2019 年 11 月 10 日

・(召天者記念礼拝)説教 テサロニケ人への手紙第一 4章9-12節「主と共に生きる」

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2019.11.10

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝です。そのために、今朝はご家族を天に送った方々とこうしてともに集いながら礼拝の時を持っています。そして、聖書が死について何を語っているのか、あるいは、聖書が語っている救いとは何かということに耳を傾けながら、私たちもまた自分の備えとなればと願っています。

 今日の聖書の特に大切なことが書かれているのは10節です。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

 目覚めていても、眠っていても主と共に生きるということが、ここで語られています。少しだけ説明すると、この目覚めていても、眠っていてもという表現は、まさに一日中主と共に生きているということでもありますが、もう一つの意味は、「眠っている」という言い方は「すでに死を迎えていたとしても」という意味です。今、礼拝でこのテサロニケ人への手紙第一からみ言葉を聞き続けています。この前のところですでに出てきていますが、パウロは主イエスの十字架と復活によって支えられている人が死を迎えたときに、もうすでに死に支配されていないのだということを表現するために、「眠っている」という表現を使っています。つまり、生きている時も、死んでいる時も、主と共に生きるようになるために、主は私たちのために十字架の上で死んでくださったのだということを書いているのです。

今日、私たちはすでに死を迎えた方々、パウロの言葉で言えば眠っている人のことを心にとめながら礼拝をしています。この方々は、今、死に支配されているのではなく、主と共に生きるようにされているということを、この聖書は語っているのです。

 ここに、聖書が語る慰めがあります。これが、聖書の約束です。主イエスは生きている時も、死を迎えたとしても、その人と共に生きてくださるために十字架にかけられ、その人を復活のいのちで支配してくださるので、今、主と共に生きているのだということを私たちは信じることができるのです。

 そして、パウロはこの手紙を通して語り掛けているのは、天に送った家族のことではなく、今この地上で生かされている者たち、私たちの方に目を向けさせます。
 1節と2節です。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人がやって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

 ここに「その時とその時期」とか「主の日」と書かれているのは何の日かというと、聖書が語り続けている再臨の時です。「再臨」というのは、主イエスがもう一度この世界に来られる日のことです。この日のことはいろんな言い方があります。「世の終わりの時」とか「終末」という言い方をすることもあります。「裁きの日」とか「大審判の日」などという表現をすることもあります。主イエスがもう一度この地に来られる日、この日、再臨の時になると、この世界は神の裁きがあると聖書は書いています。それで、何とも言えないような恐怖を煽り立てるような言い方をすることがあるわけです。

 こういう言い方は人が理解をするためには分かりやすいので、悪いことをしたら罰が当たるとか、そんな悪いことばかりをしていると神様に裁かれてしまうと言うような方法で、教会に限らず、世界中のありとあらゆるところで用いられている方法です。

 けれども、聖書は確かに神の裁きとか、終わりの時という言い方をしていますが、このような恐怖で縛って、人が正しい道に戻るようにという誘導はしていません。ここでも、「主の日」という表現です。「主の日」という言葉には、少しも暗い影はありません。今、教会では礼拝をささげる日のことを「主の日」と呼んでいるくらいですから、主の日に、礼拝に来て、神様に裁かれることになったら誰も教会に来たくなくなってしまいます。

 ここで、パウロが語ろうとしているのは、主が来られる日という、聖書が語っている事実です。教会の人々はその日をとても心待ちにしていました。それは怖い日ではなくて、うれしい日として受け止めているからです。もう街でも少しずつクリスマスの準備が始まっていますが、このクリスマスまでの期間のことをアドヴェントと言います。主が来られる日を待ち望む期間を、楽しく待っているのです。というのは、主が来られる日というのは、完全な救いが世界にもたらされる喜びの日、うれしい日だからです。

 ただ、そうはいっても、ここを読むと、2節では「主の日は、盗人が夜やってくるように」という言い方をしていますし、3節では「妊婦の産みの苦しみ」に例えたりもしています。ここからも分かるように、この主の日には二面性があるわけです。子どもが生まれることは嬉しい日です。けれども、そこには痛みも伴うのです。主の日は嬉しい日なのですが、すべての人にとって嬉しいとはかぎらないのです。だから、3節の後半では「突然の破滅が彼らを襲う」などという強い言葉が使われているのです。

 ここから分かるように、「主の日」とここで言われているのは「タイムリミット」です。主の福音を受け取ることができるタイムリミットがある、限界があるということです。そして、この「限界がある」ということの中に、神の愛が隠れています。

 結婚しておられる方はイメージしやすいかもしれません。相手に対して我慢の限界があるということを経験されることがあると思います。この限界を超えると、「ブチ切れる」なんてことが時々あると思います。なぜ、その時怒ってしまうのかというと、相手のことを愛しているからです。怒らなくなったら反対にかなり危ない状態です。もう関心がないわけです。「愛する」という言葉の反対語は「無関心」だといいます。
 神は、私たちに、そして私たちのすることに関心を持ち続けておられます。愛しておられるからです。そして、愛しておられるからこそ、その限界を決めておられるわけです。それが、「主の日」、聖書が語る「終わりの日」です。

 けれども、教会は長い間、もうすぐ主の日があると待ち続けて、2000年たってしまいました。あまりにも長い間待ち続けていますと、待っている方も飽きてしまいます。だんだん、もう来られないのではないかという疑いの心を持つようになってしまうわけです。これは、このテサロニケの教会に手紙を書いた時にすでに起こっていたようですから、私たちの時代になると当然そういうことが起こっているわけです。
 そうなると、実際にはどういうことになるかというと、神の方から来られるよりも先に、私たちの方が寿命を迎えて、死を迎えるということになります。ですから、「その時と時期」などと言われているこの言葉のもう一つの意味は、「私たちの終わりの時」という意味合いも当然含まれてくるわけです。

 私たちの死も、思いがけない時にやって来ると言うのです。これは、私も牧師をしておりまして、何度か葬儀をさせていただきました。いつも、そのたびに思わせられることです。家族の方々の思いとしてはもう少し長く生きてほしかったという願いがいつもあるということです。そして、そこにあるのも、家族の愛です。愛があるから、そのタイムリミットを受け入れがたく感じるのです。

 だから、パウロは言うのです。その日は思いがけない時に来る。そして、その日が必ず来るのだということを心にとめる必要があるのだということを、ここで語っているのです。

 もちろん、第一の意味は神の御前で生きているということを忘れて、怠惰な生き方、闇に生きる、夜生きる、人前に見せられないような生き方をしないで、光の中を生きるということ、昼の子として生きなさいということを心にとめるように促しているのです。神の前に正しく生きるということは、当然のことですけれども、家族の前にも正しく生きるということです。隠し事のない生き方をする。後で色々出て来たなんていうことがないように、高潔に生きると言うことです。

 パウロは言うのです。9節。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。

 神は、人に怒りの鉄拳を食らわせるために主イエスを与えたのではなく、人が救いを得て、家族みな光の中で、みなが平安をもって、みなが隠し事のない生き方ができようになることを願って、主イエスを与えてくださったのです。

 聖書が語っていることは、いたってシンプルです。神の愛を受け取って、神のみ前に正しく生きるようになることが、神の願いなのです。これが神の御心です。そして、その神の愛、主イエスによって示された十字架と復活を受け取るなら、私たちが生きている時も、死を迎えたとしても、主が共にいてくださって、いつも安心して生きられるようになると言うことを語り続けているのです。

 この説教の準備をするなかで、加藤常昭先生の説教を読みました。この牧師は、今は80代の牧師ですが、日本中の牧師の説教がより良いものになるようにと、説教塾という運動を立ち上げて、牧師たちに説教の研鑽の場を提供してくださっているとても優れた説教者です。この加藤先生はこの箇所から説教をしているのですが、他の方の説教と切り口がまったく違うのです。

 ある彫刻家の自伝の文章を冒頭で紹介しながら説教がはじまっています。この方は自分が子どもの頃、教会の日曜学校に通っていたのだそうです。この人には三歳年上に初恋の人がいたそうです。そしてある時通っていた教会で遠足があった。その遠足の時に、少年はうかれてかぶっていた帽子をさかさまにかぶったのだそうです。そうすると、この年上のお姉さんが「あなたはばかねぇ」と言ったというのです。そこでこんなことを書いているのです。自分は弁護士の息子で、まわりからも期待されている子どもであったのに、人に見せるためにしたこの帽子を逆さまにかぶるという行為を恥ずかしく思った。この一言が自分には決定的な一言になったと書いているのです。この文章を書かれた彫刻家はこのでき事を記した文章のタイトルを「分水嶺」としていたのだそうです。

 私は、この説教の冒頭になぜ、こんな話を持って来たんだろうと不思議におもっていたのですが、こういう経験は誰にでもあるのではないかと、加藤先生は言われるのです。そうやって人の目を意識して生きるようになるという経験を誰もが持つ。そして、そういう他人のまなざしの中で生きるということから、人はなかなか自由になれないのではないかと言うのです。そして、みじめな自分の姿からなかなか自由になることができない。どうしたら、人はこういう人の目線から自由になれるのだろうという中で、今日の聖書の言葉を語るのです。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

 この10節の聖書の言葉、主が共に生きてくださるということが分かるときに、人の目を意識する不安から自由にされて、ああ、私のことを主が見てくださる、よい時も、悪い時も、立派な時分も恥ずべき自分も、すべて受け入れて、すべて理解したうえで、共に生きてくださるということが、どれほど人の心を自由にすることになるのか。そのことが語られているのです。

 私たちの主イエスは、私たちを自由にしてくださるお方です。いい時だけではない、人様の前で自分を隠したくなるような影の自分の姿をも知っていて、なおも、私たちを罰するのでなく、救いを与えてくださるというのです。そういう私たち自身を受け入れてくださるということ、そのこと自体が私たちの救いなのです。

 私たちの主は、生きている時も、眠っている時も、私たちと共に生きてくださるお方です。この主を知るということは、人の目を意識しながら不自由さを感じて生きることから自由にされるということなのです。

 そして、主の日が訪れたとき、死が訪れたとき、私たちはこの主が共にいてくださるということがいよいよはっきりと分かるようになるのです。主イエスはこの救いを与えるために、十字架にかかり、そして三日目によみがえることを通して、死に支配されることのない道があることを明らかにしてくださったのです。

 私たちは人目を気にしないで自由に生きることが出来ます。それが、光の中を生きると言うことです。人に隠さなければならないような生き方を捨てることができるようなる。私たちが正しく生きることができるために、私たちを愛してくださった主イエスの愛を知ることができるときに、闇の業を捨てることができるようになるのです。

 主イエスが私たちと共に生きてくださるならば、私たちは光の子として生きることができるのです。安心と平安を持って生きることができるようになるのです。

 そして、今日、私たちは主の御もとで今も共に歩んでいる家族のことを心にとめながら、私たちも確かな光の中に身をおくことを心にとめたいと思うのです。

お祈りをいたします。

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