・説教 詩篇119篇145-160節「私の苦しみをご覧ください」
2021.05.02
鴨下 直樹
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詩編119篇からみ言葉を聞き続けてきまして、ようやく終わりが見えてきました。今週と来週とで、この詩篇119篇の説教も終わります。この詩篇119篇は、一貫した主題はみことば、神の律法とは何なのかということが、ひたすら語られています。しかも、各段落にアルファベットの頭文字を用いているので、いろは歌のように、書きだしの言葉がかなり限定されるのですが、あまりそういった違和感のないほど巧みな言葉づかいで記されています。
詩篇というのは、イスラエルの人々の祈りや賛美の言葉が、詩という形態で整えられてイスラエルの人々に用いられるようになった詩ですから、そこには詩ならではの書き方、スタイルがあります。
先週、今年の農民文学賞の詩の部門で賞を取られた、古川彩さんの詩を見せていただきました。高校時代の、山形県の独立学園で経験した農作業や酪農の経験などが詩という形式で書かれています。読んでいますと、まだ高校生であった彩さんの姿がイメージできるような言葉づかいで書かれていて、その学校でした経験を言葉に綴る巧みさのようなものを感じます。
かつて、ドイツの説教者ルドルフ・ボーレンは、すべての牧師は詩人でなければならないと言いました。短い言葉で、適切に言葉を表現することができる必要性を訴えていました。彩さんの詩は、まさにその自分が見て、感じたことを、短い適切な言葉で表現する詩になっています。「農民文学 春号」に載っておりますのでぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思います。「大地青春」というタイトルがつけられています。詩は、三年間経験した農作業や稲刈りの思い出などがつづられています。この冊子の中に、独立学園の今の校長が記した祝辞が述べられています。その文章の中に、独立学園の理念となっている内村鑑三の言葉が紹介されています。「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働」この言葉に基づく人間教育を独立学園は重視していると書かれていました。
彩さんの詩、「大地青春」の終わりに、卒業のことを書いた「旅立ち」という詩があります。少しその部分を紹介したいと思います。
〇旅立ち
未だ雪深い弥生の空に
食堂から漏れるコーラスの声が
高く高く吸い込まれていく
わが学び舎の
三度目の冬の終わりの始まり
人と出会い人と生き
土に学び土に生き
命
出会いの大きさを捉えられず
身の内の空っぽを見つめたこともあった
その都度
ほんの少しずつ
心に沈んでいくものはあって
それは消えてなくならないと
分かってしまった
たったひとつ探求し得た 真理の片鱗
世に独り立つ時
その生き方が問われよう
幾度の涙で清められた眼差しの本当と
山の懐の本物を
ただ抱きしめていく
小さく満たされて
丁寧さに誠実で在ろう
こころいっぱい
三年の間に、人と出会い、土に学び、自分と向き合ったことで自分が造られていったことが、見事に文章化されています。そして、世に出た時に、自分の生き方が問われる。
「小さく満たされて 丁寧さに誠実で在ろう こころいっぱい」
と結ぶ、その詩の言葉にすがすがしさと、詩人が経験してきたものが、自分のものになっていった強さを見ることができます。
詩を読むというのは、詩人がそこで語ろうとしていることを聞きとる楽しみがあります。彩さんの詩は、読む人に、その楽しみを味わわせてくれる豊かな言葉の詩です。
今日は、ちっとも聖書の話をしないままになっていますが、詩篇を読むことも同じです。
この119篇の詩人が、読み取って欲しいと願っていることを、聞きとる楽しみがあるのです。
そうやって、145節から152節までを読んでみると、詩人がどんな生活をしているのかが見えてきます。この祈り手もまた、自分自身を見つめながら、毎日を生きています。そして、その毎日の歩みの中で生まれてくる心の叫びが見えてきます。
「私に答えてください。」
「私をお救い下さい。」
「私を生かしてください。」
「悪意を遂げようとする者が近づきました。」
そんな、祈り手が抱えている困難な生活状況が見えてきます。
そして、「私は夜明け前に起きて 叫び求めます」とか、「夜明けの見張りよりも先に目覚め あなたのみことばに思いを潜めます。」とあります。
独立学園はスマホもテレビもネットも禁止されているのだそうです。「深い静けさの中で、他者と対話すること、自分を見つめること、自然に触れ学ぶことを大切にしている」のが学校の特徴だと校長の後藤正寛先生は、祝辞の中で書いています。
徹底的に自分を見つめることの大切さを、改めて気づかされます。
当然のことですが、詩篇の詩人も同じです。心をごまかすことのできるもののない世界で、いろんな悪意に直面させられながら生きているのです。その中で、詩人の慰めになったもの、それが聖書です。神のことばです。夜明け前、太陽の日を浴びるよりも前に、神のことばを浴びて生きようと願う祈り手の歩みが記されています。どれほどみことばが支えとなったのかが、よく分かります。
私たちは、この詩人のように自分と向き合っているのだろうか、いろんなものから逃げてしまって、聞きとらなければならない大事な言葉を聞きそびれてしまっていないのだろうか。そんなことを改めて考えさせられます。
主の救いがなければ生きていかれないのに、主の救いではないものに救いを求めているのではないか。夜明け前から神のことばを聞くことでその一日を始めようとするのではなくて、別の言葉で、とりあえずのもので、毎日ごまかしごまかし生きてしまってはいないのか。そんなことを考えさせられるのです。
次の段落の冒頭の153節にはこういう言葉が記されています。
私の苦しみをご覧になり
私を助け出してください。
私はあなたのみおしえを忘れません。
続く154節にはこうあります。
私の言い分を取り上げ
私を贖ってください。
あなたのみことばにしたがって
私を生かしてください。
この詩篇の詩人がここで私たちに届けようとしているのは何でしょうか。それは、神のことばは救いなのだというメッセージです。
自分が抱えている苦しみ、自分の言い分が届かない苛立ち、近づいてくる悪しき者、迫害する者、敵、裏切る者、そういった言葉が続きます。このような、困難なものから、自分を救ってくれるものは、神のことばなのだと訴えているのです。
私の苦しみをご覧になり
私を助け出してください。
手垢のついたような、救いを求めるありきたりな言葉と読むこともできるでしょう。けれども、私たちはこの言葉がなかなか口から出てこないのではないでしょうか。
「私は苦しんでいる」ということ自体、まず私たちは認めたくないのかもしれません。まだ大丈夫、まだ何とかできる。そう言い聞かせて、自分を奮い立たせるのは、自分の弱さを受け入れてしまうと、どんどん自分が崩れていってしまうという恐れを覚えるからです。
もっと頑張らないといけない。しっかりしていないといけない。弱音を吐いてはいけない。私よりも大変な人はもっといるのだから。そうやって、私たちは何とか立ち続けよう、自分を保ち続けようと、人知れず踏みとどまっている。自分で築き上げた堤防が瓦解しないように、踏みとどまっている。そして、その苦しみをどこにも持って行くことが出来ない。それは、何と苦しいことなのでしょう。
確かにそうなのです。私たちの泣き言を、どこかに訴えても、誰も、どうすることもできないのです。ただ、あの人は弱いとみられるだけで、そこには何もない。それが、私たちが知っている世界です。
けれども、この祈り手はそこから抜け出す道があることを知っているのです。涙を流す場所があることを知っているのです。心の叫びを聞いてくださるお方がおられることを知っているのです。それが、生けるまことの神、私たちの主なのです。
私たちの主は救いの主です。この主の救いは、神から語りかけられることばによって、私たちのところに届けられます。聖書には、救いの神が、どのように人と関わり、神の救いの御業を行おうとされたのかが、記されています。この救いの御業は、主イエスを通して、私たちのところにもたらされました。
私たちは、神のことばとは、聖書のことだとまず考えると思います。聖書は歴史の中で起こった神の御業が記されています。言ってみれば、記録された神のことばです。
そして、私たちの主イエス・キリストは、この神のことばそのものとして、私たちに示されました。主イエス・キリストは神のことばそのもの、生ける神のことばです。
そして、教会はこの神のことばを説教してきました。宣べ伝えられた神のことば、説教された神のことばとも言えます。
この三つを神のことばの三形態とか、三形式といいます。もう一度まとめると、書き記された神のことば、そして、生ける神のことばであるイエス・キリスト、そして三番目に、説教された神のことばです。
神のことばである聖書が語られる時に、説教される時に、私たちはイエス・キリストと出会うのです。神の心と出会うのです。その時、私たちは神の思いを知るようになります。神の御心を知るようになります。私たちを救いたいと願っておられる、罪人のまま、苦しんでどう生きたらよいかわからないという状況に、私たちを置いておきたくはないと願っておられる主を知るのです。その主と出会うのです。そして、そこに神の救いの御業が起こるのです。
私たちの主は、私たちの苦しみをご覧になるお方です。そして、私たちを助け出したいと願ってくださるお方です。だから、私たちはこの神のことばを忘れないのです。忘れることができなくなるのです。神のことばを聞くときに、私たちはそこで救いの主との出会いが起こるのです。その時、私たちは、主が私たちを悩みの中から救われるということ身をもって経験するのです。
お祈りをいたします。