2020 年 7 月 19 日

・説教 創世記26章1-16節「二つの試練」

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2020.07.19

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 突然ですが、もしみなさんがあまり会いたくない人にこれから会わないといけない時、どうするでしょうか。苦手な仕事の取引相手、義理の両親とか、あるいは、仕事の同僚や、近所づきあいの中とか、私たちが生活していくうえで、そういう出会いを避けて通ることはできません。

 出たとこ勝負で、不安を抱えたままその日、家を出るという人は少ない気がします。あるいは、家を出かける前にお祈りをして出かけるという方もあるかもしれません。あるいは、これは色んな人と話していると時々耳にするのですが、相手の人の出方を想定しておいて、様々な対処法を考えておいてから出かけるという方もあるようです。備えあれば憂いなしということです。場合によっては、もう前の日から気持ちが沈んでしまって、あれこれ考えて、仕事も手につかなくなるという人もあるかもしれません。

 このような、「心配の先取り」というのは、まだ起こってもいないことを先にイメージして、気分まで落ち込んでしまうというのですから、あまり賢い選択ではない気がするのですが、不安になってしまう気持ちというのは、どうしようもないのかもしれません。

 今日から、また創世記に戻ります。今日のところは、アブラハムの息子であるイサクの物語です。そして、そのイサクもまた、父アブラハムと同じようなことを経験したことが記されている箇所です。

 残念なことですけれども、アブラハムの信仰は、そのまま息子イサクの信仰になるわけではありません。そういう意味で、信仰の継承ということが、いかに難しいことなのかということをここからも考えさせられます。

 親の信仰がいくら優れていたとしても、あるいは親が経験したことだといっても、それはその子どもには直接的には何の関係もないことです。ですから、父アブラハムが経験したことを、息子イサクもまた、同じように経験しなければならなかったわけです。

 「他人のふんどしで相撲をとることはできない」のです。親の信仰は親のもの、自分の信仰は自分のもの、その意味で言えば、クリスチャンの場合、親の七光りというものは存在しないのです。少なくとも神の御前では、です。

 ここで、イサクは父親同様に、飢饉を経験します。父アブラハムはその時、エジプトに逃げて、難を逃れようとしました。そして、彼はその地で美しい妻のために自分が殺されるかもしれないとの危険を覚えて、妻のことを妹であると吹聴して、難を逃れようとした出来事がしるされていました。それと、同じことを、イサクはここで問われているのです。
 さて、ところが、その時に、主はイサクに語り掛けられました。

2節から5節です。

主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」

 主なる神は、イサクにこの土地、つまりその時いたペリシテの地に留まるようにイサクに語り掛けられました。エジプトに行ってはいけないというのです。そして、アブラハムと約束された子孫繁栄の約束をここでイサクにも約束してくださったのです。

 このように、イサクはその人生の試練の時に、すぐに神からの約束の言葉をいただいたのでした。あとは、その約束に従うか、自分で判断するかの選択を委ねられているわけです。

 その時、イサクはどうしたのでしょうか。6節を見ると、「こうしてイサクはゲラルに住んでいたが」と書かれていますから、結果的に、イサクはこの神の約束に耳を傾けることにして、エジプトにはいかなかったことになります。
ところが、ペリシテの地に留まるにしても、イサクには一つだけ不安がありました。それは、美しい妻リベカのために、このペリシテの地に留まるにしても、自分のいのちが危ないのではないかと考えたというのです。エジプトには行きませんでしたが、父アブラハムと同じことを考えているのです。

 イサクもまた、父アブラハムと同様に、この心配を先取りして、先に対応策を考えようとしたわけです。それが、リベカのことを妹と吹聴するという対策だったわけです。

 「心配の先取り」もちろん、それは悪いことではないはずです。リスクがあるならば、そのリスクを回避しようとするのは、賢い選択でもあるはずです。けれども、このイサクの箇所やアブラハムを見てみると、この「心配を先取り」して、何とか対策を講じようとしたこの出来事は、あまり賢い選択にみえないのです。それはいったいどうしてなのでしょうか。

 しかも、妻のことを妹と言うというのが、この時のイサクの対策ですが、アブラハムの場合、実際にサラは妹と言えたわけですが、イサクの場合は事実ですらありません。不安の先取りをして、その対策を講じて、妻リベカのことを妹と言ったのですが、これはまるっきり嘘であるわけです。

 実は、このペリシテのアビメレクは、創世記20章で晩年の父アブラハムの妻であるサラを、自分の妻として迎えるという選択をして、手痛い失敗を犯していますから、息子イサクに対しても慎重にならざるを得なかったと思うのです。そして、アブラハムの息子イサクもまたここで自分の身可愛さに、妻のリベカを妹というニュースを流してしまっていたのです。アビメレクからしてみるといろいろ思うところがあったのではないでしょうか。

 幸い、アビメレクは先の失敗があるからでしょうか、リベカを妻にしようとはしていませんでした。ところが、ある時、イサクとリベカの関係を目にした時に、イサクに苦情を訴えます。

10節にこう書かれています。

「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」

 アビメレクは以前、そのために莫大の財産をアブラハムに渡すことになりましたが、今回は、そうならずにほっとしたということであったと思うのですが、それでも、文句の一つも言わなければ気持ちはおさまらなかったのでしょう。

 結果的に、イサクは妻リベカを失わないですみましたし、ペリシテとの間に問題の火種をおとさずにすみました。けれども、ここに「心配の先取り」をして、間違った判断をしてしまったイサクの未熟さがあらわされています。

 不思議なものですけれども、私たちは心配事が心の中に浮かぶと、どうもその心配事が心の中で、どんどん膨らんでしまって、しなくてもいいことまでしてしまって、相手を傷つけてしまうということが起こってしまうようなことがあるのです。

 主が、イサクにこの地に留まるよう言われた時、それは主の約束を信頼して、この約束に立てということでした。この時与えられた約束には、子孫の約束が与えられているのですから、妻を奪われても自分を守ろうとするというのは、この約束を与えてくださった主に対しての信仰の応答とは言えないはずなのです。

 けれども、主なる神は、このようなイサクに、その約束に従うかどうかを見極めてから、祝福を与えられたのではなくて、もうすでに祝福を約束してくださったのです。そして、その結果、12節で、この神の約束を文字通り体験することになっているのです。

12節と13節をお読みします。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

 心配事にばかりに目を向けてしまい、本当に耳を傾けなくてはならない神の言葉を無にしてしまうなら、そこに祝福はありません。普通はそうです。しかし、主はそうなる可能性があるにもかかわらず、先に祝福の約束を与えてくださるお方なのです。
 イサクはここで飢饉と同時に、ペリシテの人々に対する恐れという試練を味わっていました。しかし、そのような試練の中にあっても、主はイサクに子孫繁栄の約束を語っておられるのです。これこそが、主のきまえの良さ、主の祝福なのです。

 けれども、イサクはこの約束の言葉を受け止めることが出来ないで、自分の知恵と経験で何とか対処法を考えたのでした。けれども、そのようなやり方には何の確かさも、うまく行く保証もないのです。

 まず私たちがここで気づかなくてはならないのは、神の約束の言葉にしっかり耳を傾けるところから始める必要があります。そして、神の祝福はどこにあるのかということを、考えることが大切です。

 自分の損得に気を取られてしまうなら、私たちは人との関係を築き上げることには困難がともなうでしょう。けれども、相手の祝福を考え、その人を愛する気持ちを持つことができるなら、自然とできることははっきりしてくるはずなのです。自分を守ることにではなく、人を受け入れること、まずそこに心を向けることが大切なのです。

 この後14節から、イサクが祝福されているのを見たペリシテの人々が、イサクに対していやがらせをするようになったことが記されています。かつて、アブラハムがペリシテ人との間で友好的な関係を築いて得た井戸も、この時に埋められてしまいます。このことが、また次のイサクへの試練となっていくのです。

 イサクの側に、争う意思がなかったとしても、相手が嫌だと感じてしまえば健全な関係を築くことはできません。そこが、人と関係を築くときの難しさでもあります。

 けれども、そのような問題もイサクは自分で乗り越えていく必要があるのです。そしてまさに、そのようなところで、神と出会っていくことができるのです。

 アブラハムも何度も失敗を繰り返しました。イサクもまた父と同じように、失敗をするのです。けれども、信仰というのは、そのような失敗を経験する中にあっても、恵み深い神のお姿を知ることによって培われていくのです。そうやって、神様のことを自分で発見して、自分と主との関係が作り上げられていくところに、信仰が築かれていくのです。

 子どもに信仰を継承していくことも、次世代に信仰が受け継がれていくときも、それは、子どもたちが、自分たちで神様と出会うことなしに、信仰の継承はないのです。そのためにできることは、試練を通るときに、そこで簡単に手を差し伸べるのではなく、その試練を通して、神さまと出会うことができるように祈ることが、私たちには必要なのでしょう。そして、神様と出会う機会を奪わないこともまた、大事なのではないでしょうか。

 心配の先取りをすることよりも、心配の中であっても立たせてくださる主を知ること、そのことが、試練の中にあっても持ち続ける勇気となっていくのだと思うのです。

 先週、舛田長老がダニエル書からみ言葉を語ってくださいました。炎の中に置かれても守ってくださる主を、ダニエルの三人の友達は知っていたのです。そして、この三人は、炎の中にあっても、主の守りを経験することが出来たのでした。

 私たちは、同じ主を信じているのです。この主を知ること、このような力強い主を発見することができるなら、私たちは、どのような状況に置かれたとしても、力強く生きることができるのです。

 お祈りをいたします。

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