・説教 ローマ人への手紙8章31-34節「絶対大丈夫!」
2022.01.23
鴨下直樹
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いよいよ、私たちはローマ書の最も美しい文章に耳を傾けることになりました。すべてのローマ書を説教しようと志す者は、この31節から39節までのところを語りたくて、ローマ書を選ぶのだと私は思います。
ここには、福音が集約されています。
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか
パウロはここまでで、すでに福音について語りつくしています。これ以上言うことがないほど福音を語ったのです。そのことを踏まえて、畳みかけるように語り始めます。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう
神が私たちの味方でいてくださるのだと、パウロは高らかに宣言します。これが、福音の要約です。神は、私たちの味方でいてくださいます。だから、もう敵などは存在しないのですとさえ言うのです。
翻(ひるがえ)って考えてみると、神の敵とは一体誰でしょうか。誰が、神に敵対しているのでしょう。それは、私たちです。私たちが神に敵対していたのです。神の望むことを行わず、神を悲しませ、神の福音をないがしろにし続けてきました。この神の敵であった私たちのために、その被害者であられた神ご自身の方から、和解の手が差し伸べられました。もう、争い合うのはやめようではないか。わたしには、あなたを赦す備えがある。あなたを私の側に招き入れるために最大限の譲歩をしよう。それは、あなたの身代わりとして、わたしの愛する息子を差し出すから、あなたはわたしのところに戻っておいで。そう言って、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださったのです。
そうして、神が味方になってくださったのです。私たちは神の陣営に引き入れられたので、もはや恐れるものは、一切、全くなくなった。これが、福音なのです。
「神が味方でいてくれるといいなぁ」という私たちの願望がここで語られているのではありません。これは、福音の最終宣言です。戦いは終わった。もう神が私たちの味方となってくださった。
あとは「はい。嬉しいです。本当に何から何までありがとうございました」と言ってすべてが終わるのです。その後にあるのは、完全な平和、完全な自由、完全な愛の世界が待ち受けているのみです。
もうこれ以上、何も言うことがない。福音とは、実にシンプルなものです。その後にあるのは、「アーメン」と「ハレルヤ」だけで十分です。
しかし、パウロはその後で、もっとも美しい愛の言葉を、主の愛の御業を語り出します。
32節。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
パウロはここで、神が味方でいてくださるというのは、口から出まかせで言っているのではない、ちゃんと根拠があるというのです。それは、主イエスが私たちのために与えられたという事実だとここで言うのです。
神は、私たち神の敵対者を得るために、最愛の御子を私たちに与えてくださいました。これ以上のことがあるだろうか。神はそこまでして私たちを神の側に招き入れてくださったのだから、それが証拠だというのです。これこそが、神の恵みの証拠だというのです。
もちろん、神が味方でいてくださるということは、私たちから完全に苦しみや困難がなくなるという意味ではありません。神が味方でいてくださるので心強いのですが、続く35節からは「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」というような言葉が列挙されています。これらのものが私たちに襲いかかってくることがあるのです。38節にもあります。「死、いのち、御使い、支配者たち、今あるもの、後に来るもの、力あるもの、高いところにあるもの、深いところにあるもの」。そういう、私たちの脅威になり得るものは、なおも存在し続けます。でも、確かな事実は変わらないのです。その事実とは、神が私たちの味方でいてくださるという事実です。
私たちの不安や悲しみの大きな部分は、誰にもこの苦しみや悲しみは理解されないと考えてしまうところにあります。考えてみれば、この考え方も自分の悲しみを絶対化しすぎているのです。ですが、そういう考えに支配されてしまうことはとてもつらいことです。とても悲しいことです。
けれども神はすべての悲しみを知っておられる。私たちのことを全部知っておられる。なぜなら、私の内におられる聖霊の祈りを聞いておられるからです。そのすべてのことを知っておられる神が、私たちの味方でいてくださる。こんなに、嬉しいことはないのです。こんなに安心できることはないのです。
中にはこう考える方があるのかもしれません。
「神は本当に私のようなものの味方でいてくださるのだろうか?」「私のような罪深い者はだめなのではないだろうか?」と。
よく考えていただきたいのです。神は間違いのないお方です。しかし私たちの方はというと度々間違いを犯す者です。私たちが神を信じられないとすれば、その問題は神の側にあるのではありません。信じられない私たちの側にあるのです。神が私の味方でいてくださるはずがないと私たちが考えることはできます。それは、私たち自身が信頼に値しないということをよく知っているからです。けれども、それと、神とは、まったく同じに考えることはできません。
神はわたしを見捨てられるはずだと思うのは、それだけ私たちが神から離れているからです。神を知ろうとしないからです。自分を基準にし続ける限り、この神の愛は私たちに近づくことはありません。自分を見つめることをやめて、神を見上げなければならないのです。
主イエスを見つめるのです。私たちが主を見上げる時、主イエスがどんなに私たちを大事にしてくださっているかが見えてきます。そこから見えてくるのは信じられないようなことばかりです。私たちの常識ではとらえられないことばかりです。
私のためにご自分のいのちを捨てる。私のために代わって裁かれる。私に代わって痛めつけられ、罵声を浴びせられる。これでもか、これでもかと、主イエスは私たちへの愛を示し続けられるのです。それが、主イエスというお方です。このお方は愛のかたまりのようなお方なのです。
この32節には「私たちすべてのために」という言葉が冒頭にあります。「私たちのために」という言葉が強調されているのです。この「私たちのために」という言葉は「死に渡された」と文章は続きます。主イエスは、私たちのために死なれたお方なのです。「すべての」というのは、「すべての人のために」とも取れますが、恐らくこの言葉は「すべての罪のために」という意味です。キリストは「わたしたちのために」働いてくださるのです。
私たちのすべての罪のために、主イエスは死に渡されたのです。そこまで神は、私たちのためを思って、主イエスを遣わしてくださったのです。だから、続く33節でパウロはこういうのです。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
誰も、神の前に私たちを罪ある者として裁くことができないのです。神が味方であるというのは、そういうことなのです。これは、私たちが死んだ後のこと、神の御前に裁判の場に立たされるときにということが、ここでは想定されています。
その時、この人は陰でこんな悪いことをしていたんです、と私たちを訴えることのできる者はもはやいないのです。なぜ、そう言えるのか。34節。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
私たちが、神の御前で裁きにかけられることがあったとしても、その時に、私たちのために死なれた方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着いておられて、私たちを弁護してくださる。とりなしてくださると言うのです。
「わたしがこの人の身代わりになったので、もうこの人は白です。義です。神よ、この者は無罪です」と宣言してくださるのです。
この後、応答の賛美として讃美歌21の451番「くすしき恵み」という曲を賛美します。「アメイジンググレイス」、「驚くばかりの恵み」として知られた曲です。
この曲を作ったジョン・ニュートンという作者は壮絶な人生を歩んだ人でした。7歳で熱心なクリスチャンの母親を失ってしまいます。8歳で全寮制の学校に入ると、その学校を2年で辞めてしまいます。その後は、父の手伝いをするために父の船に乗り込みます。17歳になると、一人で船に乗るようになるのですが、その時に寄ったある町で当時13歳のメアリーと出会い一目ぼれ。この時からジョンは好きになったメアリーに夢中で、そのために自分の人生を棒にふってしまいます。当時は海軍に入る若者を探しては徴兵するという時代でした。19歳になったジョンはメアリーに会いに行こうとして、海軍に無理やり入れられてしまいます。その後は父親が何とか頼んで、ジョンを助けようとします。そのために士官候補になるのですが、メアリーに会いたくて海軍から抜け出し捕まえられてしまいます。そして海軍の最も低い身分にされてしまいます。
そんなことを繰り返す中、商船に乗り込むようになりますが、そこでも、厳しいいじめを経験し、苦しいところを何度も通らされます。そんな中で、再び父親の助けを借りてグレイハウンド号に乗り込むことになります。このころ、悪いことばかり経験してきたジョンはキリスト教を馬鹿にするような態度を取るようになっていました。このグレイハウンド号が、やがて嵐にあい、船から投げ出されるという経験になるのです。故郷を目指していたジョンたちの船は大破。そんな中で、自分の人生を振り返った時に、もし神がいるならこのような状況でも自分は救い出されるのかと祈るようになります。何とか、嵐から助け出された時に、ジョンは神が生きているということを信じるようになりますが、今度は食べ物が残り僅かという中、海を漂流します。そして、約1か月後に、アイルランドの港に到着。
その後も奴隷船の商人をしたりするのですが、その後、初恋の人メアリーに2度プロポーズを断られますが、念願かなって25歳で結婚。その4年後病気のために船を降りることになります。その後何年か別の仕事するのですが、その頃、当時イギリスで有名な伝道者ジョージ・ホイットフィールドの弟子となり牧師になっていくのです。
この自分の人生が、アメイジンググレイスという讃美歌の歌詞の中に現れています。ジョンは長い間神を信じていませんでした。むしろ神をさげすみ、自分の幸せだけを求めては失敗するという人生を繰り返す中で、生きて働いておられる神で出会うようになるのです。
自分のようなものは神に救われるはずがない。そんな罪深い者であっても、神はご自分の御子を送ってくださり、神が味方となってくださったということをジョンは知るようになるのです。その経験から、神の恵みというのは考えられないほど大きなくすしい恵みだ、驚くばかりの恵みだと告白するように変えられるのです。
神は私たちの味方です。そして、神の御子イエス・キリストは私たちを救ってくださるばかりか、私たちをとりなし続けてくださるお方なのです。
ある時、祈祷会で、先生の口癖は「絶対大丈夫」ですよね、と言われた方があります。私はあまり自分では意識していないのですが、特に祈祷会でいろんな証や、質問が出されて、そこで私が口を開くと、事あるごとに「絶対大丈夫」と口にしているようです。この言葉は、私の身に着いてしまった言葉なのかもしれません。
でも、どうして私が口癖のように「絶対大丈夫」と言うのかといえば、それは、このローマ書8章がその土台にあるからだと言えるかもしれません。
聖霊が私たちの内側で、私たちをとりなしてくださっていて、父なる神の右の座には主イエスがおられて、私たちをとりなしてくださっているのです。この三位一体の神の愛の中に私たちは入れられているのですから、絶対に何があっても、何が起こっても大丈夫なのです。たとえ病になろうとも、たとえお金がなかろうとも、たとえ死ぬことになったとしても、絶対大丈夫。神が味方でいてくださるのです。
絶対大丈夫な神が私たちの味方でいてくださるのです。だから、私たちは絶対に大丈夫と、私は言うことができるのです。
お祈りをいたします。