・説教 エゼキエル書16章6節「生きよ!」
2020.06.14
鴨下 直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
Lineライブ
午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
6月に入って、この長い間続いた新型コロナによる外出制限が少しずつ解除されはじめています。この期間、私たちはステイホームといって、外に出ないようにということが言われてきました。
家に留まっていることが全く苦痛ではない人にとっては、とても良い時間になったのではないかと思います。けれども、一方で、その期間孤独と向き合い続けなければならなかった人もあると思います。先日も買い物で近くのイオンに行きましたが、思っていたより人が少なくて、まだまだ、沢山の人が外出を控えているのだということを目の当たりにしました。
外出できない、人と会えない期間が長く続きますと、人によってはどこかで自分は世界から取り残されて独りぼっちであるかのような、そんな思いを持つ方もあるのではないかと思うのです。
私は長い間、教団の学生の担当牧師をしていました。といっても今から15年以上の前のことですから、今の学生たちとは少し違うのかもしれません。学生たちと膝を突き合わせて話してみると、時折出てくるのは、自分の自信のなさ、それは信仰のことだけではなくて、勉強のこと、運動のこと、容姿のこと、家族のこと、あれもこれも、みんな自分はだめだという劣等感を抱いてしまっている学生が少なくありませんでした。そういう複雑な思いの中で、進路をどうするかについて決めなければならないわけですから、そこで嫌でも、自分のポジションというものが突き付けられます。そして、さらに自信をなくしていくということが起こってしまいます。
大人になりますと、不思議なもので、経験的になんとかなるということを覚えていきます。自分と向き合わなくても、何とかなるという経験をしていくことで、自分と向き合わずに生きていくすべを身に着けてしまいます。
その時期のことを「アイデンティティ・クライシス」なんていう言い方をすることがあります。何も、英語なんか使わなくてもいいのかもしれませんけれども、「人生の危機」と言ったらいいのでしょうか。自分自身の存在が問われているという危機感と向かい合う必要が出てくるわけです。
私たちは、シンデレラの物語をよく知っています。父を亡くしてしまったシンデレラは父親の再婚相手の母親と、その子どもたちによって、まるで家政婦のように下働きを命じられてしまいます。ところが、お城からの舞踏会の知らせがあった時に、魔法使いの助けによって、綺麗なドレスを与えられて、カボチャの馬車に乗って、お城の舞踏会に参加するのです。そして、そこで王子に見染められる話です。
自分の現実である悲惨さから、自分の本当の価値を王子によって回復される、まさに、シンデレラ・ストーリーです。
今日の聖書の話は、まさに、聖書の中に記されたシンデレラ・ストーリーが、このエゼキエル書の16章の1節から14節です。
物語はいたってシンプルです。ある家庭に、一人の赤ちゃんが生まれます。女の赤ちゃんです。普通であれば、生まれたばかりの赤ちゃんは、へその緒を切られ、産湯につかり、綺麗な布でふき取られて、布にくるまれて母親の腕に抱かれるのです。けれども、この時の状況はそんなご時世ではありませんでした。男であればまだ跡継ぎとして、あるいは家族の支えになったのでしょうが、女の子では食い扶持が増えるだけです。それで、その赤ちゃんは、生まれたままの、それこそ血まみれの状態で捨てられてしまうのです。そして、誰ひとりとして、そんな赤ちゃんを代わりに育てようとする人もなかったのです。
ところが、そこに王様が通りかかります。その王様が、その赤ちゃんを見つけるなり、言った言葉が、今日読んだ聖書箇所です。
わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。
王はその赤ちゃんを引き取って、育てます。そして、この子は大きくなり、立派な女性に成長します。そして、ある時、王はこの娘を、自分の妻として迎え入れ、彼女に身をかざる衣服や、飾りを与え、最上の食べ物を与えます。そうやって、彼女は女王になったという物語です。
まさに、聖書に記されたシンデレラ・ストーリーです。あと何年かしたらディズニーが映画にしてくれるのかもしれません。いや、ひょっとすると、そのような物語は、実はこの聖書箇所がベースになっているのかもしれないほどです。それが、この聖書に記された物語です。
この時生まれた女の子にとってアイデンティティ・クライシスどころの騒ぎではありませんでした。もう、完全に死を待つばかりの、誰からも期待されていない、誰からも必要とされていない、そんな赤ちゃんです。けれども、この物語の王は、そんな赤ちゃんにこう語りかけるのです。
「生きよ!」と。
まだへその緒もついているような赤ちゃんに「生きよ」との言葉も理解できないでしょう。それでも、この王は、この赤ちゃんに近づいて「生きよ」と声をかけられるのです。
そして、この物語は、神と、私たちとの物語でもあるのです。これは、どこか遠い国の、おとぎばなしではないのです。実際に、神と私たちとの出会いの物語なのです。
私たちは、時折、自分は誰からも必要とされていないのではないかと、自分の存在の軽さに涙を流したくなる時があるかもしれません。自分は独りぼっちなのだと、孤独に苦しみ、悩むことがあるかもしれません。自分には、夢があるとか、自分にはすることがあると、他の方を向くことで、自分の姿を見ないようにすることに、疲れてしまった人も中にはあるかもしれません。今のこのコロナ禍の社会にあって、自分の存在価値を、改めて問われているような思いになっている人があるかもしれません。
しかし、です。しかし、神は、私たちに向かって語りかけておられるのです。「生きよ!」と。私があなたを見出したのだと。あなたが生きるための必要なものは、全て与えると約束し、私たちを傍らに置き、私たちを主と共に生きる者としてくださるのです。
私たちの存在を不安にさせるあらゆるものがあります。自分には信仰心がないとか、勉強が苦手であるとか、人とのコミュニケーションがうまく取れないとか、体を動かすことが苦手とか、容姿に自信がないとか、挙げればきりがありません。私たちの周りには、私たちを不安にさせる要素はどこにでも、いくらでも、待ち構えています。そして、私たちはすべての分野において完璧にできるようになるわけではないのです。
問題は、自分という存在をどうしたら肯定してやることができるようになるのかということです。低いところで、肯定してしまえば、人間は楽なことを覚えてどんどんダメになっていく。そんな考えもあるでしょう。その反面、高いところを目指すと、それは今の世の中では意識高い系などと言われているのかもしれませんが、そこまで求めてもいないという事にもなりかねません。そして、どこに落としどころを見つけたらよいのかということを、判断することもまた、簡単なことではないのです。
大切なことは、自分がどこまでできるか、どこからはできないのかということを、見極めることにあるのではありません。まず、知らなければならないことは、この王はどこを見ておられるのかということです。神は、私たちの何を見ておられるのかということです。
そして、聖書の神は、私たちの能力に目をとめておられるのではなく、私たちの存在そのものに目をとめておられるのだという事を知ることです。このことが、何よりも大切なのです。
神は、血に染まって捨てられていた赤子に「生きよ」と語りかけられるお方なのです。私たちの神は、私たちの存在そのものを、愛して、受け止めてくださるお方なのです。ここに書かれているように、裸の私を、愛してくださるお方なのです。
そして、神ご自身の手で、その裸の私に、食べ物を与え、着るものを与え、着飾る物を与えてくださるお方だというのです。
6節からの続きを見てみましょう。
わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して大きくなり、十分に成熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたは丸裸であった。
わたしがそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたは恋する年ごろになっていた。わたしは衣の裾をあなたの上に広げ、あなたの裸をおおった。わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主のことば――。そして、あなたはわたしのものとなった。
わたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。
わたしはまた、あや織りの衣服をあなたに着せ、じゅごんの皮の履き物をはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹物でおおった。
それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、鼻には鼻輪、両耳には耳輪を着け、頭には輝かしい冠をかぶらせた。あなたは金や銀で飾られ、亜麻布や絹やあや織物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、女王の位に進んだ。
あなたの美しさのゆえに、あなたの名は国々の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせた、わたしの飾り物が完全であったからだ。――神である主のことば。
これが、神と、私たちとの物語なのです。王である神は、私たちにすべての必要なものを与え、美しくしてくださり、まさに私たちに必要ないっさいの価値を私たちに与えてくださるお方なのです。
私たちに必要なのは、この神の御声を聞き取ることです。神が私たちの前に立ち、「生きよ」と語りかけてくださっていて、この神と共に生きることを受け取ることができるかどうかに、すべてはかかっているのです。この神の御前に出る時、私たちは、本当の私を、本当の自分を知ることができるようになるのです。そして、自信を持って、すべてのことに希望を持って、威厳に満ち溢れて、力強く生きることができるようになるのです。
私たちの主は、今、血まみれの私たちに、「生きよ!」と語りかけておられるのです。
お祈りをいたします。