・説教 ローマ人への手紙1章1-15節「キリスト者の責任」
2021.05.30
鴨下 直樹
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パウロはローマにできた教会に宛てて手紙を書いています。直接の面識のない相手ですから、まずは丁寧な挨拶からはじめました。それで、8節から15節のところでは、今度は自分がローマに手紙を書くことになった「理由」とか「目的」、「動機」というようなものを語っています。それと同時に、ローマの人たちとの関係を作りたいと願っています。
この8節のところには「まず初めに・・・感謝します」という文章が書かれています。まず初めに言いたいのは、感謝の言葉です。
何を感謝するかというと、「全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。」とこの8節で書かれていることに対してです。
この時代にローマの教会にどのくらいの人たちが集まっていたのかは、はっきりしません。クランフィールドという聖書学者は、この手紙に「教会」という言葉が出てこないので、まだ、そこまで呼べるほどの人が集まっていなかったのではないかと考えています。あるいは、マシュー・ブラックという人は、当時の歴史家タキトゥースの記録から、当時のユダヤ人の会堂には何万人という数の人たちがいて、複数の会堂があったと考えられるので、その中の一つがユダヤ人キリスト者の拠点になったと考えています。そして、10数年後にはおびただしい数のキリスト者がいるという記録があることから考えても、パウロが手紙を書いた時点ですでに、かなりの数のキリスト者がいたと考える人もいます。
あなたがたのことが世界中に知られているので感謝するとパウロが言った時に、言われた方からしてみれば、自分たちは知らない間に、世界中でそんなに有名になっているのかと、驚きながらも、嬉しかったのだと思うのです。でも、そのことは、よくよく考えてみると、そんなに最初から評判になるような素晴らしい教会が生まれるだろうかと考えてみる必要があります。
おそらく、パウロがここで感謝しているのは、ローマの信徒たちが世界の模範となるようなキリスト者だから感謝しているのではなくて、ローマに教会が出来たということが、世界中の評判になっているという意味なのだと考えられるわけです。
ローマはこの時代の世界の中心です。この世界中心の都市に、主の教会ができたということは、この時代のキリスト者たちにとって、大きな励ましになったに違いありません。そしてそのことは、地方の信徒たちにとってみれば、自分たちの信仰が、ローマでも信じられているのだ、古臭い宗教、時代遅れの教えなどではないのだという思いを抱かせたに違いないのです。
それほどに、ローマは世界の中心であったのです。そこに住んでいるあなた方が、主を信じる信仰に生きている。そのことは、本当に感謝な出来事なのです。何をおいても、まず初めに、感謝すべき事柄だとパウロは考えたのです。
今、コロナ禍ということもあって、予定されていた会議はほぼ、オンラインになりました。先週は二つのオンラインの会議があったのですが、そこで、まさに日本中の牧師たちと言葉を交わしました。東京、神奈川、千葉、大阪、滋賀、兵庫、岡山、各地の牧師たちと、いろんなことを話し合います。先週はマレーネ先生からドイツの教会の話しも少しお聞きしました。感染の大変な地域では、どうやって礼拝しているか、そんな話がきこえてくるなかで、一昨日、私はこの教会の方々と、「昨晩ホタルが四匹出ました!」なんていうのどかな情報を共有しています。
なんだか、この岐阜の片田舎だけ世界から取り残されているような気がしないわけでもありませんが、それがこの土地の時間の進み方です。
でも、だからといって、私たちが世界から取り残されているわけでもありませんし、私たちの教会の礼拝が、世界の片隅で行われている礼拝だなどと考えたことは一度もありません。
そこが、ローマであろうと、東京であろうと、ドイツであろうと、主が私たちに語り掛けようとしておられるみ言葉を、この地で聞くことができることは感謝なことです。
やっとローマにも教会が出来たというのは、考えてみれば遅いくらいだったのかもしれないのですが、それでも、ローマにも福音が届いている。それは教会にとって本当に感謝すべき事柄なのです。
先日、はじめて高速道路の関市のサービスエリアに入りました。関市は刃物が有名な町です。近すぎてなかなか入ったことがなかったのですが、入ってみますと、いろんな刃物が売られています。何でもないところに目がいったのですが、そこに「地方発送いたします」と書かれていました。それをみながら、「こうでなくちゃ」と私は思いました。
送り先が東京だろうが、ローマだろうが、ドイツだろうが、そこもみんな「地方」ですよ。考え方としては、あくまでも自分たちが中心です。自分たちのところで生まれたものが、世界中の「地方」へ届けられて行くわけです。ここがホタルの出る田舎などと考える必要は全然ないわけです。
大切なのは、その私たちが世界にお届けするものの、中身といいますか、品質の方が重要なわけです
パウロは言うのです。14節
私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
これは、いかにもパウロらしい書き方なのですが、当時、ローマにいるギリシア人たちは、ギリシア人と未開の人という考え方をしていたようです。この「未開の人」というのは、ギリシャ語で、「バルバロス」と言います。ある解説によると、この言葉は、ギリシア人たちが他の言語の人の言葉は「バル・バル・バル」と言っているように聞こえたというところから、来ているのだそうです。
私がドイツに住んでいた時のことですが、語学学校に行く朝のバスにのっていますと、途中から何人かの小学生が乗り込んできます。ある時、ひとりの子どもが、私の顔をみまして「チャイチーチャイ」と言ったのです。私は何のことかわからずに、きょとんとしていますと、その子どもたちが大笑いをしていました。学校についてから、この話をしますと、語学学校の先生が、それはたぶんアジア人だというので、からかわれたのだと説明をしてくれました。それを言われたとたん、急に腹が立って来まして、今度あったら言い返してやろうと思ったものです。
「バルバロス」というのは、そういう、言ってみれば侮蔑の言葉です。自分たちが世界の中心であるという考え方がそこにはあります。言われた方が嫌な気持ちになる言葉です。日本語の「外人」という言葉もそれに似ているのかもしれません。
「未開の人」というのは、相手に言葉が通じないということです。けれども、それは反対から考えてもそうなわけで、お互いに、言葉が違えば意思の疎通ができないということになります。パウロはそういうことを理解したうえで、こう言っているわけです。
私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
私は、自分が世界の中心にいると思っている人であろうと、蔑まれる側にいる人であろうと、知識のある人にも、知識のない人にも、負い目があると言うのです。立場が変われば見方が変わります。自分が中心だと思っていても、反対からみれば、そんなことは通用しないわけです。そのように、いろんなところに立つ人がいるということを理解しながらも、パウロは、そういう言葉の届く人であろうがなかろうが、その人に対して自分は負い目があると言っているのです。
この「負い目」というのは「責任」ということでもあります。他の聖書の翻訳では「責任」と訳されています。
その責任というのは、どういう責任かというと、この後に「ぜひ福音を伝えたいのです」と言っています。
私たちは福音というのは、神からの一方的な恵みであると聞いています。私たちが何かをしたから救われるのでない。私たちのいさおし、私たちの努力によって救いを得られるようになるのではないということを知っています。けれどもパウロは、自分には負い目がある、責任があると言うのです。借金があるから返済する必要があると言っているわけです。しかも、その福音を届けるということが、何を話しても「バル・バル・バル」としか聞こえない相手であったとしても、その人が自分の方が知恵があると考えていたり、自分が世界の中心にいると思っている相手であったとしても、その人に対して、何とか福音を届けるという責任感を感じているのだと、ここで言っているわけです。
簡単なことではないことは承知しているわけです。言葉が届かなければ、言葉が届くようにしなければなりません。相手の言葉を覚え、相手の習慣に関心を払い、その考え方を理解していく必要があります。
こんなことも分からないのかというスタンスでいたら、絶対に届きません。相手のことを見下していたら伝わりません。大変なことは十分承知しているけれども、何とかこの人に福音を届けたいと思っていると言うのです。
そして、このパウロの福音を語る、み言葉を語る側の視点というのを、私たちは知る必要があるのです。
確かに、私達も恵みによって救われたのです。私たちは何か良いことを行ったから救われたのではありません。それはただ、一方的な神からの行為です。神の愛であり、恵みであり、慈しみです。
そして、それを私たちはずっと主から頂き続けることになります。信仰に生きるというのは、この神の者として生きるということです。神の所有となるということです。神のものとされ、罪がゆるされ、永遠のいのちを頂いて、平安をいただいて、生きがいをいただいて、人を愛する心をいただいています。それはもう、私たちが意識しようが、しまいが関係なく、上から注がれ続け、降り続けてくる恵みです。
そうすると、どうなるのでしょうか。一つはそれが当たり前になって慣れてしまうということが起こり得ます。毎日、毎日のことなので、それが普通になってきます。こうなると、何も感じなくなってしまいます。食事がでてくるのも当たり前、洗濯掃除あたりまえ、給料持ってくるのもあたりまえ、感謝するのもあたりまえ。こうなると空気みたいになってしまいます。それはとても悲しいことです。
人間相手でも悲しいことですから、それが神さま相手だとどうか。それは神様にどう映るのかということを考えてみたことありますか?ということになります。
もう一つの反応があります。それは、こんなにまでしていただいているので、何とか少しでもお返ししたいという気持ちになるということです。パウロはその気持ちのことを、ここで「負い目」と言っているわけです。「責任」とか「負債がある」という言葉で表現しているわけです。
ここまで主にしていただいたのであれば、私も、相手になかなかとどかないかもしれないことは重々承知していながらも、何とかそのためにやってみるということです。
言葉が届かなければ届ける工夫をする。相手の気持ちがわからなかったら、分かろうとする。なぜ、そんなに頑ななのか、理解できなければその原因をみつけようとする。そうやって、どうしたらこの人に、この大切な言葉が届くのかを考えていくということです。
そうやって、届けられるのが福音です。そうやって、語られていくのが、説教だということもできます。
けれども、教会まで連れてくることが出来なければ、その部分を自分でする以外にありません。もちろん、それ大変なことです。自分には無理、私にはできない、と開き直ることもできると思います。ただ、その開き直りをする相手は、私たちのために十字架にかかってくださった主イエスにすることになるということを、私たちは知っていなければなりません。
主イエスは、わたしはここまでやって、何とかあなたに届いたみたいだと言われるのです。
これは、もう「負い目」「借金」と考えたパウロに、私たちは共感できるのではないでしょうか。これは「負い目」「責任」。キリスト者の責任なのです。
自分に向かって、「バル・バル・バル」と言いながら声をかけてくる相手に対して、自分を罵る相手に対して、ここまでやってられるかという思いになります。しかし、主は、私たちのことをそれでも愛してくださるのです。私たちに福音を届け続けてくださっているのです。私の心に何とか届くように。それは、自分に振り向いてくれない人に、毎日バラの花を送り続けるようなものなのかもしれません。もうしつこい、ストーカーか、と言われるかもしれない。いや、じゃあ今度はカーネーションにする。今度はチューリップにしてみる。いや、そういう問題じゃないと言われながら、それなら、明日はケーキにしようか。それでもだめなら煎餅か・・・
そうやって、届けられるのかもしれません。何が届くのか、何が正解か、最初から答えが出ているものでもないのです。
それでも、この思いはきっと伝わるはず。そう信じてやり続ける。それが、「ぜひ、福音を伝えたいのです」ということです。
この福音を伝えたいと願っているのは、まず第一に他の誰でもなく、主ご自身なのです。そして、私たちは、この主の僕なので、このことをするのです。
お祈りをいたします。