2022 年 1 月 9 日

・説教 ローマ人への手紙8章26-27節「私たちの心を探られる方」

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2022.01.09

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 私が、神学生の時のことです。ある祈りと出会いました。それは、デンマークの哲学者で、キリスト者でもあるキェルケゴールの祈りです。昨日、その本を探したのですが、見つかりませんでしたので、正確な言葉ではないのですが、こんな内容の祈りです。

「私の罪をお赦しください、と私たちは祈ります。そして、罪を犯すことがないようにお助けくださいと祈ります。けれども、私たちはあなたに罪を犯しているのに、あやまる当人に、もう罪を犯さないようにお助けくださいと、助けまで強要しています。あなたはそんな私たちの身勝手な祈りを我慢して聞いておられます」

 祈りはまだ続くのですが、そんな内容の祈りです。私はその祈りを知って衝撃を受けました。この人は、本当に神の御前で祈っている人だと思ったのです。

 私たちの日ごとの祈りの多くは、形式ばった祈りです。何をどう祈るか、もう決まっています。食前の祈り、仕事に行く前の祈り、寝る前の祈り。生活の中に、祈りがあることはとても大切なことですが、その祈りの多くは、ほとんど無意識的に口から出てくる、言ってみれば心のない言葉の羅列になる場合があります。
 そして、日ごとの悔い改めの祈りさえも、形式的な祈りになってしまうことがしばしばです。

 私がまだ子どものころ、祈ることを覚えたばかりの頃です。寝る前に、日ごとの悔い改めの祈りをするようになりました。

「天のお父様、私の今日一日の犯した罪をお赦しください。アーメン」

 実に、シンプルな祈りです。それは毎日、毎日、呪文のように繰り返されていました。そう祈れば、その一日に犯した罪はリセットされると思っていました。すると、ある日、父が私に言いました。「そのお祈りは、神様の前に本当にごめんなさいという気持ちが込められているのか。心からの悔い改めでないのならやめなさい。聞いておられる神様はどんな思いでその祈りを聞いておられるか」

 その時から、神様が祈りをどのような思いで聞いておられるのかを意識するようになりました。

「神に苦労をかける祈り」預言者イザヤはイザヤ書43章でそう表現しました。

 私たちは、祈りで悩まない人はいないと思います。どう祈るのがいいのかよく分からないまま、自分の祈りに自信がないまま、手探りで祈る習慣を身に付けようとしているのだと思います。

 祈りの正解を探そうとするのはとても困難です。聖書の中には実にたくさんの祈りの実例が記されています。実は、私は明日、私がかかわっている東海聖書神学塾のオープンセミナーと、入塾説明会の責任を持っておりまして、そこで二回の祈りの講演をする予定でした。旧約聖書の祈りと、新約聖書の祈りという二回の講演です。ですが、明日急遽ある方の葬儀を行うことになったために、その講演をすることができなくなってしまいました。また、どこかでお話しする機会があればと思っていますが、その一部だけを簡単に紹介したいと思います。

 聖書の中には、実にさまざまな祈りが登場します。旧約聖書の祈りは特にユニークなものが多いのですが、例えば、アブラハムのとりなしの祈りがあります。神が、甥のロトが住んでいるソドムとゴモラを滅ぼされる時に、50人の正しい人がいたら、それでも滅ぼされるのですかと問いかけて、そこから10人の正しい人がいたら救ってほしい願いまでの交渉をする場面があります。これを祈りと言っていいかという考えもあるかもしれませんが、これは、旧約聖書に記された代表的な祈りの姿です。

 モーセの祈りというのもあります。出エジプト記32章に出てくる祈りです。神から十戒の板を貰っている最中に、民がモーセの兄アロンを担ぎ出して、金の子牛を神に見立てて偶像に祈りを捧げ始めてしまいます。それに憤った神は、民を滅ぼすと言います。その神に対してモーセが、あなたが導き出した民に対してどうして怒りを燃やされるのですかと、とりなす祈りがあります。その時のモーセの祈りのおかげで、神は怒りを思いなおされます。

 子どもが与えられることを求めて祈ったハンナの祈り、ヨブの神と格闘するような祈り、ヨナの魚の腹の中で祈った祈り、イザヤがやってきてヒゼキヤ王の死を告げた時に、泣きながら主の前に生きて来たことを訴えたヒゼキヤの祈りもあります。挙げればたくさんあります。どれも、興味深いものばかりです。そういう聖書に記されている祈りを見るときに、気づくのは、どの祈りも正解だということです。どの祈りも模範的な祈りのパターンというようなものがあるわけではありません。みな、それぞれに祈りを通して、神との交わりをしているのです。

 今日の26節にこうあります。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

 前回もお話したのですが、このローマ書の8章のこの部分はローマ書の頂点ともいえる部分です。まず、ここで私たちが心に留めたいのは「弱い私たち」という言葉です。

 ここでは神の力強さと、弱い私たちが記されています。私たちは弱いのです。神との交わりになしに、一人では生きていかれない弱い者である。そのことが、祈りの前提です。そして、この弱い私たちは、力強い神と交わることがゆるされているのです。その交わりはどのようになされるかというと、お祈りです。祈りによる神との交わりです。そして、その神との祈りを結びつけているのが聖霊のお働きです。

 旧約聖書の祈り手たちも、私たちもみな等しく、神の御前に弱い者として立つのです。けれども、私たちは祈りにおいて、この私たちの弱さということを忘れてしまい、当然の権利のようにして祈ってしまうことがあります。神は自分に恵みを施すべきだというような思い、願えば神はそれに応えるべきだし、罪の赦しを求めれば、それを受け入れるべき。そういう私たちの思い違いが、「神に苦労をかける祈り」となってしまうのです。

 では、どう祈ることができるのか、やはり祈りの正解があるのではないかという考えが頭の中をよぎります。

 「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが」とパウロは言いました。パウロでさえ、そう思っていたのです。もちろん、パウロは主の祈りを知っていたはずです。旧約聖書の祈り、詩篇の中の祈り、そういう聖書の中に記されている多くの祈りを、私たちよりよく知っていたはずです。けれども、そのパウロでも、私たちは何をどう祈ったらよいか分からないと言っているのです。

 そこで、パウロは続けてこう言いました。

御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

 祈ることが分からない私たちに代わって、私たちのうちにおられる聖霊が、私たちのことばにならない思いを、うめきをもって、祈っていてくださるのだというのです。だから、安心するようにという慰めを語っているのです。この神と私たちを結び付けているのは、私たちのうちに働く聖霊なのだというのです。

 ここに「うめき」という言葉が出てきます。この言葉は22節にも、23節にも出てきています。22節に出てくる「うめき」は「被造物のうめき」です。23節に出てくる「うめき」は、「私たちの心のうめき」です。そして、この26節ではわたしたちの中に住んでおられる「聖霊のうめき」、「御霊のうめき」です。

 ここでまさに天地を創造された神が、私たちの生かされている世界の被造物たちのうめきを聞き、そして私たち自身のうめきを聞き、さらには私たちのうちに働く聖霊に心を向けておられるお方だというのです。そのお方が、私たちを救われたお方なのだとパウロは語っているのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いがなんであるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

 聖霊がうめきをもって私たちのためにとりなされる姿が、ここに記されています。うめきながらとりなしのために祈る聖霊のお姿というのは、新約聖書に記された主イエスがゲツセマネで祈られた姿と重なる部分があります。

 主イエスは弟子たちの信仰がなくならないように、あらかじめ祈ってくださるお方です。そして、私たちの中に働かれる聖霊も、私たちの中で私たちが言葉にできないような思いさえも、私たちに代わって祈っていてくださるのです。私の知らない間に、私の中で、聖霊は主イエスのゲツセマネのような祈りを、私たちのためにしていてくださるのです。これほど心強い祈りがいったいどこにあるというのでしょう。

 この27節に「人間の心を探る方は」とあります。カトリックのフランシスコ会訳では「人間の心を読み取る方は」と訳されています。

 もし、みなさんが心を探られたら何が出てくると思うでしょうか? もし、心を人から読み取られたら、そこで読み取られるものとはどんなものでしょうか? そう考えると、そこで出てくる私たちの心の奥深くにあるものは、普段私たちが人には見られないようにしている醜い考えであるに違いありません。もし、私たちの心の中で考えていることが、いつも外に出てしまっていたら、多くの場合、人々はそんな私たちに愛想をつかしてしまうと思うのです。
 
 けれども、ここで記されているのはそういう私たちにとって都合の悪い醜い部分のことではなくて、私たちの中におられる聖霊は、私たちの心の中で、本当の私たちに必要なものが何かを知っておられて、私たちが気づくよりも先に、私たちの本当の必要を祈っていてくださるのだというのです。もっと言えば、私たちにとって人に知られたら都合の悪いこと、私たちの内に秘めた罪を、聖霊は私たち自身に代わって神にとりなしていてくださるのです。こんなに心強いものはないのです。

 私たちの中で働く聖霊は、私たちを断罪するために働いているのではなくて、私たちを助けるために働いていてくださるのです。そして、この聖霊のとりなしこそが、弱い私たちを神が助けることのできる根拠となっているのです。

 私たちは神と交わることがゆるされています。交わるというのは、お話するということです。上っ面な会話をすることもあるでしょう。誰にも話せないような深い話をすることもあります。私たちにとって、この深い話ができればできるほど、私たちの心の重荷は軽くなります。けれども、自分が今何に悩んでいて、どんなことで困っているのか、本当は何が必要なのか、さっぱり思いつかないし、分からない、気づかないということもたくさんあるはずなのです。私たちはそれほど弱い存在です。

 でも、安心してください。私たちのうちに働かれる聖霊は、私の根本的に必要なものを、知っていてくださっているのです。私たちの汚い、決して人には見せられないような醜い考えさえもご存じの上で、まるでゲツセマネの主イエスのように、その私たちの心のうめきを、私たちに代わって祈っていてくださるのです。

 しかも、その聖霊のとりなしは、「神のみこころにしたがった祈り」を私たちに代わって祈っていてくださるとさえ、パウロはここで言っています。

 私たちはどう祈っていいか分からない。手探りで毎日祈りを繰り返している弱い者でしかないのです。けれども、私はちゃんと祈れていないと不安になる必要はないのです。私は弱い存在だから駄目だと苦しむ必要もないのです。

 その神の御心にしたがった祈りとはどんな祈りかというと、この次に出てくるのですが、御子のかたちと同じ姿になるように、主イエスのようになれるようにということだというのが、この後の節に続いて記されています。

 聖霊は、私たちの中で働いて、主イエスのような完全な愛の人に変えられるように、今はまだ全然だめで、弱い罪深いものでしかない、まさにうめきのことばしか出ない私たちを、聖霊はそのうめきを言葉にして、神にとりなしてくださっているのです。

 私たちの主は、私たちの心をご存じです。私たちの弱さをご存じです。私たちの醜さを知っておられます。その私たちに聖霊を与えてくださり、その聖霊によって神との交わりに生きる者としてくださるのです。そして、やがて主イエスのような完全な愛の人へと私たちを作り変えてくださるのです。

 だから、私たちは毎日つたない祈りであったとしても、望みをもって神との祈りの交わりに生きることができるのです。

 お祈りをいたします。

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