・説教 ローマ人への手紙8章12-25節「待ち望む信仰」
2021.12.26
鴨下直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今、ローマ人への手紙の第8章から主のみ言葉を聞き続けています。今日は主に18節から25節のみ言葉に耳を傾けていきたいと願っています。けれども、聖書箇所は12節からにしました。聖書の箇所が飛び飛びになっていますので、少し内容を整理した方がいいと思ったからです。それで、この8章の全体像をまず見てみたいと思います、
ローマ人への手紙の8章ですが、ここには神の救いの業が語られています。ここには、たくさんのキーワードが出てきます。「罪」「死」「律法」「肉」「霊」「御霊」いろんな言葉が繰り返されています。
まずこの8章で、パウロの言おうとしていることを整理して考えてみたいと思います。ここでパウロは、「罪に支配されているために、人は死に支配されるようになってしまった」というところから始めました。まずそこから考えてみましょう。
分かりやすく、電化製品が故障したときにあてはめて考えてみると分かりやすくなるかと思います。ただ、先に断っておきたいのは、物事を簡単に説明すると、ある程度は説明できますが、すべての部分を丁寧に説明できるわけではないということは、理解していただきたいと思います。
- まず、故障かな?と思ったらどうするかです。このままでは本当に壊れてしまうので、「取扱説明書」でちゃんと機能しているか、あるいは問題がどこにあるか確認します。それが神から与えられた「律法」の役割です。
- 「取扱説明書」を読むと、問題点が分かります。どうも、「取扱説明書」によると、ハードの部分は問題ないけれども、ソフトの部分が壊れてしまっているようです。私たちの体は問題ないのですが、「霊」の部分、神様の願いを受け取る部分がどうやら故障している状態だということです。これを「肉」の状態とここで説明しています。
- そうすると、今度は、製造元のメーカーに問い合わせると、原因と解決策を教えてくれます。サポートセンターによれば、「霊」の部分が壊れているので、新しい「聖霊」をインストールして、最新の状態に更新すれば問題が解決することが分かりました。これで、問題が解決すれば、治った、救われたということになるわけです。
- この「聖霊」によって、私たちの「霊」が最善の状態になった時に、製造元である神様は、「検品終了、合格」という品質保証をしてくれます。それが「神の子」と認められるということです。
ここまでが、1節から17節まででパウロが語ったことです。
ここまでのところにいろんなことが書かれていますが、罪を犯してしまった人間が、もう一度救われて、神の子とされるのは、そういう手続きが必要ですよ、ということがここまでで、実に丁寧に書かれていることがおわかりいただけるでしょうか。
さて、そこまで確認すると、私たちは安心して今日の18節からの部分に移れることになります。今日語られている中心的なことは何かというと、19節です。
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
と書かれています。唐突に「被造物」という言葉が出てきますので、私たちはこの「被造物」とは一体何のことを言い表しているんだろうかと難しく考えてしまうのですが、そのままの意味です。
この世界を神が創造されたときに、神はその世界のすべての被造物を人間に託しました。この神が作ってくださった美しい自然も、動物も、海も魚も、何もかも、これを人間が正しく治めることが、人間に与えられた神からの最初の使命でした。ところが、人は楽園を追い出されてから、罪に支配され、「肉」に支配された状態になったために、この被造物を正しく管理することができなくなってしまいました。そういう意味では、一番の被害者は「被造物」ともいえるのです。
それで、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」とパウロはここで語るのです。そして、その状態の人間が失ってしまった神の霊を取り戻すことを通して、ようやくこの世界が滅びに向かうことから解放されていくのだと言っているのです。
21節でパウロはこう言っています。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たち人間が、製造元である神様から合格をいただけるような、健全な状態に人間が戻った時に、この世界は再創造されていきます。神の子どもたちがちゃんと働いて良かったね、どんどんこの世界を破壊させていく、滅びの状態から、この世界そのものが癒されていくようになりますよ、というのです。
さて、問題はここからです。22節でこう続きます。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
ここから少し分かりにくくなります。被造物のすべてが、今に至るまで産みの苦しみをしている。23節では私たちのことを言っていますが、その私たちも「心の中でうめいています」とあります。
では、ここで言っている世界の「被造物のうめき」とは何でしょうか?
今、世界中で環境破壊が叫ばれています。私はそれほど詳しくないのですが、氷河がとけはじめて、どんどん水面が上昇しているのだそうです。ロシアでは永久凍土といわれていた土地が次々に溶けてしまって、各地で問題が広がっているといいます。日本でも夏になると、何十年に一度というような水害が、最近は毎年起こるようになっています。九州地区は毎年のように「線状降水帯」とかいう、これまで耳にもしなかったものに苦しめられるようになりました。
それほど詳しくない私でもそのくらいのことは耳にします。この世界が、まさに死に向かっているのは、誰のせいかというと、神が創造された人間たちの「霊」が機能しなくなって「肉」に支配されてしまっているからです。私たちのすること一つ一つ、悪いことだけでなく、良いと思ってすることも含めて、私たちのなすことすべてが「肉」に支配されてしまっていることから、この問題は起こっているのです。これが、罪の現実です。そのために、この世界の被造物は切実な願いで、新しく変えられることを求めているのです。今、私たちの前に示されているものは、この厳しい罪の現実です。まさに、破滅に向かっている死の世界です。しかし、この世界は、被造物も含めて全てが新しくならなければならないのです。
そして、この世界が新しくなるために必要なのは、「ともにうめき、ともに産みの苦しみをする」ことなのだとパウロは言うのです。
私たちが罪から救われるのは、私たち自身の悩みが解決するという程度のことではなくて、この全世界が新しく再創造されていくことと深く関わっているのです。
ただ、望みもないままにこの世界は苦しんでいるのではないのです。この苦しみは、私たちが救われることを通して、産みの苦しみ、新しいいのちを生み出すうめきになるのだとパウロはここで言っているのです。
パウロがここで語っている神の救いの計画は、実に壮大な計画なのだということが分かると思います。私たち個人の救いという問題にとどまってはいないのです。私たちが変わるということは、この世界が変わること、この世界が新しく造り変えられる事なのだと言っているのです。
パウロの言葉はまだ続きます。23節と24節の前半までをお読みします。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
私たちは、この望みとともに救われたのです。
この部分は、ローマ書の頂点と言ってもいい部分です。パウロは私たちが救われたのは、壊れた人間であった私たち、被造物を壊し、この世界を死へ、破滅へと追いやってしまう私たちを、私たちの造り主であられる主は、主イエスの霊である聖霊を私たちにプレゼントしてくださって、神の救いのご計画を完成しようとしておられるのです。
そして、私たちにその聖霊が与えられたこと、私たちが救われたというのは、「御霊の初穂をいただいている」とここで言っています。初穂とは、そこから大きな収穫を生み出す、可能性です。聖霊を与えられている私たちは神の子である、もう神の相続をいただく相続権が与えられているとすでに17節で言っていました。私が救われることで、この私から、新しい何かが生み出されるうめきとなって、今の私たちには見ることもできないような、想像もできないような素晴らしい収穫が与えられるのだ。だから、それまでの間、忍耐して待ち望むのだというのです。
24節の続きからお読みしましょう。
目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
私たちは、私たちが思っている以上に救われているのです。それは、まだ目に見えていないものが、私たちの中で、うめいているのです。私たちの子どもたちが、私たちの教会の仲間たちが、次の世代に、次の世代にと引き継がれていく中で、この神の救いの御業は、大きなはかりしれない救いの御業を成し遂げていくのです。
間違いないことは、「信仰を与えられている私たちは、御霊の初穂をいただいている」という事実です。御霊の初穂ですから、間違いなくそこから実がもたらされるのです。ただ、私たちに必要なことは、待ち望むこと、希望を失わないで、神がなさる救いの御業に、私たちも参与し続けていくことです。
その時が来ると、その時が来るならば、この世界は、すべての被造物と共に、この世界の造り主である主を褒めたたえ、神の栄光のみわざをともに褒めたたえることになるのです。
お祈りをいたします。