2021 年 12 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙7章14-25節「心の葛藤を乗り越えて」

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2021.12.05

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 パウロは、この7章で「律法」とは何かということを、丁寧に解き明かそうと試みています。この前の7章の1節から13節までのところでは、「律法」が人にとってどれほど大切なものであるのかということを語ってきました。そして、この律法があることによって、人はかえってそれに逆らおうとして苦しむことになる、ということを語ってきました。

 パウロはここで、もう一度この「律法」とは何かということを、別の視点で語ろうとしています。それが、今日の14節以下のところです。

 パウロはかつて、この「律法」こそが何よりも大切なものであると信じて、行動してきた人でした。彼は、キリスト者になる前は、律法に従って歩んできたのです。律法というのは、神が人に与えた神の御心を知らせるものです。ここには、神の願いが、人にどう生きてほしいのかという基本が、十二分に語られているのです。

 ところが、パウロは主イエスと出会います。そして、「福音」を耳にします。主イエスによって、これまで律法を大切にしてきたのとは全く異なる福音の光を知るのです。すると、今まで自分が何よりも大切なものであると信じてきた律法よりも、重要なものがあるということを知ることになったのです。

 パウロは、それまで律法の大切さを教えられ、信じてきました。律法を守る正しい生き方をするために、それこそパウロはいのちをかけて歩んできました。そういう意味では、パウロは他の人よりも高潔な生き方を志して生きてきた人だったといえると思います。いい加減に生きてきたわけではないし、自分をごまかしながら、言い訳をしながら、生きてきたわけでもありませんでした。

 そのパウロがここで言うのです。それがこの14節と15節です。

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。私には自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

 ここで、いくつかの大切なことが語られています。まず、考える必要があるのは、ここで使われている「私」という言葉です。この「私」は誰のことを指しているのか、聖書学者たちは、これはパウロ個人のことで、パウロが改心する前の「私」を語っているのではないかとか、いや、これは「私たち」のことではないかという議論があります。ただ、ここで語っている「私」は、パウロ個人のことだけではなく、私たちのことを語っているのは明らかです。むしろ、信仰に生きようと思っている人のことを、「私」と語っていると理解して読むことが大切です。

 そして、その次にパウロが語ろうとしているのは、律法が霊的なものであること、大切な神の意志を教えるものであるということです。パウロは律法の重要性をここで改めて語ります。

 そのうえで、神の心を律法で教えられて、正しいことが何かわかっているのに、それを行うことのできない、人間の弱い性質、ここでは「肉」と呼んでいる罪の性質、神の思いに相反して生きようとする自分があることを、認めなければならないのだと語っています。

 特にこの最後の部分でお話したことは、私たち誰もが、日常生活の中で経験することなのではないでしょうか。本当は、このことをしたい、正しいことをしたいと思っているのに、それができない弱さが、私たちの中には存在しているのです。

 たとえば、毎日の生活を振り返ってみてもそうです。それは、朝起きるところから、その葛藤が始まります。もう布団から出て、起きなければならないと分かっているのに、まだ布団から出たくない。もう仕事に出かけなければならないのに、準備が整わなくて遅れてしまう。そんなことからも分かります。

 もちろん、パウロがここで語ろうとしているのは、そんな生活の基本的な道徳を語っているのではありません。神の律法ですから、神が願っておられることです。神が願っておられるのは、私たちを道徳的に正しく判断できるようにしたいということに留まりません。私たちを罪から救い出し、私たちを死ののろいから解き放ちたいのです。そのために与えられているのが、律法です。

 私たちは神に喜んでもらえるような愛に生きたいと思うし、神に喜ばれる信仰の歩みをしたいと思う。毎日、聖書を読んでお祈りしたいと思うし、人のためになることをしたいと思う。人に対して親切で、愛のある振る舞いをしたいと願う。けれども、それを実行に移すことの難しさを覚えるのです。

 いや、ただできないだけではなくて、むしろ神を悲しませるようなことまで行っている自分がいるということを、認めなければならないと、パウロはここで言っているのです。それが、17節から20節でパウロが語っていることです。

 これは、具体例を挙げるまでもなく、私たちが毎日悩み苦しんでいることと言ってよいと思うのです。
 
 21節にこうあります。

そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。

 ここに「原理」という言葉があります。これは、普段は「律法」と訳している「ノモス」という同じ言葉が使われています。簡単に言うと、「私」の中に、二つの律法、二つの考え方が入り混じっているというのです。一つは、神の律法で、「善を行いたい」「神に喜ばれる生き方をしたい」と願う思いです。けれども、もう一方には別の原理が働いていて、神の思いに逆らって自分の肉の思いの赴くままに、罪を犯してしまいたいという考えも存在するというのです。

 よく、テレビドラマか何かで、頭の中に小さな天使と小さな黒い悪魔が出てきて、「いいからやってしまえよ」「いやいやダメだよ」というコントのような場面を見ることがあると思います。パウロは、まさにそのような二つの考え方が自分の中でぶつかっていると、ここで語っているのです。

 そして、パウロはその小さな悪魔の方、肉の思い、自分の中にある欲望が働いてしまって、この「罪の律法」に負けてしまうのだと、続く22節では語っています。もちろん、いつもということではないでしょう。私たちは、信仰の歩みをしているわけで、毎回、この罪の誘惑に負け続けているということはないと思います。けれども、その罪の誘惑に、肉の思いの赴くままに、欲望の赴くままに行動してしまう自分があることも認めなくてはなりません。
 
 するとパウロは、今度はここでこういうのです。24節です。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 私たちには、さまざまな葛藤があります。日常の生活の中での葛藤があるでしょう。個人的な思いの中での葛藤もあるでしょう。そんな中で、誰かを、自分のみならず誰かを傷つけてしまったという中で、自分のみじめさを覚えることがあります。あるいは、信仰者としての葛藤があります。キリスト者としてどうありたいのか、そんな葛藤は常に私たちの中に存在しています。

 パウロはここで、「私は本当にみじめな人間です」と言います。パウロがここで見ているみじめさとは何でしょう。それは、「死のからだからの救い」とここで言っています。実は、私は、この箇所を念頭において、今日の説教題を「心と体の葛藤」としていました。けれども、それをやめて「心の葛藤」と変えました。それは、誤解を避けたいと思ったからです。

 というのは、パウロはここで、「からだにある罪の律法」とか「死のからだ」という表現を使っていますが、「わたしたちの体」そのものが悪であると言いたいわけではないのです。ここで言おうとしているのは、「肉」と表現されている、自分の中に潜む神に逆らう性質があって、その罪のために自分は死に支配されてしまっている。そして、それを人はどうすることもできないという、人間の力や努力ではこの死に立ち向かうことができないのだということを、パウロは嘆いているのです。それが、ここでパウロが語っている「私のみじめさ」です。ですから、それは当然、パウロだけのことではありませんし、改心前の話だなどいうのはまずありえないことです。私たちは誰もが、みな誰もが等しくこの「みじめさ」を知っているのです。

 ところが、パウロはここまで述べておいて、最後の25節から希望を語り始めます。ここにきて、ようやく希望の言葉が出てくるのです。

私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 パウロはここで、自分の中にはこの二つの律法があることを認めています。けれども、神に感謝すると宣言しているのです。何を感謝しているのでしょうか。その中身は、この25節だけは見えてきません。

 それで、少し先を読むとこう記されています。次の8章の1節と2節です。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

 感謝の理由が次の章にまたがって記されているのです。それによると、キリストは、死んでよみがえられたことによって、この私たちにみじめさを突き付けてくる罪と死の律法を打ち破ってくださったからだと高らかに宣言するのです。このキリストが私たちの主であるということは、私たちは何度も何度も過ちを犯してしまう弱さを抱えているけれども、神はこの主イエスが私たちに与えられていることで、私たちを罪とはされないのだと宣言しているのです。

 これが、パウロが出会った「福音の知らせ」だったのです。私たちは律法によって正しい生き方を知ることができるようになりました。けれども、それが実際にできなければ意味がないのです。そして、キリストは私たちの心の中に潜んでいる罪の律法の部分、肉の思いを、欲望を、死の支配を、打ち破ることがおできになるお方なのです。主はそのために十字架にかかり、三日目によみがえられたのです。

 だから、感謝しかないのだとパウロはここで高らかに宣言するのです。キリストは私たちがみじめな思い、罪に苦しむ思いから、私たちを解き放ってくださるのだと宣言するのです。

 この知らせこそが福音なのです。そして、パウロは続く8章から、この福音を余すことなく力強く語り始めていくのです。

 今日から12月に入ります。アドヴェントの第二週を迎えます。世の中もクリスマスムードが高まってきています。暗い夜の中に輝く美しいライトアップが至る所でなされます。それはまるで、肉の思いに支配された私たちの心の中に、外から福音の光がもたらされたというこのメッセージを表しているかのようです。

 まっくらな世界の中で、どれほど律法があっても、正しく生きる生き方が示されても、闇の世界のままではその立派な行いはさほど目に留まりません。けれども、その闇の世界、肉の欲の支配の中に、太陽の光が、圧倒的な光がもたらされたのです。それが、主イエス・キリストの復活の御業です。

 主イエスは、この世界に光をもたらすために来てくださいました。私たちを苦しめる心の葛藤から私たちを解き放つためにです。この主は、私たちを罪の苦しみから、死の闇から、心の葛藤から自由にするために、来てくださったのです。

 お祈りをいたします。

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