらこう言われました。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
これまでの翻訳は「カイザルのものはカイザルに」となっていましたから、カエサルと変わって少し変な感じがするかもしれませんが、この当時のローマ皇帝はユリウス・カエサルといいます。それで、一般的な表記に合わせて、今度の新改訳2017の翻訳では「カエサル」となりました。
有名な言葉です。「カエサルのものはカエサルに返しなさい」。このお金は皇帝の銘が入っているのだから、皇帝に返すべきだ。つまり、税金は支払うべきだということになります。形としては、ローマに税金を支払うことをお認めになられた形です。ここまではよくわかるのです。けれども、主イエスのお答えはここで終わりませんでした。「神のものは神に返しなさい」と言われたのです。
「神のものを神に返す」というのはどういう意味なのでしょうか。祈祷会でみなさんに聞いた時に、いろんな答えが出てきました。別の聖書箇所を開きながら、「霊とまことをもって神様に礼拝しなさい」という意味ではないかと言われた方もあります。「ちゃんと十分の一の献金をしなさい」という意味ではないかと、教会の会計の方は言われました。
問題は「神のもの」とは何を意味するかということです。お金にはローマ皇帝の肖像が刻まれているのです。そこで、思い出すのは創世記の1章26節です。そこでは「さあ、人をわれらのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と書かれています。人間は神のかたちに想像されたと書かれている箇所を思い起こすわけです。私たちには神の肖像が刻まれていると聖書はその冒頭で宣言しています。そのように理解されてきた言葉です。
主イエスはここでこのように問いかけられたのです。「あなたは神のものではないのか」神のかたちに造られた私たちは、いや私たちだけではない周りの人も、ローマの皇帝カエサルもまた、神によって造られたのではないのか。神のものであるならば、神にすべてをかえすべきだと主イエスはここでお答えになられたのです。
冒頭で、私たちは人の顔色を見てしまうことがあるのではないかという話をしました。私たちは、そういう中で自分の味方をつい探してしまいます。同じ考え方をしている人、同じような趣味を持つ人、同郷の人、同じ大学の卒業生、同じ国籍の人、同じ宗教を信じている人。そういう中に所属しているときに、どこかほっとするのです。自分は一人ではない。自分には理解者がいる。そう考えるのです。
けれども、私たちはもっとも本質的なことを忘れてしまっているのです。私たちは神のものであるということを。私たちは神のものであるということが分かると、そこには本当の自由があります。人の顔色を見ることから解き放たれるのです。
今日のこの後で総会が行われます。いつもそうですが、総会の時になると委任状がたくさん出されます。時間が拘束されるからということもあるのかもしれませんが、総会の時に、どうしても人と比べてしまうということが起こってしまうようです。あの部はよくやっている。自分はどうだろうかと比べて落ち込んでしまう。総会で出される意見を聞いていると、自分への批判ではないのかという思いを持つ方もあります。もちろん、いろんな意見が出ます。厳しい思いになるときもあると思います。けれども、大切なことは、周りが自分をどう見ているかということが、私たちの本当の評価ではないということです。
私は神のものである。神が私のことを誰よりも知ってくださっている。ここに慰めがあります。そして、ここに自由があります。人の顔色を恐れることなく、生きることができる励ましがあるのです。
私たちの主は意地悪なお方ではありません。私たちの主は私たちの良いところも、弱いところもすべて知っていてくださるお方です。そして、この教会の良いところと弱いところも知っておられるお方です。この主と共にあるときに、私たちは平安を得るのです。
今年の年間聖句は、「平和を求め、それを追い続けよ」というみ言葉です。平和は、平安という言葉です。争いがない状態を指すだけではなく、不安から自由にされるという意味でもあります。私たちは神のものである。ここに私たちの平安の根拠があるのです。この主に覚えられているので、私たちは平安を保ち、人の顔色を恐れずに、歩むことができるのです。
そして、最後に大切なことがあります。それは「神のものを神に返す」ということです。
「神にお返しする」のです。私たち自身を神にお返しする。どうやってお返しするのか、この平安を与え、私たちに自信と喜びを与えてくださる神に、私たちはどう応えていくことができるのでしょう。確かに、礼拝を捧げることもそうでしょう。献金を捧げることもそこに含まれるでしょう。この神を喜んで生きることもそうです。どうやってお返しするのか。それは、私たち一人一人に託されている神様から宿題なのです。私は何者なのか、私はどこに所属しているのか。その問いの答えは、私は神のものであるということの中にあるのです。そして、だから、私たちはこの神のものとして、人の顔色を恐れるのでなく、自信をもってこの神にお返ししていく歩みをしていくのです。
お祈りをいたします。