2019 年 12 月 1 日

・説教 創世記11章27節―12章4節「75歳からの新しい冒険」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:56

2019.12.01

鴨下 直樹

 今日からアブラハムの生涯を通して、主なる神がこの世界にどのように神の救いの御業を行われたのか、この神の御業に心をとめていきたいと願っています。

 創世記12章の1節から4節を中心に、み言葉に耳を傾けたいと思いますが、その少し前の11章の27節から、先ほど聖書のみ言葉を聞きました。11章にはアブラハムの父テラのことが記されています。テラには三人の息子があります。アブラム、ナホル、ハランです。

 家系図が頭に描けるとよいのですが、ハランの娘ミルカは、お父さんであるハランの兄のナホルと結婚します。ですから、テラの息子たちはカルデヤのウルというメソポタミヤ文明で栄えた町で、それぞれに生活していたということが分かるわけです。
 そして、アブラムはサライと結婚しますが、「サライは不妊の女であった」と書かれています。そして、そのあとで、テラは息子のアブラムと、ハランの息子であるロトを連れてカルデヤのウルから出発したと書かれています。この家系は、とても重要な意味をもっていますので、注意深く理解する必要があるのですが、アブラムの末弟であるハランはウルの地で死んでしまっています。ハランには三人の子どもがあり、ナホルの妻となったミルカと、イスカとロトという子どもたちがいました。アブラムはその甥のロトと一緒にウルの地から出て来たというのです。

 つまり、ウルを出てきたのは、子どもがいないアブラムと、父親の跡継ぎではない若者のロトだけが、テラにつれられてカルデヤのウルの地を出てきたわけです。このことが、創世記の11章の最後に書かれているのです。

 創世記の11章までに何が書かれているかというと、神が「非常に良い」と言われた神の創造の御業から、人が罪を犯し、兄弟で争い、人々は自分勝手に生きるようになって、大洪水による裁きを経験します。またバベルの塔を築き上げて自分たちの権力を誇示しようとします。神は人々の言葉をバラバラにされて世界に散らされました。神の民たちはここにきてついに、希望のない家族だけとなったという、人間の悲惨さがここに記されているということなのです。

 しかも、聖書を読むと、ヨシュア記24章の2節でヨシュアはこう書いています。

あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。

 アブラムの父テラは、主なる神ではなく、メソポタミヤの神、月の神を礼拝する信仰だったようですけれども、そういう神々に仕える者だったのだということが書かれています。

 罪の悲惨さというものは、ここまで来て、テラの子であるアブラムには子どもがなく、また父を亡くした若者ロトも、おそらくハランの子どもで後継者となるイスカがいるので、行くところがなくなった者としてアブラムについて旅に出た。そんな希望のない中で、何か新しいものはないかと、ささやかな可能性に期待しながらハランまで来たけれども、それ以上旅を続けることができず、そこでテラは死んだのだということが書かれているのです。

 この何ともいえない重たい空気を読むときに、私たちは今、私たちが置かれている状況に当てはまるような気持ちになるのかもしれません。

 先日、ローマ教皇が日本に滞在され、日本でもこのことがかなり大々的に報じられました。中でも、東京カテドラル聖マリア大聖堂でなされた青年たちのために開かれたミサで、三人の若者がいじめなどの経験について語り、ローマ教皇がそれに答える形でこんなことを語りました。「社会が表面上は発展していたとしても、心の内側では中身のない空っぽの人形のようになっている。まるでゾンビのように、彼らは心の鼓動を止めている。なぜなら、誰かと人生を祝いあうことができないからだ。」そんなことを語られました。心が動きを止めてしまい、まるでゾンビのように動いてはいるけれども、生きているとはいえない。そんな現代の若者の姿を言い当ててみせたのです。

 あるいは、東京ドームで五万人の人が入ったミサでは「日本は経済的には高度に発展していますが、社会で孤立している人は少なくない」とも言われました。

 希望のない重苦しい雰囲気の中で、人の心が通い合わない、経済的な繁栄ばかりを追い求めて、大きなものを取り残してきたのではないかという問いがそこでもなされていました。

 教会でも、若者が少ないとか、高齢化社会に突入したとか、経済的な先行きが不透明だとか、近隣の国々との不和が語られてもう何年経つのでしょうか。

 創世記11章の終わりの世界、それは、希望が見えない中で、なんとかあがこうとしている者の姿があります。神から見捨てられた世界の中で、神なしでやっていくためには万策尽きた。そして、何か変えることを求めたテラもハランで死んだ。そう告げているのです。

 しかし、そういう絶望的な世界の中で抗おうとしているアブラムに、神は語りかけます。

あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

 これこそが、福音です。絶望の世界の中で響きわたる神の祝福の知らせです。これまで、テラやアブラムは、「あなたの土地」と「あなたの親族」という二つの大きな価値観の中で生きていました。大都市の繁栄と、その地に生きる親族、この二つのものがそろっている時に、人はその世界で安定した生活を得ることができると考えて来たのです。それが、この世界で生きるための基盤でした。成功するための条件、それが土地と、親族です。土地がある。しかも利益を生み出す土地。繁栄を約束する土地。そして、そこに生きることを助けている人々。その二つが揃っていることが大事だったのです。そして、家を建てる。それを土台として、自分の生活を築き上げることが、祝福なのだと考えられていたのです。

 けれども、それがすべての条件が整った時でした。父親が死んでしまう。子どもが生まれない。この世界の成功のレールからひとたび脱線するならば、もう繁栄のゴールには到達することはできない。それが、この世界のルールです。

 だからリスクマネージメントをするのだとか、保険を掛けておくのだとか、前もって根回しして、人脈を作って、自分が自由にできるフィールドをいかにして獲得できるのかが大事なのだとエコノミストは言うのです。

 しかし、神はアブラムに言うのです。そんなもの全部捨ててしまえと。ただ、「わたしが示す地へ行きなさい」とだけ語りかけるのです。リスクがどれだけあるかとか、それがどれほどのチャレンジなのかだとか、そんなことは何も考えるな。「わたしが示す地へ行け」と神は言われるのです。しかも、向うべきところがどこかということさえ、ここで神はまだ語ってはいないのです。

 冒険を始める時、そこにはわくわく感があります。今日は、下仁田教会の青年たちが来てくださっています。T君は来年からこの芥見に引っ越してきて、神学校に通いながら、新しい世界に踏み込もうとしています。きっといまわくわくした気持ちがその心の中に満ちているのだと思います。そのために、住む家を確認して、仕事を見つけて、通う神学校のことについて調べて、そうやって、まず生活の基盤を整えて、準備をしてスタートする。きっとここから何かが始まることを期待している若者を見る時に、私たちにも、さわやかな風が吹いてくるような気がします。それは、すばらしいことです。私たちは本当にそのことに期待しています。

 しかし、今日、私はここにいる多くの70代の方々にも同じように希望を持ってほしいと語りたいのです。
4節。

アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 子どものない75歳のアブラムに、主は語りかけたのです。「わたしが示す地へ行け」と。新しい土地がどんなところだとか、年齢がどうだとか、子どもがいないとか、自分の中にないものに目を止めるな。自分が必要だと決めつけているものに固執するな。わたしを信じて、ついてこいと、主は言われるのです。

 これだから、クリスチャンはやめられないのです。私たちの神、主ほどその後ろに付き従うことの楽しいお方は、この世界のどこにもおられないのです。私たちが心配する将来の展望も、私たちがこうであればなんとかやっていけるだろうという計画も、私たちが必要だと考える一つ一つの条件も、私たちの主には問題ではないのです。

 この時、アブラムに語られた神の祝福は、今日、とてつもないことになっているのです。細かいことを気にしないで単純に統計的に言うと、今、アブラハムの子孫の数がこの世界で生きている人の数だけ数えても22億人、世界の人口の33%の人がアブラハムの子孫です。この時に語られた神の約束は、まさに文字通り、祝福となっているのです。

 エデンの園を追い出された人類の救いの御業は、文字通り、ここから始められているのです。信仰の歩みのスタート、神の救いの歩みは、この時のアブラムの決断にかかっていたのです。そして、アブラムは主に応えたのです。

 先ほど、ガラテヤ人への手紙3章を読みました。6節から9節にこう書かれています。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

 アブラハムは信仰の人です。「信仰とは信頼と服従である」。これは、神学塾で私に教えてくださった宣教師のエミー・ミュラー先生の口癖でした。主イエスを信頼し、服従する。そこに信仰の道があるのです。この信仰の道は、アブラハムから始まりました。

 そして、先日の祈祷会でお話しくださったのですが、私たちの宣教師でもあるマレーネ先生もその一人です。マレーネ先生は、当時16歳の時に、子どものキャンプのスタッフをしたのだそうです。そのキャンプのテーマは「主の命令で外国人となる」というテーマだったそうで、同じタイトルの本を一冊読んで、キャンプのスタッフとして備えるようにということだったのだそうです。そして、その本を読む中で、これは主が私に命じておられるのではないかと、主の召しを受けて、自分自身、主の命令で外国人になるという道をこの時に決断したのだそうです。マレーネ先生もあと半年ほどで定年を迎えられます。40年以上にわたって、宣教師として働いてこられた、その信仰の土台もまた、このアブラハムに語られた主の言葉だったと言うのです。

 言葉も通じない、文化も違う、それでも主が行けと言われるのだから。ただ、この主の言葉を受けとって、日本に来られたのです。昨日、先週選ばれた次年度の役員と、今の役員とで合同の半日役員会が行われました。その最後に、マレーネ先生の送別会をかねてパーティーをしないとねという会話になりました。マレーネ先生がそんな会話をしていたら、「私はきっとその時泣くと思う」と言われました。その言葉の背後には、日本での伝道のこの時間が本当に幸いな時であったということがそこにあるのだなと思いました。たくさん、大変なことがあったと思います。そして、たくさん傷ついてもきたのだと思うのです。けれども、主が命じられたから、文字通り外国人として日本へ宣教師として福音を伝えて来たのです。 私たちがマレーネ先生を迎えることができたことも、この時、アブラムがこの言葉を受け取って、主に信頼して従ったからです。

 今週からアドヴェントを迎えました。アドヴェントクランツの最初のろうそくに火が灯っています。私たちは、主の約束を心に刻むのです。

 主が私たちに与えられた約束の一つは、私の言葉に従ってくるならば、あなたの名は祝福となるという祝福です。そして、主イエスという御名も祝福の名前となりました。そして、私たちが、主に信頼して土地や親族にしばられることなく、主を信じたみなさんもまた、祝福の存在となっているのです。その祝福は、みなさんからはじまり、その家族や、友人や、みなさんが出会う人たちにと広げられて行くのです。

 主がアブラムを必要とされたように、主はみなさん一人一人をも必要としておられるのです。そして、主はみなさんの周りにも、アブラハムの子らを生み出そうとしておられるのです。こうして、わたしたちは、祝福の存在として、この世界で神が私たちに託してくださる冒険的な歩みを、わくわくしながら生きる者としてくださるのです。

お祈りをいたします。

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