・説教 テサロニケ人への手紙第一 5章23-28節「祈り~完全に聖なる者となる~」
2019.11.24
鴨下 直樹
先週、子ども祝福礼拝の説教の時に、「恵みと平安」この二つが、パウロが語る祝福の中身だと言うことをお話しました。私たちの教会では子育て支援のプログラムとして教会ではノーバディーズ・パーフェクトというプログラムを用いています。ノーバディーズ・パーフェクトというのは、「完璧な人は誰もいない」という意味です。ここに集ってくださっている親御さんに、子育てを完璧にできないことで不安になるのではなくて、そういう弱さを誰もが持ちながら、子育てをしているということに気づき、子育ての勘所をお互いの言葉で気づきあっていけるようになっていくという願いでつくられているプログラムを提供しているわけです。
先週も話したのですが、神が人を創造されたとき、まだ人間が何かをするまえに、もうすでに神は「非常に、良い」と言ってくださいました。私たちが何かができるとか、できないとか、そういう私たちの側のする事柄で神は人を見ておられるのではなくて、神は私たちの存在そのものを認めてくださっているのです。
けれども、人は神からそのように完全な者として造られたのにも関わらず、神から与えられた自由意志を用いて、神がいなくても、自分のやり方で生きていく方法を選び取ってしまいました。その時に人が失ってしまったのが、「神のかたち」、「神の霊」を失ってしまったのです。その時から、私たちは神がわたしたちを創造してくださったような完全さというものを失ってしまったのです。
何か、先週と同じような話をしていますけれども、今日のところは、先週の説教の続きのようなところがあります。パウロはここでこのように祈っています。
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なる者としてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」
テサロニケ人への手紙第一からみ言葉を聞き続けて、今日で最後のところまで来ました。パウロがテサロニケの教会にあてた手紙の結びの言葉がここに記されています。パウロは、ここで最後に「平和の神」を語ります。平和という言葉は、平安と訳されていることばとおなじ言葉です。そして、最後の28節では「主イエス・キリストの恵み」を語ってまとめています。つまり、パウロはこの手紙の冒頭から、終わりに至るまで「平安と恵み」という神が私たちにもたらしてくださる祝福を語り続けているのです。このことも先週お話ししたところです。
パウロはここで祈っています。この祈りは
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように」
と祈っているのです。
完全に聖なる者とはどういう者となることなのかというと、先週お話したことが、まさに、このことを表しているのですが、神が人間を創造された時の状態、神が御自分のすべての技を御覧になられて、「非常に良い」と言われた、あの神の創造された時の人間の姿を取り戻すことができるようになるのだということを、ここで約束しているのです。
はじめに先週の説教を少しふりかえりながら、そこでお話したのは、人はエデンの園の中央に植えられた善悪の知識の木の実を取って食べた時、人間から神の霊が失われてしまいました。そこから、人間のことを表す時に、「霊」と「からだ」という二つに分けて考える考え方があります。これを二分説とか、二分法といいます。それに対して、いや、人間は霊と魂とからだと三つに分けられるという考え方もあります。これを三分説とか、三分法といいます。聖書はほとんどが二分説で書かれているのですが、唯一この手紙でパウロは三分説で語っています。それが、この23節の「霊とたましい、からだ」という分け方です。
ここで、少し説明が必要だと思うのですが、この「たましい」という言葉が日本の教会、特に福音派の教会では独特な響きを持って語られてきました。「魂の救いのために」という言葉が語られたりするわけです。これは、昔の伝道者、特に大衆伝道者と呼ばれた先生方がよく用いた言葉です。「魂の救いのために」という時に、なんとなく、そこには体はやがて滅んでなくなってしまうけれども、魂は永遠に残るという考え方がありました。ところが、この考え方はギリシャのプラトンという人が考えた考え方ではありますが、聖書の概念ではありません。ですから、まず、私たちはこのような「魂は永遠である」という考え方は一度あたまの中から取り除いて考えていただきたいわけです。
今度、新共同訳聖書に代わって訳された協会共同訳では「霊と心と体」と訳しました。つまり、この「魂」と訳されている言葉は「心」という意味で理解した方が間違いないという判断がここにはあるわけです。この魂という言葉の意味は「知・情・意」を表すと言われています。知識と感情と意志のことです。そして、この三つの働きというのは「心」の働きであるともいうことができるわけです。私たちの人格や内面を示すものです。私たちは、体と心を持っている。そういうとよく理解していただけるのではないかと思います。
パウロはここで人の全体を示す言葉として、私たちのからだと、心と、そして私たちが天地創造のとき罪を犯して以来、失ってしまった「神のかたち」である「霊」を、神から聖霊を与えられることによって取り戻すことができると語ります。パウロはここで、私たちはやがては心もからだも霊もすべて完成された完全なものとされるのだと祈っているのです。これこそが、私たちの救いの完成された姿だといってもいいのです。そして、このことを、聖書は別の箇所では「キリストのようになる」という言葉で表現しています。私たちはこの完成された聖なる者とされる道を歩んでいるのです。
ただ、そうすると、この後半部分の祈りの言葉がとても気になります。
「私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」
とパウロは祈っています。
こういう言葉を私たちが見るときに、私たちは心の中でどこか諦めてしまう心が出てきます。私たちは完全になんかなれっこないし、責められるところのないものとして保たれるように、と言われてしまうと、何か途方もないようなことを言われているのではないかという気持ちになって来るのです。
私たちには自由意思が与えられています。私たちは、私たちを信頼して自由に決断をすることをゆるしてくださるお方に、自分から応答していく責任を担っています。けれども、この自分の判断とか、決断をすることの責任は私たちにあるということを考えると、私たちは、完璧ではないわけですから、どうしても間違いを起こしてしまったり、神様を悲しませてしまうことをしてしまうわけです。そこに目をとめ始めると絶望的な気持ちになってしまうのかもしれません。
けれども、この祈りは、私たちが完全なものとなるように保たれるようにしなければならないと言っているのではありません。これは、祈りです。文法用語で言うと、「希求法」といいます。希望の求めと書いて「希求」です。
平和の神が、わたしたちをやがて完全な者へと変えてくださるのだとの希みに、わたしたちは生かされているのだと祈っているのです。
しかも、ここでパウロは続けてこう祈っています。24節です。
「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます」
とまで念を押すように語っているのです。
先日、CPIカンファレンスに参加した話を前回もしましたが、今回も少し、その時に聞いた話を少しお分かちしたいと思っています。この会議は、チャーチ・プランティング・インスティテュートと言いますが、日本にいる宣教師たちの研修のために行われている会議です。この会議に、今回ドイツのアライアンス・ミンションの代表が参加されて、私たちの教団の宣教師たちも参加するようにということで、宣教師たちも参加しました。それと、同時に、この教団の宣教ビジョン委員会のメンバーの牧師たちも一緒に参加したのです。余談ですけれども、この委員会の名前は、頭文字をとって「MVP」と呼んでいます。
このカンファレンスの最終日に、ゲストスピーカーとして来ておられた日本人の牧師がこんな話をされました。
少し前のことですけれども、その先生は先日行われたテニスの全仏オープンの三回戦、錦織圭のベスト16をかけた試合を見ていたんだそうです。その試合は3時間を超える熱戦で、この牧師は家で夜の12時過ぎまでNHKのテレビで見ていたんだそうです。テレビの画面には<ライブ映像>とあったのですが、実は放送時間のズレがあって、実際の試合から30分ほど遅れて放送されていたのだそうです。その牧師は試合をずっと見ていましたが、もうだんだん旗色が悪くなってきて、誰から見ても、もうここまで来たら勝ち目がないというところまできてしまった。もうこれ以上錦織選手の負ける試合は見たくないと思って、テレビを消して、二階の寝室に上がって寝ることにしたのだそうです。ところが、ベッドに入るときに、この試合が実は30分遅れて放送されているということに気がついて、寝る前に最終結果を携帯のネットニュースでチェックしたんだそうです。するとなんと逆転勝ちしているという結果が表示されていたのです。その結果を見て、もうどうみても勝ち目がないと思えた状況から錦織選手はどうやって逆転したのだろうと思って、もう一度一階に戻って、まだテレビでは放送中の試合を見始めたというんです。
すると今まではもう負けると思っていて見たので、面白くなかったのですが、この後勝つのだということが分かって見ると、試合の見方が全然変わってきたというのです。今度は、ここからいったいどうやって逆転するんだろうと、結果が分かっているので、もうあとはワクワクしてその試合を見たというのです。同じ、試合を見ているのです。どうしようもないピンチの場面なのに、いったいここからどうやって、逆転をしたのか、ワクワクが止まらなかったのだそうです。
皆さんの中にもその試合を見た方があるかもしれません。見た人は皆、口をそろえて、あの試合はすごかったと言います。もう絶体絶命のピンチであっても、結果が分かっていると安心してみられるのです。そして、その牧師はこう続けました。私たちの最後はもう決まっているのです。私たちはキリストの勝利に連ねられている。もう最後はわかっているんだから、心配しないで、神に期待したらいいのだと。
それは、まさにここでパウロが語っていることです。私たちは、やがて、キリストが来られる時、あるいは、私たちがやがて死を迎えて神の御許に行く時、その時私たちは心も体も、霊も完全な聖なる者とされて、神の前に立つことになるのです。だから、私はだめだ、私のようなクリスチャンは中途半端だからダメだとか、自分のようなちゃんとできない弱いクリスチャンがなどと考える必要はないのです。神は、そのような私たちがここから大逆転をして勝利を収める道をすでに備えていてくださるのです。
このことを信じて心に止めたらいいのです。私たちのゴールは、神が私たちを完全に聖なる者と変えてくださる。これが、私たちに与えられている神からの約束です。今の時点ではにわかには信じがたいことです。けれども、主はこの大逆転劇を私にも、私たちにも確かに成し遂げてくださるのです。
そして、パウロはこの後続いて3つのことを語ります。一つは、
「私たちのために祈ってください」
とあります。パウロたちのためにも、同じように祈ってほしいということです。パウロ先生だから大丈夫ということはないのです。パウロも人の祈りを必要としている弱さがあるのです。そして、私たちもお互いにそのような弱さがあることを覚えながら、お互いのためにも祈り続けるのです。
そして、2つ目は
「聖なる口づけをもってあいさつしなさい」
ということが語られています。口づけをもって挨拶するという習慣がどこから始まったのか、詳しいことはわかりません。けれども、これはおそらく教会の一つの大きな特徴だったはずです。教会には、ユダヤ人も異邦人もいます。テサロニケの町にもテサロニケの人だけでなく、いろんな民族の人々が集まっていたはずです。そこには いろんな文化や習慣があったはずです。奴隷もいたかもしれません。男も、女もいたのです。そういう者同士が、互いに挨拶として口づけを交わす。そこに神の愛があることをそのまま表したはずです。私たちもお互いに口づけをしようなどと言い始めると、かなり抵抗があると思いますが、最初の教会の人々の中にはそういう人も何人もいたと思います。それでも、パウロが語るようにしたのです。そうやって、お互いのことを受け入れあっていることを、表したのです。大切なことは、私たちもまた、互いに愛しあい、受け入れ合うということです。それをどのように表すことができるのか。私たちは、そのことを心に留める必要があります。
そして、3番目に、
「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」
と書き記しました。ギリシャ語ができる人、ヘブル語の人、色々な国の外国人もいたはずです。言葉が読めない人もいたでしょう。そういう一人一人がみな同じように、この手紙のことを聞けるようにすることをパウロは求めました。誰一人、仲間外れにならないよう求めたのです。
パウロがここで書いているのは、お互いに対する具体的な配慮です。お互いを重んじるということです。愛を感じることができるようにするということです。例外なしにです。
なぜなら、私たちの主は平和の主だからです。平和の主は私たち一人一人に心を注ぎ、誰もが、この神の愛を感じることを願っておられるのです。
だから、パウロはテサロニケ人への手紙の結びにこう記しました。
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」
神の恵み、それは神が私たちのためにすべてのことを備えていてくださるということです。
神は、私たちに恵み豊かな方なのです。この神の恵みがあなたがたにも見えるように、この神の恵みが見える、神が私たちのためにすべてのことをしてくださっている。もうすでに私たちが完全に聖なる者となるために、私たちに主イエスを与えてくださり、教会の仲間を与えてくださり、今も変わることなく私たちのために恵みを注いでいてくださっていることが分かりますように。そう祈っているのです。
このことが分かるなら、私たちは平和を持つのです。神との平和、そして人との平和をも持つのです。
今年の年間聖句、「平和を求め、それを追い続けよ」。この御言葉の答えは、この神の恵みが見えるということにかかっているのです。
お祈りをいたします。