・説教 創世記27章1-29節「ヤコブの祝福」
2020.08.02
鴨下 直樹
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今日の聖書の物語を私たちはどのように聞いたらよいのでしょうか。母と子どもが結託して、年老いて目の見えなくなった父イサクの祝福をだまし取ろうというのです。そもそも、そんな嘘にまみれた祝福に、どんな意味があるのか。そんな気持ちにさえなります。
私の手元にある聖書注解を見ても、皆それぞれに違う解釈を記しています。それだけこの出来事を正しく理解するのは難解なのだということがよく分かります。ある注解者はここのリベカの考察から、そもそも、女性というのはと、女性批判を始めている人もいるほどです。読んでいて、この文章を書く前に夫婦喧嘩でもしたのだろうかとさえ思えてくるようなものまであるのです。
ここで、私はあまり難しい議論の紹介をすることに意味はないと思いますので、要点だけお話ししたいと思います。
この物語を聞いて、私たちはイサクが兄エサウを祝福しようとしていることをまず知ります。そして、兄であるエサウは、父の願いをかなえるために野に出かけます。それを陰でイサクの妻リベカが聞いていて、弟のヤコブにそのことを伝えます。そして、リベカは夫イサクを欺いて、ヤコブが祝福を受け取れるようにする計画を伝えます。ヤコブはこれを聞いてはじめ、尻込みしますが、結果的にはイサクを見事にだまして、祝福の祈りをしてもらったという出来事がここに記されています。
けれども、よくよく注意深く読んでみますと、いろいろな腑に落ちない出来事がここで行われていることに気づくのです。
さて、この箇所を正しく理解するカギは、リベカがこの双子の子ども、エサウとヤコブを身ごもった時にまでさかのぼります。
25章の22節と23節にこう書かれています。
子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。
すると主は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから別れ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」
ここで、リベカは生まれてくる双子のことを主に聞いた時、「兄が弟に仕える」という言葉を聞いていました。問題は、このことをイサクは知っていたのか、知らなかったのかということです。あるいは、どの程度このことを心に留めていたかということが問題になります。
リベカは当然、イサクにこのことを話していただろうと考えることはできると思います。ただ、もしそうだとすると、イサクは主の心が弟を祝福する計画であることを知っていたのに、自分の気持ちを押し通して、兄を祝福しようとしたということになります。もし、そうだとすると、リベカに向けられた非難の目は、イサクに向けられることになります。
では、もう一人の被害者であるはずのエサウはどうでしょう。エサウは長子の権利をあのレンズ豆の煮物で弟ヤコブに明け渡していたのに、そのことをイサクに告げないで、父から祝福の知らせを聞いた時に、そのことを弟のヤコブに知らせず、こっそり野に出かけて獲物を捕まえて来て、祝福を自分のものにしようとしたことになります。
つまり、ここに出てくる4人の人物には、それぞれのやましさが満ち溢れていることになるのです。ですから、これは決して美しい物語であるということはできません。
しかし、もしイサクが、神が弟を祝福しようとしておられる計画をリベカから聞かされていないのだとすると、この出来事はどういうことになるのでしょう。
リベカは夫の計画を耳にします。父イサクは兄のエサウを祝福しようとしているのです。けれども、リベカは子どもが生まれる前から、主の計画を聞かされているのです。イサクの思いを尊重するのか、神の思いを尊重するのかという決断を、一瞬でしなければなりません。そしてリベカは、後者を選び取りました。
ただ、これも、今日の箇所だけを読むならそれすらわからないのです。今日のこの27章に書かれている情報だけ読めば、リベカは自分の好きな息子に祝福が与えられるために、この計画を実行したことになります。けれども、このリベカはヤコブを愛していたということも、実は、このリベカが主の言葉を聞いた後の、25章の28節に記されているわけですから、その部分だけを切り抜いて、リベカは自分の好みの息子に祝福を受けさせるために、この計画を実行したと理解するのは、聖書からリベカに対する悪意しか読み取っていないことになります。聖書が伝えたいのは、そういうことではないはずなのです。
リベカは、子どもが生まれる前に、主に祈って伺いを立てたのです。そして、その結論として、神の計画である弟を祝福しようとしているとの神の言葉を、大事に受け止めたと考えるのが、一番自然なことです。
リベカは、夫イサクの計画を阻止するために、普段口にしていたであろう羊ではなく、ヤギの肉を準備させます。おそらく、エサウが狩りで取って来た動物に見立てるための作戦だったのでしょう。リベカの作戦は、食材だけではありません。ヤコブに兄エサウの衣を着せ、ヤギの毛皮を腕と首に巻き付けて、匂いだけでなく、触っても騙せるように準備したのです。味も、匂いも、手で触れる感触もだます手立てをします。イサクは目があまり見えませんから、視覚の問題はありません。問題は、聴覚です。こればかりはどうすることもできないのですが、ヤコブは父の前で、エサウになり切ります。
19節で、ヤコブはイサクに誰だねと聞かれた時には「長男のエサウです」と答えています。これも、よく考えれば、普通自分で名乗るときに「長男のだれそれ」なんて言いませんから、ヤコブは意識しすぎているともいえるわけですが、実は、後で本人が出て来た時にも32節で「長男のエサウです」と答えていますから、このヤコブの答えはあながち間違ってはいないのかもしれません。けれども、食事の準備ができるのが早すぎると感じたイサクは、「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」と尋ねると、「あなたの神、主が私のために、そうしてくださったのです。」とヤコブは答えるのです。
私は、この時のヤコブのついた嘘は少しやりすぎだと思っています。十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがありますが、ヤコブはここで、「主の名をみだりに唱え」「偽りの証言」をし、「隣人のものを欲しがっている」姿を見るわけです。
いくら何でも、これはないのではないかと思わざるを得ないのです。ところが、この親子で計画した祝福強奪詐欺事件は、あろうことか成功を収めてしまうわけです。
この出来事を私たちはどう受け止めることができるのでしょう。確かに、このように読んで行けばリベカはイサクよりも、神のみこころを重んじたとみることはできると思います。しかし、ヤコブはどうなのでしょう。
聖書はマラキ書1章2節と3節でこのように書いています。
「わたしはあなたがたを愛している。 ――主は言われる―― しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
エサウはヤコブの兄ではなかったか。 ――主のことば―― しかし、わたしはヤコブを愛した。」
主は預言者マラキにこのように語られました。「わたしは兄エサウではなく、ヤコブを愛したのだ」と。
リベカに主が語られたのは、おなかの中にいる時です。ということは、ヤコブがどういう性格で、どういう性質であるかを見極めたうえで、ヤコブを愛したのではなかったということです。これが、神の選びです。
神は、ヤコブがどういう存在かという、そのヤコブの振る舞いをご覧になられてから、ヤコブを愛すると決められたのではなかったのです。
このことをパウロはローマ人への手紙9章10-13でこのように言っています。
それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのでなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。
パウロは、この不思議な出来事の中に、神の選びが語られているのだと理解しました。なぜ、ヤコブが父イサクの意志に反して、祝福をいただいたのか。ヤコブとリベカのイサクを辱めるようなこの出来事は一体何が起こっているのかを、ここで語っているのです。そして、これは神の選びなのだとパウロは語りました。
道徳的に考えたら、この出来事の被害者は父イサクと兄エサウです。そして、詐欺事件を犯したのは、母リベカと弟ヤコブです。ですから誰がどう見ても、悪者は明らかです。けれども、神はその子どもが生まれる前から、ヤコブを愛して、選んでおられると聖書は語っているのです。そこに神の意志があるのです。それは、誰かがどう思おうが、納得できなかろうが、神の意志はここにあるのです。
イサクやエサウの悪い点を必死に見つけ出す必要もないのです。道徳的な判断基準はここでは通用しません。あるのは、ただ神の意志、それだけです。
私たちは、理不尽な出来事の前に立つとき、すぐにその理由を見つけ出そうとします。大抵の場合、何らかの原因がある場合がほとんどですから、そう考えるのは当たり前のことです。けれども、私たちがここで知らなければならないのは、神のご計画と、神の選びは、神の側には理由があるのですが、それは私たちの側でははっきりしないことが多いのです。
かつて、アダムとエバの二人の子のカインとアベルが主にささげ物をささげた時も同じです。以前の新改訳の翻訳は、選ばれなかったカインに非があるように見せるために、翻訳を少し変えて、アベルは自分から捧げものをしたけれども、カインはまるでいやいや捧げものをしたかのように翻訳をしました。今度の翻訳ではそれは直っています。聖書の翻訳者さえも、理由がないことに納得ができなかったのでしょう。しかし、パウロはこの出来事を的確にとらえているのです。神の選びは、何をしたかが基準になっているのではないのだと言うのです。
みなさんも、アウグスティヌスのこの言葉をどこかで聞かれたことがあるかもしれません。
「苦痛は刺繍された布のようである。布の裏側は様々な色の糸が絡み合って見た目にとても悪い。苦痛をただ苦しみとして見るのは、まさに裏だけを見るからである。しかし布の表を見ると、一つひとつの色糸が調和して実に美しい。神の摂理を信じる人々は、一見無秩序であるかのように見える事柄の向こう側に美しい未来を見る。」
アウグスティヌスはかつてそのように言いました。刺繍の裏側というのは、見るといろんな糸が絡み合っていて、何がどうなっているのか、分からないわけですが、表にはとても美しい模様が描き出されているわけです。そして、私たちは、この世界にあって、この刺繍の裏側から神の御業を見ているようなものなのかもしれません。しかし、神の側では、それは完全に美しく織りなされているのです。
さてイサクは目の前にいるのが兄エサウではなく、弟のヤコブであることを知らないままに、祝福の祈りをします。先日学び会で、ある方がイサクの頭の中はエサウのことを考えているのに、そのお祈りは目の前のヤコブに効果があるのかという質問をしてくださった方があります。面白い質問ですが、大事な質問です。
私たちはお祈りをするとき、特にとりなしの祈りをするときに、その人のことを考えて祈ります。時々、会ったことのない人のためにお祈りしてほしいという、祈りのリクエストを聞くと、その人のことがイメージできないので、なんとなく祈りに身が入らないなんてことを経験することがあると思います。
具体的にどのように祈ったのかここに詳しく書かれていませんけれども、頭の上に手を置いて祈ったでしょうか。あるいは、体のどこかに触れて祈ったのかもしれません。詳しいことは書かれていませんが、イサクは目の前にいる者のために祈ったのです。
祈りの内容については、時間がありませんので、ここでは簡単にお話しして、来週詳しく話したいと思いますが、29節の最後にこうあります。
「おまえを祝福する者が祝福されるように。」という祝福の祈りが最後にあります。これは、イサクからヤコブへの祝福がそうであるように、ヤコブからその子どもたちへの祈りもそうなるということです。イサクの祝福は、この祈りを通して確かに、ヤコブに与えられたのです。
主はアブラハムを祝福し、イサクを祝福されました。そして、その祝福はヤコブへと受け継がれていきます。神からの祝福は、そのように家族の中に、そして、次の世代へと受け継がれていくものです。
神が与えてくださる祝福の内容は、ここでは豊かな収穫と、近隣の国々との友好な関係、そして家族の中でリーダーシップを発揮することができるように。そのような祝福がここで語られています。まさに絵に書いたような平和が、ここで神の祝福として語られているのです。
この27章の出来事のどこに平和があるのかと思えるような状況ですが、神の平和は確かに築き上げられて行くのです。目の前に起こっている出来事に、心を支配されてしまうのではなく、神の現実に目を向けること、そこに神の平和があるのです。そして、神の祝福は、そのような厳しく見える生活の中にあっても、確かに存在するものなのです。神は、私たちがどのようなところに置かれていたとしても、私たちを祝福したいと願っておられるお方なのです。
お祈りをいたします。