・説教 ローマ人への手紙9章1-5節「大きな悲しみと痛みを越えて」
2022.02.06
鴨下直樹
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ローマ人への手紙も、今日から9章に入ります。この9章から、また新しいテーマで語られています。
パウロはこの前のところで、神の愛を高らかに宣言しました。神の愛は、主イエスを信じて神の子どもとされ、義と認められた者を絶対に見捨てることはない。これが、神の愛の姿です。パウロが語る福音です。主イエスに贖われ神のものとされている人たちは、神に見捨てられることはない。これが8章の終わりでパウロが語ったことでした。
ただ、パウロには大きな悲しみがありました。パウロはこの8章の最後の言葉を、痛みを抱えながら宣言したのです。というのは、神の民であるイスラエルのことを、ユダヤ人たちのことを、当然考えなければならないからです。
パウロは異邦人に福音を語るように神から召しを受けました。パウロはもともと、ユダヤ人です。そして、キリスト者たちを迫害するほど、ユダヤ人たちが律法を大切にして生きるその生き方に誇りを覚えていた者の一人です。そのパウロは、主イエスと出会い、神の御心を知ります。神は、ユダヤ人だけでなく、すべての人を救いたいと願っておられることを知ったのです。そして、そのために神は、御子主イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架につけ、よみがえらせたことを知りました。それで、パウロは異邦人たちに、ユダヤ人を苦しめているローマの人々にさえ、福音を届けて、主イエスを信じるようになって欲しいと願う様になりました。パウロは回心した後、三度にわたって伝道旅行をします。パウロの伝道は成功して各地に教会が生まれます。異邦人たちがどんどん救われる姿をパウロは見て来たのです。
そのようにして福音がローマにまで届けられて、ローマに教会が誕生します。そのローマの人々に、パウロはこの手紙を通して神の愛を高らかに宣言しました。神は、あなたがたを決して見捨てるようなことはなさらない。神は、あなたがたの味方。どんなことが起ころうとも、神の愛から引き離されることはないと。
そうすると、その言葉はまるでブーメランのように自分自身に跳ね返ってきます。その言葉は本当か?パウロの同胞であるユダヤ人を見て、本当にそんなことが宣言できるか? 不信仰なユダヤ人、不従順なユダヤ人は神から見捨てられ、バビロンに支配され、アッシリアに侵略され、ギリシャ、ローマに支配されてしまっているのではないか。今や、神の約束の地であるイスラエルの土地すらも、ローマの支配のもとにあり、エルサレムにある教会もローマの顔色を窺っているのではないのか。そんな中で本当に、神はあなたがたを見捨てない、絶対大丈夫なんてことを言えるのか。言って大丈夫なのか。
神の愛の宣言は、ユダヤ人にとっては痛みを伴う言葉でしかないのです。
パウロはこのローマ人への手紙の9章から11章までの3章で、ひたすらこのテーマを扱います。テーマは、神の愛は、不従順な者でも本当に見捨てることはないのか、です。神はイスラエル人をどうなさるのか。それが、この3章のパウロのテーマです。
この9章から11章までは、言ってみればこのローマ書の中で話がそれた、いわゆる脱線したテーマの話といえるかもしれません。ユダヤ人の救いというテーマはローマの人たちが聞きたかったテーマではないともいえます。けれども、この3章で扱っているテーマは、私たちにとっては、すぐに神の御心から離れてしまう弱さを持つ私たちにとっては、必要不可欠な箇所ということができます。
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
1節と2節でパウロはこのように語っています。
パウロはずっとこの悲しみを抱えながら伝道してきたのです。自分の伝道で異邦人が救われていく度に、なぜ自分の同胞であるイスラエル人は回心しないのか。そういう悲しみです。
この悲しみと同じ思いを多くの親は経験します。自分の子どもがどうして信仰に生きようとしないのか。子どもの頃は教会に行っていたのに。一緒に聖書を読み、お祈りもしたのに。今はまるで教会に行こうともしないし、聖書を開きもしない。息子は、娘は、夫は、妻はこの先どうなるのか。私の兄弟は、家族は、友達はどうなのか。
不従順に対して、私たちはどう考え、どう祈り備えるのか。パウロと同じように、私たちも言うのです。
私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
この痛みを知らない者はおそらくいないでしょう。愛を抱くものは、私たちの愛する家族が、愛する者が、神に対して不服従であることを、自らの痛みとするのではないでしょうか。
パウロは言いました。
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
この3節のパウロの言葉は、大げさな事でも何でもなくて、パウロの心のからの思いがあふれた言葉です。
愛する者のためならば、自分の身を犠牲にしてもいい。自分が呪われてもいいから、神の救いを知って欲しいと願うのは当然の願いです。
パウロにそこまで言わせているのはイスラエル人のことだと4節と5節に続きます。そもそも、イスラエル人は神の子どもの民で、神の栄光に預かるものとされ、契約を与えられ、律法を与えられ、神との礼拝の中に入れられていた存在で、キリストご自身もこのイスラエル人の中から出たのだと語り続けていきます。
ユダヤ人に与えられた特権、祝福の数々を数えれば数えるほど、ユダヤ人が何を失ったのかに、目が留まります。
パウロはここで、自分は救われたので私は良かったという視点に立ってはいません。自分が受けた神の救いを、何とかして同胞にも知って欲しいと切に願っているのです。そのためになら、自分が犠牲になってもいいとさえ思っているのです。
福音は、自己満足では終わらないのです。自分から周りへともたらされるものです。しみ出し、溢れ出していくものです。嬉しいことが起こると、どうしても人に話したくなってしまうことと似ています。人にも知って欲しいと思う。それほどの魅力があるのが福音です。
パウロは、伝道の旅行の時に、いつも新しい町に着くと訪れたのはユダヤ人の会堂でした。そこに、ユダヤ人たちが集まっているからです。どの町に行っても、ユダヤ人たちに福音を伝えたのです。けれども、いつもそうですが、ユダヤ人たちから迫害され、伝道の邪魔までされて、結局その町で伝道できなくなるまで伝道するのですが、もうこれ以上は無理というところで、次の町に向かうことになるのです。
伝道するというのは、このパウロを見れば分かります。簡単なことではないのです。以前、ある方に、うちの子どもにパパっと聖書の話をして、洗礼を授けてくれませんかと頼まれたことがあります。何日か、その子どもたちといたのですが、残念ながら信仰に導くことはできませんでした。パパっと話して、チャチャっと洗礼の準備をして、ザバーンと水の中に漬けるという要領で洗礼を授けることができれば簡単ですが、人の心とはそういうものではありません。じっくり時間をかけてもダメということもあります。何年も求道して、何度も学んでも、決心できないこともあれば、すぐに洗礼に導かれる人もあります。そういうことを見ていると、いつのまにか、うまく導くやり方みたいなものがあって、そういう方法さえマスターしたらよいという気持ちになります。けれども、そんな方法があれば、とうに神様がユダヤ人にやっているはずなのです。
人間の側からみれば、絶対に無理と思える救い。ユダヤ人の救いもそうでしょう。私たちの周りの家族の救いもそうなのかもしれません。
パウロはこの5節でこう言っています。
父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。
パウロはここで「キリストは・・・神です」と珍しい信仰の告白をしています。ここでパウロは、キリストご自身がユダヤ人であって、そのキリストは万物の上にあると言います。なぜ、この告白が出てくるのか、少し不思議に感じます。
パウロはここで、肉からすれば、ユダヤ人から出たキリストと言いながら、そのキリストはすべての上におられる神だと言います。これが、神のなさることなのだというのです。
人間の視点と神の視点との違いをここで明らかにしているのです。
人間の視点で考えれば、ユダヤ人が救われるということは、ちょっと考えられません。絶望的に思えるほど、ユダヤ人は神に対して不服従です。けれども、そこで難しいときめつけてしまうのは人間の視点なのです。キリストも人間の視点でいえばユダヤ人だけれども、このお方は神だとパウロはこの5節で言うのです。
つまり、人間の見えている視点ではない、神の側のものの見え方があるということをパウロはここで語っているのです。
この視点、神の側ではどうなっているのか。これは、もちろん誰にも分かりません。神にだけ分かることです。ただ、パウロには分かっていることがあるのです。それは、神は、ご自分の子ども、ご自分が義と認めた者は絶対に諦めない。絶対に守り通す。この神の視点は、聖書の初めから変わっていないのだ、ということに目を向けさせようとしているのです。
福音派と呼ばれる多くの教会では、幼児洗礼をしていません。個人の信仰の決断に重きを置いてきたからです。特に、私たちの日本という国はキリスト教文化の国ではなく、外国から宣教師が来て、日本に福音が伝えられてきました。そして、今日に至るまで、キリスト教が主流になってはいません。だから、今でも、個人が主イエスと出会って、信じて、信仰に至るという道をとても大切にしています。
ただ、同時に知って欲しいのは、世界中のキリスト教信仰国、キリスト教の考え、聖書が中心になっている国の教会では、古くから幼児洗礼が行われ、神の契約というものを重んじてきました。聖書に記されている神の約束を重んじるのです。ですから、子どもが生まれて一週間たつと、神の契約、神の約束の子どもであると信じて、幼児洗礼を授ける習慣があります。
もちろん、この幼児洗礼を受けた子どもたちは12歳くらいになると信仰教育を受けて、この信仰は自分の信仰であると言い表して、その教会のメンバーに加えられます。これを堅信礼と言ったり、信仰告白式と言ったりします。
この考え方の土台にあるのは、神の約束を信じるという契約の信仰があります。私たちの同盟福音は、この伝統がありませんので、幼児洗礼を授けていません。このことは、私は本当に残念なことだと思っています。
というのは、ここでパウロが語っているように、私たちの従順という、私たちの側に、救いの決定権があるかのようになってしまうからです。もちろん、それは一面的には間違っていないし、重んじるべきことです。けれども、物事は私たちの視点だけではないことも、知る必要があるのです。
パウロはここで、神の側に救いの主権があるということを語っています。ユダヤ人は人間的にみれば、どう考えても救いに預かることができません。神に逆らい続けているからです。けれども、パウロはここで、神の視点は人間の視点に支配されていないと宣言するのです。
そして、ここに希望があるのです。もちろん、そこには神の子どもであるという前提があります。親が、自分の子どもを神から与えられた契約の子どもとして信じて、神の子どもとして歩んできた。私たちの教会は、この根拠があいまいなので、断定的なことは言えませんが、神は約束の子どもを、ご自分の子どもとすることのできるお方であることは間違いないのです。
そして、今は信仰からたとえ離れていたとしても、主イエスと出会って洗礼を受けておられる方は、今不従順であっても、神の御手の中に覚えられているということは言えるのです。
旧約聖書の中で、神はご自身の民に、何度も何度も悔い改めの機会を与え続けます。そこに、希望があるのです。神は、悔い改める者をないがしろにはなさいません。それは、聖書がずっと語り続けていることです。
神の前に悔い改めることもなく、昔幼児洗礼を受けたから、あるいは、昔洗礼を受けたから、大丈夫。そこまで言えるかどうかは私には分かりません。決めるのは、私ではなく神です。ただ、人間的にみて、絶望的に見えるような状況であったとしても、神はユダヤ人を救うことを諦めてはおられないのです。そして、そのことは同様に、私たちの家族や、友人を救いたいと思っておられることをも意味します。
はっきりしているのは、主イエスを信じ、主のみ言葉に従って生きようとするものを、神は何があっても守られるお方だということです。そして、たとえユダヤ人のような不服従な者に対しても、神はその救いを諦めてはおられないのです。
パウロは、同胞のイスラエル人のために、自ら痛み、悲しみを抱いていました。しかし、この痛みも、悲しみも、パウロ以上に抱いておられるお方があるのです。それが、私たちの主です。主は、神に対して不服従な者に対しても、何とか神の子どもとして歩んで欲しいと願っておられるのです。この思いを知ってください。そして、どうか、この主を信頼し、私たちも私たちの家族や、友人のためにパウロのように祈り求めて生きたいのです。
お祈りをいたします。