・説教 ガラテヤ人の手紙5章13-26節「御霊によって歩む」
2020.05.31
鴨下 直樹
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今日の17節に、「あなたがたは願っていることができなくなります」という言葉があります。私たちはこの数か月の間、確かに願っていることができない状態がつづいていますから、この聖書の言葉をよく理解できるかもしれません。
コロナウィルスが終息に向かいつつある中で、私たちは少しずつですけれども、自分のしたいことができるようになり始めています。外食をする。誰かと一緒に楽しい時間を過ごす。スポーツジムに行く。いろんな願いが、私たちの心の中に膨らんできています。
今日の聖書箇所のテーマは「自由」です。
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。
と13節にあります。私たちはそもそも自由に生きるように、神は私たちを召した。任命したのだと言うのです。本来は、誰かと楽しく会食をするのも、ジムに行くのも、外食するのも自由です。ただ、パウロはこう続けます。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
この後で、「肉」という言葉と「霊」という言葉が反対の意味の言葉として出てきます。この「肉」というのは、人の心の中に働く自分中心の考え方のことを「肉」と呼んでいます。
私たちは自由に生きていいんだけれども、その自由を自分自身のために使わないで、「愛をもって互いに仕え合いなさい」とパウロは勧めているのです。
ただ、私たちはこういう命令の言葉を見つけますと、もうさっそく「自由」ではない気分になります。なんだ、命令されてるんじゃん。命令に従うなんて自由じゃないじゃん。そんなふうに感じるのです。そして、やっぱり自分の好きなようにやりたいという思いが、頭をのぞかせるわけです。
自由の難しさはそこにあります。命令されてやるのか、自主的にやるのか。どっちがいいのかということになります。今回のコロナの対応について日本のやり方は、「命令しないが、自主的にお願いします」というスタンスでした。そして、見事にそれをやってのけたことを、世界中の国々が驚いています。もちろん命令されてやるよりも、自主的に判断してやる方がいいに決まっているのです。けれどもほとんどの場合はうまくいかないわけで、それで世界中が驚いているのです。そもそも命令されるというのは、その人がちゃんとできないと思っているからです。
確かに、この手紙はパウロがガラテヤの教会の人々に宛てて書いた手紙です。そして、このガラテヤの教会に、パウロはこの手紙の後半では少し強い言い方で書いています。ちょっと怒って書いているという部分がありますから、強い言葉になるのも仕方がないのかもしれません。
ここでパウロは「自由」ということをはき違えてしまわないように、こういう強い言葉を使っているのです。「神は、私たちに自由を与えてくださっているけれども、それを間違えて自分本位になるのではなくて、周りの人を大事にしようよ」ということです。
そんなことも、私たちは毎日、テレビをつければそういう報道ばかりですから、今更聖書を持ち出さなくても、もう充分ということなのかもしれません。
パウロはここで、そういう前置きをしながら、周りの人を大事にするんだよということを、ちゃんとできるようになるために「御霊によって歩みなさい」と勧めています。16節です。
人に迷惑をかけないようにしましょうというのは、消極的な生き方です。周りの人を大事にしていきましょうというは、積極的な生き方です。自分の方から行動していく、この人の心の動きのことを「愛」と言います。
人のことを考えてマスクをするのも、愛です。人ごみを避けて自宅に留まっていることも愛です。我慢しているという思いになると、消極的な気持ちになるのですが、自分は愛を行っているのだという積極的な生き方を私たちは選び取っているのだということをぜひ知って欲しいのです。
パウロはここで、愛に生きるようにすることは、御霊が支えてくれ、自分本位になろうとするのは、それは自分の「肉」の性質が働いていると言います。この二つの「霊」と「肉」という思いは常に私たちの中で戦っています。そして、この二つの思いが戦っていると、私たちは自分が願っていることができなくなるのだと言います。
19節から21節までに、この「肉」の働きのリストが書かれています。
淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。
コロナの時はこうするといいですよという話ならまだ分かりやすいのですが、この肉の思いというのは、いろいろな側面があります。そして、このリストはすべて自分勝手さから生まれるもの、自分本位が中心にあるものです。このリストを簡単に種類別に分けると、性にまつわる身勝手さ、宗教的な身勝手さ、対人関係に現れる身勝手さ、そして、飲み食いに現れる身勝手さと言っていいと思います。そして、この肉の思いのことを、別の言葉で「原罪」とも言えます。
罪という言葉は、犯罪のような悪いことをしたことだと考えてしまいがちですが、聖書が語る罪、ここでは「肉」という言葉ですけれども、それは人間が本来持っている自分本位な身勝手な性質のことです。そして、このような身勝手さというのは誰もが持っているわけですが、それは人との関係において姿を現します。
特にこのリストの三番目、四番目に出てくる対人関係における身勝手さや、飲食に関わる自分本位な思いというのは、私たちにずっとついて回ることです。もちろん、それらはいつも悪いこととは言えない部分もあります。
たとえば、相手が自分を傷つけてくる時に、私たちには自己防衛本能というのが働きます。とっさに言い訳したり、嘘をついてしまったりすることも、やむを得ないという場合もないとは言えません。ただ、パウロはここで、このような自分のためという内側に働くその方向性が働いている時に、人は自由ではいられないのだということを語ろうとしているのです。
自分に、自分にと向いてしまうその心の思いから、まさに自由になるときに、それは自然と、人を大切にすること、人を愛することという、外へ向かう思いになってあらわれるのです。そして、そうなるためには「御霊によって歩む」ことが大事なのだと言うのです。
「御霊」というのは、神が私たちに与えてくださる主イエス・キリストの霊である聖霊のことです。そして、今日のペンテコステは、この聖霊が私たちに与えられたことを思い起こして記念する日です。
私はどうも物欲が大きいようで、ついいろいろな物を集めてしまうという収集ぐせがあります。たとえば、今まで集めた物と言えば、バナナのシールというのがあります。デルモンテとかドールとかいうバナナに貼り付けられている丸いあのシールです。以前はどこかで変わったシールを見つけるとそのシール欲しさにバナナを買うということまでついしてしまっていました。バナナが食べたくてついでにシールを集めるのではなくて、シール欲しさにバナナを買うわけですから本末転倒です。今はもう集めていないのですが、集めている時はいろんな人が旅先で見つけたバナナのシールをお土産に持ってきてくれることもあるので、どんどん集まりまして、60種類とか80種類とかまで集めました。海外旅行に行く人がいるとお願いしたりすると、もうきりがなくなっていきます。
このように、集める、自分のものにするという方向性は、いつも外から内側を向いています。まあ、バナナのシールをあげても喜んでくれる人はいませんから、一度ため込みますと、なかなか外には出て行きません。
これと同じことを、私たちは「もの」に限らず、たとえば心の問題も同じようにしてしまう傾向があるわけです。心がいつも自分の方に向いてしまう。自分が大事にされたり、親切にされたい、やさしくされたい、少しでも自分に心がむくことを願ってしまうわけです。でも、その内側に集めていくその思いにはリスクがあって、いつも自分にとって良いものだけが集まってくるわけではありません。自分の望んでいない言葉が自分に向けられることもあります。相手の気持ちもあるわけですから、あたりまえのことなのですが、この自分本位な思いは、この相手の思いを受け止めるということにまで、思いが至らなかったりします。
先週もニュースで何度も取り上げられていましたけれども、ネット上での悪意の言葉によって、傷ついてしまってそれで苦しむ人がいるということが強調され、報道されていました。ヘイトとか、ヘイトスピーチなんていうことがここのところよく、耳にするようになりました。差別とか侮辱の言葉のことです。
残念ながら、私たちの生きている世界は、私たちがいつも喜んでいられるうれしい言葉だけが満ちている世界ではありません。悪意の言葉、傷つける言葉もあるのです。あるいは、ヘイトスピーチではなくても、正しい言葉も、人を傷つけることにもなりかねません。こうするべきなのだ、これが正解で、あなたのしたことは間違っているという言葉です。
もちろん間違いを指摘することは必要なのですが、そうすることによって相手を攻撃することにもなるという側面もあるわけです。
パウロはそこで、自分から外へ出るその方向にも、悪い言葉や人を傷つけてしまう言葉も出てしまうわけですから、その根本的な問題を解決するためには、「御霊によって歩む」ということがどうしたって必要なのだというのです。
自分の思いのまま歩む、自分の気持ちをいつも絶対視するのではなくて、「神から与えられる思い」というフィルターがかかることによって、正しく人を愛する、人を大事にすることになるのだとここで言っているのです。その私たちのフィルターの役割を果たしてくれるのが「聖霊なる神」のお働きです。
この聖霊が働くとどうなるかというと、それが22節に記されています。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
とあげられています。聖霊が、私たちの中で働くことによって、私たちは人を傷つけてしまうのではなくて、人を愛していくことになる。人を大切にしていくことになるというのです。
そこで、問題があります。どうしたら、この聖霊フィルターがちゃんと機能するようになるのかということです。分かっていても、できないのです。人に親切にする、人を愛する。善意で行動する。みんな分かるんです。でも、私たちの心の中は、いつもそういうモードに切り替わっているわけではないのです。
嫌いな人が目の前に現れる。嫌味の一つでも言われてしまうと、さっきまで今度は優しくしようと思っていたのに、もうやめたという気持ちに一瞬で切り替わるんです。
結婚をしている人は、三年目くらいから毎日この思いと戦っているのではないでしょうか。もちろんみんながみんなということではないでしょうが、誰だってそういう経験をするのです。我慢にも限界がある。相手が変わってくれたら、自分も変われる。相手が変わらない以上、自分だけ親切にするのはあほらしいという思いが、すぐに心の中に湧き上がってくるんです。
こうして、一瞬でやさしい気持ちはどこかに消えてしまって、また今日も、腹を立てながら一日過ごすということを、もうずーっと繰り返し続けているわけです。
だから、綾小路きみまろさんのユーチューブを見ながら、あの毒舌になにか救われる気がするというようなことも起こるわけです。先日、たまたまユーチューブで見たんですが、面白いですね。聞いている人も涙を流しながら笑っている姿が印象的でした。
私たちはどうしたらいいのでしょうか。どうしたら、この相手のことを愛するという思いをいつも持続し続けることができるのでしょう。聖書はそれ以上のことは教えてくれないのでしょうか。
今日の24節にこう書かれています。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
とパウロは言います。
大切なことは、「キリストにつく」ということです。キリストに寄り添うということです。キリストに寄り添っていくと、キリストが十字架につけられたということがはっきりとわかるようになってきます。キリストは、なぜ自分が悪くもないのに、人の罪を自ら背負って十字架にかかることができたんだろうかということを、どうしても考えるようになります。
そして、分かるのです。そうか、この嫌な感情を全部キリストに負ってもらったんだから、また新しく心の中に浮かんできたこの嫌な気持ちもぜんぶまとめて十字架につけるんだということが、改めて分かってくるのです。
問題は、このキリストのことを忘れてしまうから、悪意に支配されてしまうのです。肉の思いに支配されてしまうのです。もし、自分がまた嫌な気持ちに支配されそうになっているのだとしたら、そうだ、キリストにくっついていようという事を思い出すのです。
このキリストにくっついて生きるということを、パウロはここで「御霊によって歩む」という言い方をしているのです。
どうやったらキリストにくっついていられるのか。それは、礼拝をささげることを通して、自分がキリストのものとされていることを思い起こす。聖書を読んで祈るときに、改めてキリストとの結びつきを確認する。あるいは、教会の人との交わり、教会の集まりに参加して、聖書を一緒に学んだり、共に祈り合ったりすることを通して、キリストとつながっていこうとすることが大切なのです。
この24節の「キリストにつく」という言葉は、協会共同訳では「キリストに属する」と訳しました。キリストに所属しているということです。この新改訳の「つく」でも、「属する」でも、表したいことは同じですが、こうすることによってより豊かなイメージが持てるのではないでしょうか。教会に属しているということは、キリストに属しているということです。そういうことを通して、私たちはキリストから離れないで、悪意に支配されないで、やさしい気持ちを、自分の内側から、外側へ、誰かに愛を届けることができる者へと変えられていくようになるのです。そして、そのとき、私たちは本当の自由を満喫することができるようになるのです。
そして、そのとき、私たちが本当にしたかったことは、私たちの願いは、私たちの周りにいる人たちを大事にして、大切にして、愛に生きたいと思っていたのだという事に改めて気づかされるようになるのです。
お祈りをいたします。